studio Odyssey



夏影

   6

 夢。
 どこまでも続く、青い空。
 風の生まれる場所へ向かって、跳び続ける、夢。
 空を飛ぶ、夢。
 だけれど、世界で一番悲しい夢。
 羽根の生えた自分。遥かな空を飛んでいる自分。
 夢を見ていた。
 真っ白な翼で、空を飛んでた…わたし、真っ白な翼で、空を飛んでた──
 最後の、夢。


 波の音。
 寄せては返す波の音が耳に届いていた。
 夢?夢の、音?
 目蓋の向こうに見える光。
 観鈴はゆっくりと目を開けた。


 世界は美しい赤色に染まっていた。
 空も、砂浜も、コンクリートの堤防も、海も、すべては美しい夕陽の色に染まっていた。
 大きな陽が終わりの時を迎えるために、遥かな空と海の交わる場所に沈んでいく。
 悲しさや寂しさ、辛さ、全てを包み込む、憂いに満ちた深い色で輝きながら、遠い、だけれど、手を伸ばせばいつか届きそうな場所に沈んでいく。
 小さく息を吸い込んで、観鈴は頭を動かした。声が、聞こえた。「魔法が使えたらって、思ったことないかなぁ?」
 声に顔を向ける。堤防の上、自分の隣に、赤い夕陽に照らし出された佳乃の姿があった。
「魔法が使えたら…」
 その手の中に、彼女の黄色いバンダナ。
「魔法が使えたら、この空を飛んで、その向こうにまで行けるのになって、思ったことないかなぁ」
「まほう…?」
 少女は言った。「このバンダナを外したとき、あたしは魔法が使えるようになるの」それは叶えられなかった少女の願いだった。「人は、魔法を使えない」
「人は、空を飛べない」
 手の中のバンダナを、佳乃はゆっくりと折り畳んでいた。「でもね──」
「往人くんは、魔法使いさんなんだよぉ」
 佳乃は笑った。
「すごいよね、お人形が動かせるの。不思議。とっても不思議」
「往人さん…」
「どうしてだろう?」
 大きく息を吸い込んで、佳乃は遥かな海の向こうに沈む夕陽を見た。観鈴はただ、その少女の横顔を見つめ続けていた。彼女の言葉、ひとつひとつを、この夕暮れの中にある宝石箱の中にしまい込むために、ひとつのかけらも、こぼしてしまわないように。
 佳乃は言う。「どうしてだろうね」
「私は、魔法を使えるようになって、空を飛べるようになったら、お母さんに会いに行きたかった。ただ、それだけだった。あたしの中にある悲しみを認められない、あたしの弱さ。だから、使えやしない魔法に、望みをかけてたんだと思う」
 佳乃は右の手首を見た。そこにバンダナはもうない。左手、折り畳まれて、黄色い魔法のバンダナはそこにある。「結局、あたしに魔法は使えなかった」
 その声に悲しみのかけらはなかった。佳乃は微笑む。微笑みながら、言う。
「でも、往人くんは魔法が使える。どうしてだろう?」
 佳乃はまっすぐに観鈴を見た。
 観鈴はその夕陽を映す大きな瞳に言葉を飲んだ。「どうして──?」わからない。わからないから、佳乃の言葉を待つ。佳乃は、答えを持っているような、そんな気がした。
 そっと目を伏せ、佳乃は黄色いバンダナを胸に抱いた。そして、夕陽に照らされた堤防の上に立ちあがった。
 風が吹き抜けていく。観鈴が見上げる風の中、少女はまっすぐに、言った。「魔法ってね──」
「きっと、誰かを幸せにするためにあるんだよ」
 彼女の手の中のバンダナが、風にひるがえった。
「だから、往人くんは魔法が使える。きっと、そう」
 観鈴を見つめて微笑む。「だからあたしも、ひとつだけ、今なら魔法が使える」はねるようにして、佳乃は観鈴の前に向き合ってしゃがみ込んだ。風にひるがえっていたバンダナを、器用に、観鈴の右手首に巻き付けて、結び目を、きゅっと締めつけて、「これを結ぶとね…」観鈴に向かって微笑む。
「悲しみのすべてなんか、わすれちゃう。それで、それで、大好きな人のところへ、駆けていける」
「佳乃ちゃん…」
「あたしの使える、たったひとつの、魔法」
「…うん」
 小さく、観鈴は頷いた。


「飛べない翼に、意味はあるんでしょうか?」
 優しく澄んだ声。
 観鈴は声に顔を向ける。遠く、海の向こうに沈みゆく夕陽を見つめながら、美凪は小さくつぶやいていた。「空を飛べない人に、もしも翼があったとして、その飛べない翼に、意味はあるんでしょうか?」
 憂いを込めた瞳が、赤く輝いている。観鈴はその瞳を見つめて、小さく返した。「飛べない翼の、意味?」夢の中の自分には、翼がある。翼を持って、空を飛んでいる。ただ悲しみに満ちた空。その空を飛ぶための翼を持っていて──持っていなくたって、いい。悲しみの翼なんて、飛ぶことが出来ても、その翼に、意味なんかないように思えて──飛べない翼に、意味なんて──
「遠野さんは…?」
 少しだけうつむき、観鈴は聞く。「どう──?」
 視線を送ることなく、美凪はゆっくりと返した。
「飛べない翼には…」
 悲しい言葉を美凪は言う。
「きっと、何の意味もなくて…その翼を持つものは、その翼のせいで、空にも大地にも帰ることが出来ずに、彷徨うだけなんですよ」
 だけれど、その言葉を言う口許は、優しく微笑んでいた。まっすぐに夕陽を見つめた瞳は、「ずっと、そう思っていました」その向こうに飛んでいくための羽を、映しているように輝いていた。
「でも、それは違うって、教えてくれたんです」
 空の向こう、夕焼け色に染まる空の向こうを見つめて、美凪は大きく息を吸い込んだ。そして言う。せいいっぱいの想いに、笑顔で。
「飛べなくても、その翼は、それは空を飛んでいた時の大切な記憶。寂しさも、辛さも、悲しみも、そして幸せも──すべてを優しく包み込む、ゆめのありか」
「遠野さん…?」
「神尾さん?」
 観鈴の呼びかけにではなくて、美凪は彼女を初めてまっすぐに見た。じっと、その瞳の奥を見つめるようにして、言う。「翼…」「え?」
「神尾さんにも…翼はありますか?」
「わたしに…」
 夢の中の翼。あるはずのない痛みを感じる翼。
 記憶を継ぐ翼。悲しみの、翼。「わたしの…つばさ」
「あるのなら…」
 そっと美凪はスカートのポケットの中から、硝子の小瓶をとりだした。「その翼はきっと──」
「辿り着きたい場所へと、飛んでゆくための翼ですから」
 美凪は小さな小瓶を観鈴の手の中にそっと手渡した。
「これ…」
「…願い事を叶えてくれる、星の砂」
 美凪は優しく微笑む。「たくさん、たくさんの星たちがこの中に詰まってますから…」
「私たちの願いは、もう、叶えてもらいました。だから、今度は神尾さんの番です」
 夕陽に照らされた堤防の上、微笑むともだちに、観鈴もまた、微笑んだ。「ありがとう…」
 悲しいと思った。すごく、すごくうれしいのに、うまく笑えない。ふたりに、うまく微笑みかけられない。そんな自分が、すごく悲しいと思った。
 だから、せいいっぱい、笑って、観鈴は言った。
 ふたりも微笑みを返してくれる。
「…ありがとう」
 うまくは、言えなかったけれど。


「あほぅ」
 笑うような声が言う。ついさっきまで、寝ていた自分が寄りかかっていた相手が、背中に回していた腕で頭を軽くたたきながらに、言う。
「また、泣きそうになっとんで」
「お母さん…」
 つぶやき、観鈴は隣に寄り添う晴子の横顔を見た。「なんでや」晴子はその瞳に向かって屈託なく笑いながら返す。
「悲しいことなんか、何もあらへんのに、泣いたらあかん」
「…泣いてない」
「泣きそうやんか」
「まだ、泣いてない」
「せや」
 晴子はもう一度、軽く観鈴の頭をたたいて、笑った。「泣いたら、あかん。悲しいことなんか、もうあらへん」
「見えるか?」
 言いながら、夕陽の沈む海岸線に視線を送る。
「海や。観鈴の見たかった、海や」
「…うん」
「来られたやろ」
「…うん」
「──せや」
 そして晴子は立ち上がった。観鈴はその横顔を追う。晴子は言う。吹き抜ける風の中、長い髪を揺らして、見つめる娘の視線に言う。「叶えられない願いなんてない」
「観鈴の友達の言ったように、飛べない翼なんてない。翼は誰にだってある。魔法かて、誰にだって使える。要は、根性や」
「根性って…お母さん…」
 仕方なくて、観鈴は笑った。「ええか、観鈴」
 夕焼けの向こうに向かって、晴子は笑った。その手の中には、一羽のカラスの姿があった。「ようは、根性や。根性と、根性と根性と、あとは──」そして、
「ほんのちょいっとした、勇気や」
 そして晴子は、手の中の一羽のカラスを空に向かって放り投げた。
「踏み出すための。飛び立つための」
「あっ…」
 小さく観鈴が声を上げた。飛べない──まだ、空を飛べない翼──けれど、その鳥は広げた翼で風をつかんだ。
 強く、風が吹き抜けていく。揺れる髪に霞む空の向こうへ、その風をとらえた翼が舞い上がっていく。「そら…」つぶやく観鈴をおいて、翼は舞い上がっていく。どこまでも、どこまでも高みへ。
「そういう、もんや」
 風が、波の音を運んできた。
 観鈴の見つめる空の先、羽ばたく翼の向こう──波打ち際の砂浜に、青年の背中があった。
「行ったれや」
 晴子は笑う。
「観鈴の背中には、辿り着きたい場所にいくための、翼があるんやろ」
 腕を取って、晴子は観鈴を立ち上がらせた。崩れそうになる身体に、取り落としそうになった硝子の小瓶をバンダナの巻かれた右腕でつかみ直す。
 振り返る。
 友達が、微笑みを返してくれる。
 少しの躊躇。
 晴子が堤防から砂浜へと降りる階段の方へと背中を押してくれる。「あほぅ」手の中へ、古ぼけた人形を一緒に押しつけながら、笑う風にして、言いながら。
「こないな時に泣いて、どないすんねん!こういう時は、笑顔で好きな男の胸に飛び込んでったらええねん」
「…泣いてなんか…」
 かすれた声で言って、観鈴はいくつもの想いを抱きしめて、不器用に笑った。
「ないよ…」

ごま挿絵より

 少女は砂浜を静かに歩く。
 夕陽に包まれた波打ち際を、一歩一歩、ゆっくりと素足で歩いていく。
 胸に抱く右手首には、たったひとつの魔法を。少女の誰もが、もしかしたら使える、たったひとつの魔法を秘めたバンダナを。
 その手の中には、願いを叶える星がいっぱいに詰まった硝子の小瓶を。小さな、たったひとつの願いの込められた、小さな小瓶を。
ごま挿絵より  千年の夏の物語の中の少女は、静かに砂浜を行く。
 その胸には、同じ千年の時を越えてきた、はるかな約束と想いを籠めた、人形を。
 夕日に照らされた砂は、真夏の暑さをすこし忘れて、優しい温もりを放っていた。寄せては返す波の音が、過ぎゆく時を、夏の終わりを、確かに海の彼方から届けてくる。
 波が、少女の足跡をさらっていく。
 夏の終わり。
 風が、吹き抜けていった。
 少女の髪が、風の中に舞う。たどり着きたい場所へ──その場所へ進むための翼を、少女は赤く染め上げられた空の中に、まっすぐに広げるようにして、不器用に微笑んだ。
 手の中の小瓶を、バンダナを、古ぼけた人形を、握りしめる。
 こぼれ落ちそうになる想いのすべてを、二度と離さないように。
 夕凪。
 そして──たどり着きたかった場所へと、少女は踏み出した。
 それは夢の終わり。
 千年の夏の物語の、終わり。

ごま挿絵より