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夏の夜。
空には真円の月が輝いていた。
その物語の始まりの少女の前で、少女の母君が言う。
「上手ですね…本当に…よく…頑張りました…」
深い深い、どこかの森の中。往人の見下ろす夜空の下。長いつややかな髪をたたえたその女性は、ゆっくりと目蓋を降ろした。
「はは…うえ?」
小さく娘が呼びかける。その呼びかけに、微笑みをたたえた口許を弛ませ、母は再び瞳を開いた。「お続けなさい」
「わらわはずっと見ていますよ」
小さく頷く少女。そして手にしていたお手玉を再び宙に放り始める。
しかし、何度も何度も繰り返すけれど、うまくいかない。それでも、母は娘のその姿を眺めていた。
往人もまた、ただまっすぐにそれを見つめていた。
わかる。
傷ついたあの女性は、もう──
やがて、その女性は微笑みをたたえたまま、小さく言った。お手玉を続ける娘を見つめながら、自分を取り囲むようにして控えている青年と女性にだけ、聞こえるような声で。
「これでもう、思い残すことは…ありません」
月明かりの元で、その頬が白く透き通っていくのがわかる。
往人は目を伏せた。夢──これは夢なのか?
あいつが見たのと同じ、夢なのか──?
静かに、声が響いた。
「ただ…分かち合いたかった。この子と…翼を、重ね…夏空を…心の、まま…に…」
瞳が閉じられた。
お手玉が三つ、とさっと地面に落ちた。
長い、沈黙があった。
往人は目を背けた。
夜空には、不釣り合いなほどに美しく輝く満月があった。
「神奈、もういい。もういいんだ」
「離せっ、離さんか!」
少女の声が聞こえてくる。
青年の手をふりほどき、それでもなおお手玉を続けようとする少女。深い深い森の中、月光の差し込むその場所に、少女の声が絶え間なく響き続けていた。「わらわはまだ、一度も成功しておらぬ!」
母を失った悲しみ。
それを認められない、弱さ。
青年の手を振りほどき、少女はなおもお手玉を拾おうとする。「わらわは──!」
手を伸ばす。その少女の腕をつかみ、控えていた女が少女の頬を、強く打った。
しんとした夜空に、その音が悲しく響き渡った。
──小さく、呟く声。
「もう──目を開かぬのか。余が願うても、かなわぬのか?」
答える青年の声が、往人の胸に突き刺さる。
「届かない願いもあるんだ」
そして少女は、声を上げて泣いた。
悲しみの涙。
「悲しい、夢」
呟く小さな声に、往人は同じ空にいる彼女を見た。「観鈴…」
「かなしいね…」
彼女のちいさな声をかき消すように、深い森のどこからともなく鬨の声があがった。野太いこだまが山々を響き渡り、幾重にも重なる。
空気が、色を変えた。
往人は森の中の少女たちに視線を落とした。「…まだ終わってないぞ」青年が小さく呟く。
"この少女を、あたりまえの幸せに導くまでは。"
声が、聞こえたような気がした。
「わたしたちの見続ける、夢」
見つめながら、観鈴は言う。
「悲しい記憶」
青年に手を引かれ、少女は、そして連れの女性は野山を駆け抜けていた。山をうならせる声からなんとか逃れようと、足を引きずり、振り返り、掻き分け、走り続けていた。
「…観鈴」
往人は小さく呟く。
「おまえはこの結末を──」
少女は答えない。ただ、憂いを込めた瞳で、その少女を──同じ少女を──見つめている。
やがて少女たちは森の奥深く、しんと落ち着いた夜気の中に身を預けた。
「ふたりとも、願いはあるか?」
夜の闇の中、少女が静かに言う。
「願い、か?」
青年は軽く笑っていた。
「そうだなあ…」
「わたくしにはございます」
連れの女性が微笑みと共に返す。
「神奈さまと柳也さまと、いつまでも暮らしとうございます」
青年は口許を弛ませて頷いた。「それもいいかもしれないな」
「どこか静かな土地に、小さな庵をかまえましょう」
「食い扶持くらいなら、俺がどうにかできるしな。畑を耕すか、狩りをするか…」
「海の近くなら、漁をすることも出来ましょうね」
「海、か…どうせなら、西の方の暖かい海がいいな」
「それはたいそう心地よく暮らせましょうねぇ…」
夢…
往人はその風景をじっと見つめている観鈴を見た。「森の中で話をしているの」「誰と?」
「よく覚えてないけど、すぐ近くに、誰かが寄り添っててくれた。わたし、その人に『海ってなんだ?』って聞いた。そうしたら、教えてくれたの」
いつか観鈴が話してくれた、自分が見た夢の話。
柔らかな月光の下、屈託なく話す三人の姿があった。他愛のない話。海の近くに皆で暮らす夢の話。そしてその小さな村の夏祭りに、皆で行こう──
「観鈴…」
往人もまたその景色をまっすぐに見つめたままで、聞いた。
「おまえはこの結末を──」
「これは、夢であるな」
少女が言う。すっくと立ち上がり、静かに。「余の夢だ…」
大きく広げた両袖で、そっと宙を掻き抱く。この場でかわしたすべての言葉を、自分の中に閉じこめるかのように。
「夢はつらい夢ばかりではない」
そして少女は夜空を見上げた。そこにいる、誰かに向かって言うように。そして自分がたぐり寄せようとしている結末を、詫びるように。
「神奈?」
青年がその横顔に向かって問いかけた。
「楽しかったぞ」
少女は短く言う。
「決して、ここから動くでない」
「…動くなって、おい?」
「余の、最後の命である」
そして──光と共に翼が広がった。「末永く、幸せに暮らすのだぞ…」
少女を中心に風が渦を巻く。木々がざわめく。羽ばたく翼に、光が舞い上がる。
翼の少女。
往人はその輝きに手をかざし、巻き起こる風に激しく舞い踊る髪の奥の瞳を伏せた。少女が自分の目の前を抜けて、月夜に舞い上がっていく。
「よせっ!」
往人は少女に向かって、我知らずに叫んでいた。届くはずない。これは夢なんだ。遠い昔に起こった、彼女たちの、記憶なんだ。
「おまえが囮になんかなったって…!」
青年もまた、駆け出そうとしていた。「柳也さま、追ってはなりません」女が立ちはだかり、言う。
「神奈さまは、心から願っておいでです。柳也さまに生きながらえてほしいと」
「俺は…俺は神奈の随身だぞっ」
「もはや違います」
そして女は、瞳を空に向けた。
「神奈さまにとって柳也さまは…」
往人もその視線の先を追う。中天には、満月があった。
その中を、宝玉のような翼をきらめかせ、少女は天に向かって昇っていった。
山稜から、禍々しい呪詛のうねりが響いてきていた。光が、そのうねりの中にかき消えていく。苦しげに瞬きながら、ゆっくりと。
「神奈っ!」
我を忘れ、青年は叫んでいた。
呪詛のうねりの中、風が衰えていく。光が、消えていく。
闇の森の中から声が響いた。「…今だ、射かけよ!」地上から空へ向けて、夕立のように次々と矢が放たれる。空を裂く音に、光とともに羽が散り、少女の身体がぐらりと傾いだ。
「もっと高く飛べっ!もっと高くっ!」
青年が見つめる先、夜空の向こうへ少女は昇っていく。叶わぬ願いを、天に届けるために。
追いすがる鎖のように、呪詛の声も高まっていく。
「もっと高く!もっと──!」
そして響いたひとつの空を裂く音に、はっとして、誰もが息を飲んだ。
光がはじけた。
真っ白な、まばゆいばかりの光を放っていた羽が、夜空に飛び散った。
「夢の終わり──」
静かに言う少女の声が、往人の耳を貫いた。