馬鹿くさい話だけれど、
1年前の7月7日。
俺はその子と、ここで逢う約束をした。
7月7日の七夕の日に、俺は、別に何の予定もなくて、ただ、ヒマを持て余していて、大学の仲間たちと夜、あって酒でも飲もうなんていう約束を、つい1時間くらい前にしただけだった。
で。
連中との待ち合わせまでの間、俺は、ヒマを持て余していた。
ので、暇つぶしにでもと、ナンバでもし始めたわけだった。
実際問題として、ここでナンパが成功してしまうと、夜の飲みに参加できなくなってしまうことも考えられた。だから、俺は、「落ちなさそうな美人」にだけ、声をかけることにした。
その中の一人が、彼女だった。
彼女は人待ち顔でずっと駅前のターミナルにいて、俺は、煙草を吸いながら、それを眺めていたんだった。30分?1時間?どれくらいだったか、忘れた。
だけれど、俺がナンパでもして時間つぶししようかと思い始めたころからずっとそこにいた。だからきっと、1時間くらいはそこにいたんだと思う。
「ずっとそこにいるけど、誰か待ってるの?」
「え?」
「あ、いや。俺も友達待ってるんだけどさ。なんか、だいぶん待ってるみたいだったし。なんか気になったんで…あ、ごめんなさい。ただそれだけ」
そして、俺はその子から離れた。たしかに、落ちなさそうな美人という所では、彼女は十分すぎるくらいに十分だった。だけれど、俺は、彼女から離れて、別の子に声をかけはじめたんだった。
たぶん、それは彼女が俺のタイプで、もしもナンパしちゃったりなんかしちゃったりすると、俺は、たぶんきっと、今夜の飲みには何が何でも参加しないつもりになってしまうと思ったからだろう。
で。
どれくらいの時間がたったか。
彼女が言った。俺に。
「ヘタクソだね」
ターミナルの手すりに寄りかかって、笑って。
「ワザとやってんだよ」
ふんと、俺は言った。よけいなお世話だ。
「そっちも、だいぶん待ってるじゃないか。彼氏、すっぽかされたんじゃないの?」
「別に、彼氏待ってるわけじゃないしね」
「はぁ?」
「別れるつもり。だから、もう、彼氏じゃない」
「知るか。そんな話」
「ヒマなら、話くらいつき合ってくれたっていいじゃん。もしかしたら、あなたに付いていくかもよ?」
「付いてこられたら困るの!だから、ワザとナンパも失敗してるの!」
「…サイテー」
「なんだお前…」
そして俺は煙草に火をつけて、彼女の隣の手すりに寄りかかった。
「彼氏さ。私より、10つ上」
「マジで!?」
「不倫の恋ってやつ?」
そう言って、彼女は笑った。
「でも、私、もう疲れちゃったんだよね」
「…わからん。不倫の感情と言うのが、ワカラン」
「あなたさ、今から10年後、私に『好きです』なんて言われたら、どうする?」
「……」
「それが不倫の感情」
「でも、疲れちゃったんだよね」
「何が?何に?」
「好きって事に」
「哲学は大学の授業だけにしてくれ」
「恋愛は哲学だね。マジで」
「で、別れんの?」
「うん。好きだからね。まだ。だから、別れる」
「また、すゲー哲学してるって。何だそれ」
「好きでさ、すっごく好きでさ。奥さんなんかに、絶対負けない自信、あるんだ。奥さんより、ずっとずっと好きでいる自信、あるんだ。だけどさ、私、自分が自分でいられる自信、なくなっちゃってきちゃって…」
「…お…おい。待て。俺はお前の彼氏でも友達でもないんだから、こんなとこで泣くな。赤の他人は、逃げるぞ。マジで」
「あなた、逃げないでしょ。そういうタイプじゃないもん」
「わかっててやるって、すゲー、ヤな女だぞ」
「そ。私。ヤな女。ヤな女に、なっちゃってる」
「あなた、いいね」
「何が?」
「なんかさ、ずーっとさっきから、ナンパしてるじゃん。好き勝手やってる感、ある。いいな」
「ありがとう。皮肉?」
「違うって」
「不倫の恋してるとね。自分が、だんだんなくなってくような気、するんだ。本当は私、こんな女じゃなかったはずなのになって。嫉妬したり、夜、どうしても押さえきれなくなって、無言電話しちゃったり、あの人の家の前まで、行っちゃったり…」
「……」
「今、ちょー嫌な女だなって思ったでしょ?」
「赤の他人的発言していい?」
「いいよ」
「ちょー、ヤな女だぞ。それ」
「同感。私もそう思う」
「だから、別れるんだ。もう、嫌だもん」
「って、ひっつくなって。俺は、赤の他人だっての」
「ねー、私の彼氏って事にしない?で、あの人にそう紹介するからさ。で、別れるからさ」
「人をそんなふうに使うなっての!」
「だよねー」
「私もいつか、あなたみたいに、好き勝手に、って言ったら変か。自由に、恋愛できるかなぁ?」
「俺だって、別に自由に恋愛してる訳じゃねーぞ」
「でも、そういう風に見えるじゃん」
「そうか?これでも、いろいろ思い悩むことはあってな…」
「嘘。ないない。絶対ない」
「決めんな」
「あなたの彼女は、きっと、楽しいとか、嬉しいとか、そういう感情ばっかりの、いい恋愛、出来るんだろうね」
「そんなのしらねぇって。聞いたこともない」
「きっと、たぶん、そうだよ。っていうか、今、彼女いないんだね。そういえば」
「うるせぇ」
「いたら、ナンパなんかしないもんね」
「…ちょー、ヤな女」
「同感。私もそう思う」
そして、彼女は俺の隣から離れた。
手すりから離れて、くるりと俺の方を向いて、言った。
「ねぇ。私、いつか、いい恋愛、出来るようになると思う?」
「なるね。たぶん」
「理由は?」
「あほくさい事、言っていい?笑うぜ。絶対」
「いいよ、言ってみなよ。どうせ、赤の他人でしょ?」
「同感。俺もそう思う」
「いい恋愛、出来るよ。たぶん」
「どうして?」
「たぶん、明日会ってたら、俺は間違いなくナンパしてる。だから、きっと、いい恋愛、出来るね」
「ばかじゃないの?」
「ぜってー言うと思った」
そして彼女は、ターミナルに近づいてきた男の方へと視線を送って、手を振った。
「じゃ…」
「…がんばれよ」
「何それ」
「何だその言い方」
「うそうそ。ありがと。あ、そうだ」
「今日って、何の日か、知ってる?」
「7月7日。七夕」
「じゃ、いいや」
「はぁ?」
「1年後、また、ここで」
「はぁ?」
「ジョークだって」
1年前、俺はここで、彼女と逢う約束をした。
馬鹿くさい、話だけれど。
時計をふと見やる。
約束まで、まだずいぶん時間がある。約束と言っても、当然、去年と同じように、7月7日の七夕に、さみしい大学の仲間たちと飲むって約束だけれど。
さて。
俺は煙草に火をつけると、この暇な時間の過ごし方を決めた。
「ずっとそこにいるけど、誰か待ってるの?」
「え?」
「あ、いや。俺も友達待ってるんだけどさ。なんか、だいぶん待ってるみたいだったし。なんか気になったんで…あ、ごめんなさい。ただそれだけ」
俺は笑う。
彼女も、思いっ切り、笑った。