studio Odyssey


第十七話




『元気にやってるのか?』
 心の内の心配を悟られまいと、電話の主はわざとあっさり聞いた。
「ん。それなりに」
 と、電話を持つ彼も、心配させまいと軽く答える。
「もともとお姉ちゃんは一人暮らしをしてたんだから、大丈夫だよ」
『いや。香奈がついているから心配なんだ』
 電話の声に、R‐0のパイロット吉田 一也は笑った。あのお姉ちゃんだもんな。心配したってしょうがないか。
「大丈夫だって。仲良くやってるし」
 電話口の一也の後ろを、R‐0専用輸送機『イーグル』のパイロットであり、ここ吉田家の居候でもある女、村上 遙がとことこと歩いていく。「あついあつい」と、Tシャツの裾をぱふぱふ上下させながら。
「遙っ…」
 受話器の口を押さえて、一也がたしなめるが、
「あっついんだもん」
 と、遙は唇をつんと尖らせる。
「あのねぇ…」
 だったらリビングにいろよ。
『香奈はアレだからな。お前が助けてやってくれよ』
「あ?ああ。うん。わかってるって。相変わらず心配性だね。お父さんは」
 一也は洗面所の方へ消えていく遙の背中を見ながら、電話の声に返した。電話の相手、父、吉田 拓也はこほんと咳払いをして続ける。
『その…なんだ…しっかりやってるのか?』
「やってるって」
 と、一也は苦笑い。まったく、不器用というかなんというか…
 父、吉田 拓也は何とかと言う外資系産業の重役をやっているらしい。らしい──というのは、いつも世界中を飛び回っていてあまり家にいることがなく、家にいるときには仕事の話なんてほとんどした事がないから、一也もよく知らないと言うことだ。(注*1)
 だけれど家にいるときはいいお父さんで、一也が小さい頃なんかは、出張から帰ってくる度に、その手に抱えきれないほどのお土産を抱えていたものだった。
『そのな…ヒマがあったら、一度こっちに戻って来いよ』
「うん。この夏…は無理かも知れないけど…冬までには一回」
『うん。そうしろ。お母さんも心配してる』
「ときどき電話があるから、わかってるよ。お父さんは?」
『ん?ああ。来週からホーチミンだ。向こうも暑いだろうな』
「そう…じゃ、正月には帰ってくるね」
『そりゃまた、随分先の話だな』
 と、二人、電話越しに笑い合う。
「お姉ちゃんに替わる?」
 一也は背中を反らして、リビングの方を見た。夕飯の食器を洗う音が途切れたところを見ると、姉の香奈も今なら電話に出られそうだ。
『いや。いい。随分長電話したしな』
 と、吉田 拓也は笑う。
 もともと、電話というものがそれほど好きなわけではない。仕事で仕方なく携帯電話などを使う事もあるが、自分からかけることなど滅多にしないし、今日だって、母の電話に便乗して、こうして一也と話をしているのである。
『じゃあもう切るよ。おやすみ』
「うん。おや──」
 と、一也が電話を切ろうとした時、
「ねぇ一也!!石鹸がないんだけど知らない!?」
 という、風呂場の方からのとてもとても大きな声に、一也はその顔をしかめざるを得なかった。──あ…これは…
『今のは誰だ?』
 ぽつりと父親、吉田 拓也は呟いた。
『香奈の声ではないな』
「いや…」
「ねぇ一也ってば!」
 遙がバスタオル一枚を身体に巻き付けた格好で廊下に顔を出す。
「石鹸が…!ああ…ごめん。まだ電話してたんだ」
「もう遅いよ…」
 ぽつりと呟いて、一也は受話器をそっと耳から離した。その次の瞬間に、父の怒号がそこから響いてくる。
『一也っ!今のは誰だ!?お前…こらぁッ!聞いてるのかッ!!』
「修羅場修羅場♪」
 楽しそうに言って、張本人は風呂場へと隠れてしまうのだから卑怯なことこの上ない。
「遙…」
『一也!誰なんだ!?遙?遙というのか!?なんだその頭の軽そうな名前の女は!!』
 ひどい言い様である。
「いや…あの…お母さんは知ってるんだけどね…」
『なっ…同棲してるのか!』
「違う」
 と、怒ったように一也。
「僕にだって選ぶ権利がある」
 それもひどい言い様である。(注*2)
『お前…親の目が届かないと思って、好き勝手やってるんじゃないだろうな』
「やってないよ!」
『嘘をついてもお父さんにはわかるんだぞ』
「ついてないよ!」
 一也のその声に、インターホンのチャイムが重なった。やった!誰だか知らないけど助かった。これで電話を切るいい口実が…
「あ。お客さんが来たや。じゃ──」
 と、一也が電話を切ろうと、そうつぶやいた時、ドアの方がちゃりと勝手に──勝手に開くわけはないので、もちろん外にいた人間が開けた訳なのだが、要するに鍵がかかっていなかったという訳で──がちゃりと開き、そこから顔を覗かせた男が、
「こんばんわー♪香奈さんを連れ出しに来ましたぁ」
 ばっちり受話器の向こうにも聞こえるであろう大声で、そう言ったのであった。
「…小沢さん…」
「あ。ごめん。一也君、電話中だったか」
 頭を掻いて、小沢 直樹は軽く笑った。悪びれた様子は、ほとんどない。
「あーあ…」
 ひょいと洗面所の方から顔を覗かせた遙が、目を細めて悪戯っぽく笑う。
「火に油だわ」
「は?」
 小沢は目を丸くするばかり。
「修羅場に飛び込んで来たってーの」
「は?なんだいそれ?」
「あ。小沢さん。こんばんは」
 と、リビングのドアをがちゃりと開けて香奈が顔を出す。
「ちょっと待ってて下さいね。今行きますから」
 にこにこ顔の香奈。
 苦笑いを浮かべるしかない、受話器を持った一也。
 なんだか状況がよくわからない小沢。
 「しーらない」と、肩をすくめる遙。
 数秒後、受話器から、父、吉田 拓也の怒号が響いた。
『一也!香奈を出せっ!!いや…違う!遙とか言うのを…いやそれもそうだが、今の男は何者だッ!!一也!香奈!お前たち、一体…どんな生活をしているのだッ!!』
「元気にやってます」
 一也はそれだけを言って、すぐさま受話器を置いたのだった。








 第十七話 ヒト夏の、ヒトツのデキゴト。

       1

 夏は暑い。
 科学的なことを言うと、太平洋高気圧がその勢力をまして梅雨前線を押し上げ、梅雨明け宣言が出されて気象的にも夏と呼ばれる季節になり、真夏日と呼ばれるセ氏30度以上の日が続いて──暑苦しいからやめよう。(注*3)
 とにかくも、夏は暑いと言うことだけで、学生生徒諸子には十分なのである。
 そのお陰で、一ヶ月もの間、休みがもらえるのだから。
「暑いわよねぇ…」
 と、一也の隣を歩いている遙は、うだるような暑さに音を上げた。
「セミってうるさいと思わない?暑さを、増させるような感じ」
「京都って夏は凄く暑いんだよ。知ってる?」
「ニューヨークの冬は凄く寒いわ。知ってる?」
 暑苦しい会話をしながら二人、どこへ向かっているのかというと──
 学校である。
 何のためにか。なに、簡単なことである。
 この暑い夏に、しかも休みなのに学校へ行く理由なんか、ひとつしかない。
 補修。
 ──だ。
「ああ…何が悲しくて、この暑いのに学校…」
 遙は、悲劇のヒロインでも気取るかのようにして手を組んだ。
「こんな暑い日は、クーラーのよく利いたお店の中でかき氷でも食べてたいのに…ああ…苺みるくが蜃気楼のように…」
「大変だね」
 さらりと言う一也を、キッと睨み付ける遙。
「人ごとみたいに言って。あんたも補修でしょうが」
「だってしょうがないよ」
 一也はふうとため息を吐き出した。しょうがないのである。なんて言ったって、彼らは日本を護るという重大な使命を持った、兼業学生なのだから。
 授業に出られない日も、多々あるのだ。
 何故そんなに出られない日があったのかはともかくとして、(注*4)
「補修で何とかしてくれるって言うんだから、いいじゃないか」
 一也は仕方なしに微笑む。
「よくなーい。私、今日の補修英語だもん。しかもオラコン。(注*5)帰りたいよぉおぉ」
 遙。これでもニューヨークからの帰国子女である。
「はぁ…とか何とかやってるうちに、学校だわ…」
 大きくため息を吐き出す遙。ユウウツだよぅ…
 肩を落として校門を通り抜ける。
 なんだかなぁ…
 一也は苦笑いを浮かべたままで、ぽりぽりと頬を掻いた。
「遙、補修終わってから部活出るの?」
「部活?」
 二人、お忘れかも知れないが、美術部の部員である。
「今日って、部活ある日だっけ?」
 振り向いた遙の顔が、ぱぁっと急に明るくなった。学校はキライでも部活はスキ。学生としては、実に正しい態度である。(注*6)
「でるでる♪じゃ、また部活でね」
 と、遙は手を振りながら昇降口へと走っていった。
「あ…うん」
 答えてから、一也は思わず振ってしまった手で、ぽりぽりと頭を掻いた。
 なんだかな。


「地球温暖化って言うのはアレだな」
 廊下に座り込んでぽつりというのは、一也のクラスメイト、吉原 真一である。
「地球温暖化が何だって?」
 美術室のドアの前の廊下に座り込んでいる一也と吉原。足元にはポカリとコークの缶。断っておくが、二人は涼しいからここにいるのであって、決して美術室の中に入れてもらえないわけではない。
「地球温暖化って言うのは、年々進んでるんだな」
 と、吉原はコークをごくり。
「一年で違いがわかるもんか」
 一也は笑って、汗をかいた缶を指先でつーとなぞった。一也の指を伝い、珠となって流れ落ちるひんやりとした水滴。
「でも今年はあちーぞ。去年よりも、何倍も」
「何倍も暑かったら大変だって。ま。確かに今日は暑いけどね」
 一也はポカリをその手にとって、ごくりと飲んだ。
「暑いはずだわ…」
 美術室の中。風はあるけれど、廊下ほど涼しくはない。
「前橋で40.7度だって…」
 遙は机に突っ伏して、目の前に置かれている小さなアンティークラジオを、恨めしそうに睨み付けた。もちろん、睨み付けたところでこの暑さがどうなるわけでもないが…
「何で夏は暑いんだろう…」
 と、ある意味哲学的なことを小さなアンティークラジオが答えてくれるはずもなく、彼は懸命になってノイズと戦いながら、全国の天気予報を告げていた。
『今日も全国的に猛暑となるでしょう。特に関東地方は午後からさらに──』
 聞きたくなかったニュースであった。(注*7)
「ああ…夏はイヤ…暑いのはイヤ…」
 そうは言うが、遙のことだから冬になれば「寒いのはイヤ」と言うに決まっている。
「あーあ…やっぱり、この暑さじゃ誰も来ないのね」
 ふうとため息を吐き出すのは前部長、神部 恭子。夏前に二年生に部長の座を引き渡したものの、クラブの出席率は相変わらず彼女が一番である。
「私が来てあげてるじゃーん♪」
 とは、前会計、佐藤 睦美の弁である。
「それに、一年生だって三人も来てるよ」
「も?」
「しかも、そのうち二人は補修で学校に来てるヤツ」
 ぽつりと言った遙の言葉に、
「うるさいぞ遙!」
 廊下からしっかりと一也が突っ込んだ。
「英語は赤点だったからなぁ…」
 と、もうひとりの補修者、吉原は大仰に頷いて腕を組む。
「でもホント、暑いですよね」
 三人目の一年生、松本 詩織は弱く微笑んで言った。
「絵の具はすぐ乾いていいですけど」
「暑いから描く気になんない」
 と、机に突っ伏したまま遙。ちなみに美術室の机はニスが丹念に塗られていて、触ると冷たくて気持ちいいのである。
「三年間部活やってたけど、ちゃんとした作品を文化祭とコンテスト以外で作った記憶がない」
 と、睦美。やや問題発言である。
「ところで二人?受験勉強はいいの?」
 と、神部 恭子前部長、爆弾発言である。
「あついよねー」
「そうだよねー」
「逃避しない!」
 そう言って恭子は、遙と睦美の頭をこつんと叩いた。
「暑いから勉強なんてできない」
 遙が最もらしいことを言う。が、もちろんクーラーの利いた部屋でも勉強なんてしやしない。
「キョーコはいいよねぇ…推薦とれそうなんでしょ」
 うらやましそうに睦美。
「私なんかバカだからなぁ…」
「私、T大学ならコネあるよ」
 遙はけらけらと楽しそうに笑って、言った。
「口聞いてあげようか?」
「T大って、理系の学校でしょ。私、文系だもん」
「うん。知ってる」
「遙のいじわるー」
 「えーん」と、嘘泣きする睦美。遙はその睦美の頭を「いいこいいこ」した。
「泣かない泣かない♪」
「ってゆーか、T大学ってあの教授たちの学校だろ?」
 廊下で、一也に向かって聞く吉原。一也は苦笑いを浮かべながら、吉原の言葉の「あの」という部分を気にしながら頷いた。
「そう。『あの』」
「一流でも、あんまり関わりたくないけどな」
「でも僕はもう関わっちゃってるからなぁ…」
 抜け出せなそう…
 流石は一也。だてに付き合いは長くない。
「あ。そう言えば…」
 詩織はぱっと弾かれたようにして、
「そう言えば、この前テレビ見てて始めて知ったんですけど、村上先輩のお父さんって、あの村上総理なんですよね?」
 睦美の頭に手を置いて、彼女の髪の毛をくるくると掻き回して、「やめてよぉーおぐしが乱れちゃうよぉ」と遊んでいる遙に向かって聞いた。
「あれ?話してなかったっけ?そうだよ」
 あっさりと言う遙に、
「聞いたこともなかったですよ」
 詩織はその目を丸くした。
「私も知らなかった」
 と、恭子。さらに睦美も、
「私も聞いたことなかったよ」
 と、笑う。
「もしかして、誰も知らなかった?」
 一也が吉原に向かって聞くと、彼も大きくこくりと頷き返した。…本当に誰も知らなかったんだ…
「別に話すようなことじゃないしねぇー…」
 遙は乾いた笑いをその顔に浮かべて、ぽりぽりと頬を掻いた。あれ?私、睦美にも話してなかったかぁ。
「ま。父親が総理だからって、私がどうというわけじゃないし…関係ないでしょーし…それにホレ♪」
 ぽんと手を打つ遙。
「そのお陰で私はこの学校に入れて、睦美に出会えたのよぅ!」
 と、睦美に抱きつき。
「おお、遙ぁ!一生はなさないぞぅ!」
 と、睦美も遙を抱きしめて、
「あついあついあつい!」
 二人、短い一生の抱擁を終えたのであった。(注*8)
「いつの間に、詩織ちゃんから佐藤先輩に鞍替えしたんだ?」
 廊下で吉原。一也に向かってぽつり。
「二股かけてんだろ」
 あっさりと言う一也。ある意味正解かも知れないと、吉原も思わず頷いた。
「それにしても、暑いわねぇ…」
 恭子ははぁとため息を吐き出した。本当に茹だりそう…
「恭子もベスト脱いじゃえば?」
 睦美は自分が脱ぎ捨てた、机の上のベストを指さして言った。
「そうですよ。その方が涼しいですよ」
 と、詩織も笑う。彼女も夏服用のベストは脱いでしまって、鞄の上に折り畳んで置いてある。(注*9)
「ヒモが見えちゃうけど」
 笑う遙なんて、始めっからベストなんて着てきてない。
 校則では、夏服ではベスト着用となっている。が、そんなもの守ってる女子など、いるわけがない。その件について先生方が何かを言おうものなら、「暑いじゃん」とか、「センセーなんかは私服だからいいねぇー」とか、そう言われてしまうのがオチである。
 よって、誰もが見て見ぬ振り。それに、
「ヒモが見えたらセクシーじゃん♪」
 と、睦美の言う様なことも、男子生徒諸子が反対しない理由のひとつに、あるのかも知れない事も事実である。
「遙、何色?」
 遙のYシャツの背中を、ぴっと押し広げて睦美は笑う。
「きゃー♪いやーん。あおですぅ。んで、むっちゃんは何色?」
「私、スタンダードなぴんく♪」
「詩織ちゃんは白ね♪」
「ちょっ…センパイ!見ないでくださいよぅ」
 ばっと、詩織は胸を隠した。も…もぉ…
「だって透けて見えるんだもん♪と。ところで、キョーコちゃんは何色?」
「遙のスケベ」
 受け流すように恭子は言うが、
「え?黒?ダイタンだなぁ」
 睦美は目を丸くして聞き返した。
「睦美ッ!」
「オジサン好みに紫だ♪」
「遙ッ!」
「って事はもしかして恭子、援助交際とか…」
 はっと口を押さえる睦美。
「してないっ!」
「じゃ、下着売ってるんだ」
 ぽんと手を打つ遙。
「してないってば!」
「あーやしぃーい」
 遙と睦美、二人してにやぁ♪
「ってゆーかアレだよな」
 こちら廊下。
「遙とか、佐藤先輩の方が怪しいって言うんだろ」
 一也は事も無げに、吉原の台詞を先取りして言った。
「うん」
 吉原も、大きく頷く。
「ああ…しかし暑い…」
 遙は再び机に突っ伏した。
「バカみたいな話してるからよ」
 ぷんと頬を膨らませる恭子。
「まだ続けたい?」
「しなくていい」
「じゃ、今日はみんなで夕涼みに行こう!」
 睦美は弾かれるようにして、ぽーん♪と手を打った。
「夕涼み?」
 訝しげに眉を寄せる遙。
「どこへ?」
「お祭り♪」
 にこにこ笑って睦美は続ける。
「今日うちの近所の神社はお祭りなの。けっこー大きなお祭りよん♪みんなで行こうよ。ね♪うん。けってぇー!」
「また勝手に…」
 ひとりで勝手に握りこぶしをつきあげている睦美に、恭子はやや冷めた声で言った。
「勉強しなくてもいいの?」
「息抜きよ」
 躊躇せずに言えるから凄い。
「それは、息抜きの合間に勉強してる人の台詞?」
「遙は行きたくないの?」
「別に、そんなことないよ」
「じゃ行くよね。吉原君や吉田君に決定権はないとして──」
「ってゆーか、無いよな」
 廊下では、吉原の言葉に一也が大きく頷いていた。
「うん。ない」
「詩織ちゃんも行こうね?」
 睦美は笑いながら、詩織に向かってウィンクして見せた。廊下の吉原と一也の声を耳にして──だ。
「あ。じゃぁ…行きます」
 詩織は少し照れ笑いを浮かべるようにして、答えた。
「ん。となれば。恭子ちゃんも来るしかないね」
「何でそうなるの?」
「だって、みんな来るんだよ。恭子ちゃんもここにいる以上、来なくっちゃ!」
「息抜き息抜き!」
 遙は「あはは」と笑って言った。こうなったら一蓮托生。地獄の果てまで道連れにしてやる──である。
「まぁ…別にいいけどさ…」
「それが恭子ちゃんのいいところだっ!」
 と、睦美。ぱちんと指を鳴らす。
 あーあ…私も、ここで折れちゃうからいけないんだなぁ…
 恭子はふうとため息を吐き出して、しかたなしに微笑んだ。でも、遙や睦美といるのは楽しい。だから、恭子はいつもそれでもいいと思っていた。
「よしっ!じゃあみんな行くことに決定!」
 嬉しそうに、睦美は続ける。
「じゃあ来るときはみんな、浴衣を着てくるように♪」
「何でそうなるの?」
「わかってないなぁ遙」
 ちっちっちっと指を左右に振って、
「まぁ遙はニューヨーク帰りだから仕方ないね。お祭りといえば、浴衣は基本だよっ♪」
 大真面目な顔をして言うから、睦美も大したものだ。なんか、教授とかシゲさんみたいな事を言うなぁ…と、遙は苦笑いを浮かべて見せた。
「睦美、新しい浴衣買ったのね?」
 恭子の言葉に、
「そうそうそう♪この前ね、すっごくかわいい奴を見つけてね。どーしようか迷ったんだけど…いいやーって」
 楽しそうに、睦美は答えた。
「買ったんだ?」
 と、遙。
「買ったんだ♪」
「だからお祭りに浴衣なんだ?」
 と、恭子。
「だって、彼氏いない私は、それ以外に着る機会なんて無いもん」
 睦美はつんと唇を尖らせる。
「まぁそういうわけだから♪」
「彼氏がいないっていう?」
 遙の言葉は完全に無視。
「みんな浴衣で集合っ♪」
 睦美はひとりで「おー」とばかりにこぶしを突き上げた。
 浴衣ねぇ…
 またも机にぺたっと突っ伏して、遙は小さくため息を吐き出した。
 そんなモノ持ってないからなぁ…香奈さん、持ってるかなぁ…
「オレ達はどうなるんだと思う?」
「さぁ?」
 廊下で、吉原と一也は腕を組んで、うーんと首を捻って唸った。(注*10)









       2

「あったあった!」
 香奈は楽しそうに笑いながら、とことこリビングに入ってきた。その手には、タンスの奥から引っぱり出してきた自分の浴衣が乗っている。
「たぶん遙ちゃんにも着られると思うけど」
「どうもすみません」
 と、遙はぺこり。
「浴衣で夏祭りとはオツだねぇ」
 なんて、リビングのテーブルに肘をついて笑っているのは小沢である。
「小沢さんも、よっぽど暇なんですね」
 一也は、ちょっとむすっとしたようにして言うけれど、
「そうでもないよ」
 と、小沢は真面目な顔をして言う。
 暇──ではない。
 そう、俺はこれでも仕事中。だけれど──
 広げた浴衣を遙の身体に当てて、「あ。大丈夫だ♪」なんて言って笑う香奈を見ていると、小沢もこんな仕事も悪くないもんだなと思うのだった。
 こういう風景も、いいもんだなぁ…
「何をにやけてるですか…」
 ん?と、一也の言葉に現実に引き戻されて、小沢は笑う。
「いやぁ…浴衣なんて、何となくノスタルジーを感じさせるなぁと」
「小沢さんてそういう人だったんですね」
 一也ははぁとため息。
「どういう人だと思ってた?」
「そういう人だと思ってました」
「うん。すばらしい洞察力だ。一也君、ルポライターになれるよ」
「別になりたくないですが…」
「そう?」
 小沢はひょいと肩をすくめて見せた。ま。俺の仕事なんて、あんまり割のいい仕事じゃないしな。
「じゃ、着替えよ。こっち来て遙ちゃん」
 と、香奈は遙の手を取った。
「浴衣着るなら、髪とかもそれらしくしなくっちゃね」
「はぁ…」
 楽しそうな香奈に、遙は力無く返事する事しかできない。香奈さん、結構世話好きだからなぁ…
 二人──部屋の中へ消えていく香奈と遙を、黒猫のウィッチが弾むような足取りで追いかけていった。
「一也君」
 ドアの閉まる音を耳にして、小沢がごくりと唾を飲む。
「どうする?」
「何がですか?」
 一也は何がなんだかよくわからない。小沢はそんな一也をちらりと横目で見て、小さく言った。
「覗くか?」
 ──なんだかなぁ…
「そんな事は一人でやってください」
「じゃ…」
「冗談ですよッ!」
 椅子から立ち上がろうとした小沢の服をぎゅっと掴む一也。
「何だよ。やっぱり一緒にやるか?」
「そういう事を言ってるんじゃありません!」
「ちっ」
 ことさら悔しそうに小沢は舌打ちをして、椅子に座り直した。
 あんなヤツ見て、何が楽しいんだか…と、一也はため息を吐き出した。ガサツで、全然女らしくないし、大体、遙は僕を棒っきれかなんかと勘違いしてるんじゃないか?全然警戒心はないし、平気でノーブラで歩くし、下着も「めんどくさいから」って僕にたたませるし、止めてほしいところをあげれば、きりがない。
「どうしたの?」
 不機嫌そうな一也の横顔に、小沢はたずねた。
「何でもないです」
「あ。そう」
 小沢は、不機嫌に返す一也の言葉に、何かを勘ぐったように微笑んだ。
 数分後──
「じゃあ〜ん♪」
 と、遙がリビングのドアを開けて姿を現した。
 結い上げた髪に一本のかんざし。香奈の物とは言え、サイズもちょうどの浴衣。
「似合う?」
 と、おどけて見せて、遙は悪戯っ子のように微笑んだ。
「いやぁ…やっぱり遙ちゃんは何を着てもよく似合う」
 うんうん頷いて笑う小沢。
「よくそうやって、恥ずかしい事をさらりと言えますね」
 一也はため息混じりに、感心したように言った。
「自分の感じたことは、正直に言わないと」
 小沢は腕を組んで、
「遙ちゃん、可愛いだろ?」
 一也の顔をひょいと覗いて楽しそうに笑う。さーて。どう答える一也君?
「ま…まぁ…馬子にも衣装って言葉もありますし」
 お。なかなか。
「うーん。遙ちゃん、これは一也君なりの、かなりのお褒めの言葉ですよ」
「一也、てーれちゃってぇー♪」
 遙は「あはは」と笑った。浴衣の裾で、口元をちょっと隠して。
 やれやれ。と、それを見て小沢はため息。
 照れてるのはどっちだか。


「じゃ、行ってきますね」
「うん。気をつけてね。一也、遙ちゃんを頼むわよ」
「わかってるよ」
「遅くなってもいいよ。香奈さんは僕がしっかり護ってるから」
「それじゃ、早めに帰って来ます」
「いいから。ゆっくりしてきなさい」
「ま。とりあえず、朝までには帰ってくるよね。一也♪」
「そんなの当たり前だろ」


「あ。来た来た!」
 睦美はひょいと手を挙げて、
「遙!ここ、ここ」
 向こうから歩いてくる遙と一也に、手を振った。
「おまたせっ」
 ぴょんと弾んで、遙はみんなに笑いかける。
「おー、髪なんて結っちゃって」
「いいでしょいいでしょ?うなじ、見て見て!」
「おおーっせくしぃ♪」
「あのねぇ遙、睦美、ここは部室じゃないんだから」
 恭子はため息混じりにたしなめた。もちろん、言っても無駄だということは、よっくわかっている。
「詩織ちゃんもうなじ出てる♪」
 と、髪を結っている詩織の首筋を、遙は指先でつーっ…
「きゃっ!もぉ…止めてくださいってば」
「感じちゃう?」
 と、にやぁ。
「遙!ここは部室じゃないんだからって」
「恭子、怒っちゃいや」
「そうそう。お祭りは楽しく♪」
「場をわきまえましょう」
 まるで引率の先生である。
「夕方になって、ちょっと涼しくなったな」
「そうだね。昼間暑かった分、風が気持ちいい」
 と、こちらは花のない男二人。吉原と一也。完全に今日はパセリである。(注*11)
 何はさておき、
「さて。では行きましょう」
 睦美を先頭に、浴衣姿の女の子四人と男二人という、実にうらやましい一行は、神社の鳥居をくぐったのであった。(注*12)


「さて。では行きますか」
 と、小沢はドアをがちゃりと開けた。
「じゃ、ウィッチはお留守番。よろしくね」
 香奈の言葉に、ウィッチはつまらなそうに「にゃあ」と鳴いた。お留守番はつまんないからやだよぅ。
「一也君が帰ってくるまでには、帰って来るつもりだから」
 と、ウィッチに笑いかける小沢。それでもウィッチは不満そうに香奈を見上げて、
「にゃあ」
 と、鳴く。香奈は、困ったように眉間にしわを寄せた。
「もぅ…じゃあ、帰ってきたら『金缶焼津のまぐろ』を開けてあげるから、今日は我慢してね(注*13)」
「うにゃ」
 焼津まぐろのパワーか、ウィッチは機嫌を直したように元気に鳴いて、リビングの方へと小走りに駆けていった。
 首の鈴が、ちりりんと軽やかに鳴り響く。
「機嫌を直したのかね?」
 目を丸くする小沢。
「みたいです。さ、行きましょう」
 笑う香奈。
「はいはい。では、参りましょう。ウィッチ!香奈さんをしばらくお借りしますよ!!」
「もぅ…小沢さんたら」
 リビングの方で、ウィッチは「どうぞお貸します」とばかりに、
「にゃー♪」
 と、鳴き返した。
 焼津のまぐろ♪マ・グ・ロ♪
 現金なものである。


「ねぇ遙?」
 小声で、睦美は遙の耳元にささやいた。
「ん?」
「吉田君て、詩織ちゃんとアレなんでしょ。どこまでイってるの?」
「何でそんなこと私に聞くの?」
「だって、一緒に住んでるしさ。知ってるんでしょ?」
「うーん…まぁ、大体」
 と、遙はごにょごにょと言葉を濁した。視線の先にいる一也たち、何をしているのかというと、先ほど通りががった『じゃがバター』の屋台を見て、じゃがバターは揚げるべきかどうかについて、実にくだらないと自分たちで言いながらも、はげしい討論を繰り広げている。
「いや、だからな。二つとも大体同じ値段なんだよ。両方ともだいたい500円くらい。とすると、やっぱり揚げてある方がいいだろう。いや、揚げてあるべきだろう!」
「でも、あれって時々焦げてたり半ナマだったりするし、胃にもたれるしねぇ」
「ちょっとヘビーだよね」
「わかってないなぁ。それが屋台の醍醐味だろう」
「それを言っちゃ…」
「ねぇ…(注*14)」
「なんだかなぁ」
 連中のくだらない会話を聞きながら、笑いをこらえている遙。自分たちでくだらないと言うだけあって、ホントにくだらないわね。
「んで、遙的には二人はどこまでイってると?」
 と、遙の耳に再び囁きかける睦美。
「どうしてそんなこと気にするの?」
「決まってるでしょー」
 にやにや笑いながら、悪巧みは楽しい物なのである。
「オネーさんたちが──」
「ぐちゃぐちゃとかき混ぜてあげようと?」
 じぃと見られて、
「ま…似たような物かも」
 睦美はちょっと気後れ。
「ほっといてあげなさいな」
 ふぅと、遙はため息を吐き出した。
「私たちとは違って、二人は純愛路線まっしぐらなんだから」
「遙は私のことを勘違いしている!」
「んだって?」
「どっちもどっちでしょ」
 と、恭子は二人の間に割って入った。
「後輩をいじめないの」
 交互に二人を睨み付けてたしなめるが、二人はぱちくりと瞬きをして返す。
「いじめてないもん」
「そうそう。思えばこそ」
「物は言い様ね」
 恭子は、はぁと大きくため息を吐き出した。
「吉田君は、そうは思ってないと思うけど?」
「そうかなぁ」
 睦美はぽりぽりと頭を掻く。
「吉田君は、詩織ちゃんのこと好きじゃないのかなぁ?」
「キライって事はないでしょ」
 ひょいと肩をすくめる遙。目を伏せて、少し笑うようにして言った。
「好きなのかどうかについては、たぶん本人もわかってないんでしょうけど」
 相変わらずくだらない会話を繰り広げている一也と吉原。それを聞いて笑っているだけの詩織。その風景は、友達の三人のそれ。だけれど──
 その風景は、それで十分画になっているのであった。
 遙はその風景に、ちょっと寂しそうに微笑んだ。


「不思議ですね」
 と、香奈は笑った。
「ん?」
 くわえた煙草に火をつけようかどうしようか思案しながら、小沢はボンネットに寄りかかった。
「そう思いません?」
 小首を傾げて、香奈もボンネットに寄りかかる。
「だから何が?」
 やっぱり止めたと煙草を戻し、小沢は眼下の夜景に視線を走らせた。とっておきの場所、と自分で言うだけあって、この丘の上から見える街の夜景は、彼も誰にも教えたことがなかった。ただ一人、今自分の隣に立つ人を除いては。
「何が不思議?」
「なにがですか?」
 香奈はぱちくりと瞬き。
「自分で言ったんじゃないか。聞き返されたったわからないよ」
「あ。それですか」
 笑って自分に視線を落とす小沢に、香奈は照れるようにしてうつむいた。
「んー…いいです。やっぱり」
 香奈はもじもじと手をもんだ。ちょっと、恥ずかしいな。
「気になる」
 軽く笑う小沢。
「気にしないでください」
 笑って、夜景に視線を戻す香奈。
「先に言ったのは香奈さんじゃないか。ちゃんと話は最後までしないと」
「そんなこと言って、小沢さんだっていつも話をはぐらかすじゃないですか」
「ね。ここの夜景、綺麗でしょ?」
「ほら。そうやって」
 香奈はくすっと微笑んだ。
 そして、
「不思議だなって思ったんです」
 その微笑みを見せたまま、続けた。
「広い広い世界で、どうして人はその人と出会えるのかなって」
「その人?」
 香奈の方に振り向いて、眉を寄せる小沢。香奈の方もちらりと小沢を見て、だけれど、少し照れたような笑いをその顔に浮かべたまま、またすぐに夜景の方へと視線を戻した。
「そうです」
 と、にこり。
「よくわからないなぁ…」
 香奈さんが何考えてるのかって、今でも時々わからなくなるけど…どういうことだろ?
「宇宙って、どれくらいの広さがあるんですかね?」
 夜景から星空へと、視線をそっとあげて、香奈はぽつりと呟いた。
「さぁ…どうだろう?」
 小沢も、香奈の視線を追いかける。
「なんだか知らないけど、宇宙は今も広がってるとかって言う説もあるしなぁ」
「でもこの広い宇宙の中でも、その人は一人しかいないんです」
「ん?」
「だから、これもヒトツしかないんです」
「ふーん…」
 小沢は小さく唸って、
「で。それって何?」
 香奈に振り向いて、屈託のない笑顔で笑いかけた。
「なんでしょう?」
 香奈は微笑みながら、小沢の言葉をするりとかわす。
「お。香奈さんがそんな手を使ってくるなんてね」
「小沢さんのまねです」
「良い子は、悪い大人の真似をしちゃいけません」
 小沢は、ひょいと肩をすくめて見せた。
「教えてよ」
「んー…」
 思案するように、香奈は顎に人差し指を当てた。
「そうですねぇ」
 よいしょとボンネットから離れて、歩き出す香奈。車から少し離れたところで立ち止まり、後ろ手に手を組んで、満天の星空に視線を走らせた。
「この気持ちです」
「は?」
「ヒトツしかないもの。この世界で、この宇宙で、ヒトツしかないものです」
 香奈はくるりと小沢に振り向いて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「だからこの気持ち、大切にしなくちゃいけません」


「あれ?」
 と、一也は後ろを振り向いた。あれれ?
 右手にぶら下げたビニール袋には、遙に「買って来てぇ♪」と言われた──もちろんお金はくれなかった──ジュースが入っている。全部で六本。要するに、結局全員分買ってくることになってしまったのである。(注*15)
 あれ?どこに行っちゃったんだ?
 人混みの中をくるりと見回していると、
「ああ、いたいた!」
 その中からぱっと現れた彼女が、彼の左腕をはしと掴んだ。
「もぅ。どこ行っちゃったのかと思っちゃった」
 ぷっと頬を膨らませる詩織。
「それは僕だよ」
 と、一也は苦笑い。
「詩織ちゃん、迷子になったかと思った」
「もぅ」
 建前は一也の付き添い。つけたのは遙だ。センパイ、気を利かせてくれたのかしら?
 一也の腕を掴んだまま、詩織は上目遣いに彼を見た。
「ん?」
 その視線に返す一也に、
「なに?」
 と、詩織は軽く微笑みかけた。
「どうかした?」
「いや…別に…」
 一也は照れくさそうにぽりぽりと頬を掻いて、
「その…なんか…詩織ちゃん、いつもと髪型違うから…」
 ごにょごにょと口の中で呟いた。そのー…何というか…
「髪型が違うから?」
 詩織はちょっとだけ眉を寄せて、小首を傾げた。その拍子に、結い上げた髪から後れ毛がはらりと落ちる。
「変?」
「そっ…そんなことないよ!」
 思わず声を大にしてしまった一也は、自分のその声にさらに照れた。
「はは…その…そんなことないよ」
 と、ぎこちなく笑いながら頬をぽりぽり。
「良かった」
 詩織も笑って、恥ずかしそうに頬を掻いた。
 ただぎこちなく笑いあう二人。いつもとちょっと違う二人の距離に、ふたりはちょっとだけ戸惑った。
 胸をくすぐるような二人の間の空気。その空気を、その音が静かに揺らす。
「あ…」
 一也は、その音に顔を上げた。
「ああ…始まっちゃった…」
 黒い夜空のキャンバスに、赤や黄色の花が咲き乱れ始めた。光の明滅と、美しい色彩の調和。そしてそれに続く心地よい爆発音と、見上げる人々の拍手と歓声。
 一也と詩織は、すこしの間だけその光の中で、ふたりの間に流れる時間を止めた。
「綺麗ね…」
 ゆっくりと時間を動かし始めるように、詩織がぽつりと呟く。
「うん…」
 一也も小さく頷き返す。
「行こう。みんなまってるよ」
 一瞬だけ詩織に視線を送って、一也は歩き出した。
 詩織はその一瞬に、ちょっとだけ戸惑った。だけれど、一也のなすままに身を任せ、彼の後ろに付いていくようにして歩き出した。
 一也の左手と、自分の右手とをつないだままで。
 光がふたりを照らし出す。
 チャーチのステンドグラスから降り注ぐ七色の光とはいかないけれど、詩織はこの生まれては消え、消えては生まれる幾千もの光の中で、細く微笑んでうつむいた。
 嬉しそうに、だけれど、少し恥ずかしそうに。
 つないだ手のぬくもりを忘れないように、詩織はその手をきゅっと握りなおした。
 ひと夏の、ヒトツの出来事を忘れないように。


「ただいまー」
 鍵がかかっていたから当たり前なのだけれど、やはり部屋の中には誰もいなかった。
「香奈さんはデートか」
 笑いながら、一也の顔をちらりと見やる遙。さて、オネーちゃんを盗られた一也君の表情は──と。
「なんだよ」
「なんでもー」
 遙は、ひょいと肩をすくめて見せた。ふふ。わかりやすい♪
「ウィッチー?いるのー?」
 サンダルをぽいぽいと脱ぎ捨てて、遙はリビングへ向かった。
「靴くらいしっかりそろえろよ」
 と、遙のサンダルを思わずそろえてしまう一也。ん…何やってるんだろ、僕。
 大体いつも、やってしまってからそう思うのである。
「ウィッチぃ、寂しかったねぇ。こめんねぇ」
「うにぁ♪」
 リビングの方から、遙とウィッチが戯れる声が聞こえてくる。
「かーずやぁ!」
「んー?」
 咽を鳴らしながら一也がリビングに顔を出すと、遙が抱いていたウィッチを、「ほい」とばかりに彼に投げ渡した。
「わぁあ…」
 落としそうになるのをなんとかキャッチ。ウィッチも落ちるものかとばかりに、一也の服に爪を立ててしがみついた。
「あぶないなぁ」
「にゃぁ」
「ウィッチ、ご飯食べてないみたい。あげてあげて」
 さらりと遙。
「何だよ、そんなの僕にやらせないで、自分でやればいいじゃないか」
 とか何とか一也は文句を言いながらも、「シンクの下の棚の中に、ウィッチの餌はあったかな?」と考えていてしまったりするのである。
「私、着替えなくっちゃならないもん♪」
 と、遙は浴衣姿でくるり。
「それとも、一也君はこーゆーカッコでの方がお好み?」
「何がだよ」
 不機嫌そうに言って、一也はウィッチを抱きなおした。
「ウィッチ?何がいい?しらすまぐろにするか?」
「うにゃー…(注*16)」
「んじゃ、そっちはよろしくー」
 と、遙はリビングのドアを出てすぐ左にある、自分の部屋──正確には香奈との二人部屋だが──の中に消えていった。二つのドアを、開けっ放しにしたままで。
「閉めてけよー」
 と、一也。ウィッチを抱いたまま眉を寄せる。
「いいじゃん、別に。クーラーが入ってるわけでもないんだし」
 部屋の中から、遙の声がよく届く。
「そう言う問題じゃないだろ」
 一也はシンクの下の棚の前に座り込んで、
「警戒心がないというか、なんというか…あーゆー女になっちゃダメだぞ。ウィッチ」
 と、ウィッチの耳に囁きかける。だがまぁ聞いているウィッチの方は、そんなことより目の前にある『金缶焼津まぐろ』だ。ういぃぃいい!和牛肉入りぃいぃぃ。
「問題って?どんな問題?」
「うん?」
 遙の声に顔を上げる一也。
「にゃ」
 ゆるんだ一也の腕から、するりとウィッチが飛び出した。ついでに『金缶焼津まぐろ』をパンチ。コトンという音を立てて、それは床に落ちた。
「あ」
「問題って言うと、一也が欲情しちゃうって心配?」
「何バカなこと言ってんだよ。あ。こら、ウィッチ」
 ウィッチは床に落ちた『金缶焼津まぐろ』に前足をかけて、
「にゃぁ」
 これがいいとばかりにひと鳴き。
 一也は、小さくため息を吐き出した。
「わかったよ…」
「ねぇ一也?」
「ん?」
 よしいょと再びウィッチを抱き上げて、一也は缶詰を拾い上げた。
「なに?」
 と、リビングのドアに振り向く。
「うん…」
 そのドアのもう一つ向こうの部屋では、遙が曖昧な微笑みを見せてうつむいていたのだけれど、一也はそんなこと、知る由もなく──
「うん…そのね…」
「んー?」
「その…」
 遙は細く微笑んで、肩を落とした。するりと、その肩を木綿の生地が撫でていく。
「うん…」
 足元に広がる藍色の花を見つめて、遙は思案するように唇に手を押し当てた。一瞬だけ浮かび出た答えに軽く笑い、結い上げた髪を止めていたかんざしとピンを、思い切るようにすっと引き抜く。
 少し茶がかった髪が、しんとした部屋の中で、さらりという音を立てて舞った。
「そのね♪」
 遙はひょいとTシャツに手を伸ばす。
「詩織ちゃんとはドコまでイったの?」
 ガンとなったその音は、一也が『金缶焼津まぐろ』を落とした音だろう。ウィッチが「うにゃあ」と不満そうな鳴き声を上げて、一也に抗議していた。
「なんだ。まだなんにもしてないんだ?」
 つまらなそうに言う遙の声に、
「関係ないだろッ!」
 一也は声を荒げて言い返した。ったく…何考えてんだよ…
「ねぇ一也?」
「何だよ」
 不機嫌そうな一也のその声に、遙は少し戸惑った。どうしよう…
「あのさ…」
 けれど、結局聞いていた。
「詩織ちゃんのコト、好きなの?」
 「関係ないだろ」と言う答えを心のどこかで期待していたのに、一也はそれを口にはしてくれなかった。
 沈黙。
 一也の返した答えは、ただそれだけだった。
「…一也?」
 二人の間の沈んだ空気に、ウィッチのか細い鳴き声が響く。
「そっか…そうなんだ」
「何が?」
「答えないって事は、好きって事なんでしょ?」
「どうしてそうなっちゃうんだよ」
「違うの?」
 一瞬、遙はリビングの方の壁へと視線を向けた。その目を、驚いたように少し丸くして。
「好きじゃないの?」
「いや…」
 唸るように、
「というか──僕にもよくわからない」
 一也は小さく答えた。
「ふぅん…」
 遙も一也の言葉に小さく頷く。──好きか嫌いか、自分でもよくわからない。
「遙には、わからないかも知れないけど」
 一也は笑っていた。自分の言ってることが、かなり変わっていると自分でわかっていたからだ。
「そんなことないよ」
 自嘲するように笑って、遙はTシャツに袖を通した。
「私にはわかる」
 ずっと一緒にいたいけれど、それが好きだからなのか、もっと別のことからなのか、よくわからない。仲間として好きなのか、恋人として好きなのか。
「私は、わかるよ」
 遙の言ったその言葉の意味を、一也はどう受けただろう。
 遙は目を閉じて大きく息を吸い込むと、
「ま。どっちにしてもがんばってよね♪」
 次にリビングに姿を現した時には、いつもと同じ微笑みをその顔に浮かべていた。
「一也、なんか食べる?私作ってあげようか?」
「遙の手料理!?」
「涙が出るほど嬉しいでしょう?」
 言い方が、やや答えを強要していた。


「ねぇ、遙」
 一也はリビングの床に座り込んで、ウィッチを撫でながら言った。膝の上のウィッチは、お腹もいっぱいになって、早くもお眠む状態になっているようだ。
「ん?」
 返す遙。
 ベランダに出て、彼女は夜風に吹かれていた。長い髪が、その夜風の中で優しく揺れている。
「なーに?」
 と、遙は振り向いた。ベランダの欄干に寄りかかり、一也に向かって言う。
「やっぱり、私の手料理が食べたい?」
「いや、それはいい」
 一也は笑った。正直、あまりお腹がすいているというわけでもないのだ。
「そうじゃなくてさ」
 ウィッチを撫で続けながら、言う一也。
「今まで聞く機会がなくて聞いてなかったけど、遙って、ニューヨークに留学してたんでしょ?」
「そうよ。だから、何か作ってあげようかって言ってるじゃない。こう見えても、料理くらいちゃんと出来るんだから」
「それは今度ね──そうじゃなくてさ」
「じゃ、なに?」
「ニューヨークに留学してた頃のこと、全然話してもらったことないからさ」
「なぁに、聞きたいの?」
 遙は、一也の言葉ににやぁと意味深に口許を弛ませた。
「何?どうしたの?一也が私のこと知りたがるなんて」
「その笑い顔は何だよ。ちょっと、気になったから聞いてみただけじゃないか」
 憮然とした表情で返す一也。
「いいよ、別に話したくなければ」
「私、本当はまだ向こうじゃ高校二年生の扱いなんだよ」
 遙は笑いながら言う。もちろん、話をしたくない訳じゃないのである。
「そうなの?」
 一也は目を丸くした。
「うん。だって、向こうは学校9月始まりだもの。まだ、9月になってないでしょ?」
 しかし、言うまでもなく遙は、日本ではれっきとした高校三年生である。
「じゃ、何で──」
「うーん…まぁ、理由はいろいろあるんだけれど、ニューヨークは、エネミーのおかげで壊滅しちゃったからね。その辺の問題と、後は、年齢の問題かな。別にちょっとくらいずれてたって、些細な問題でしょ」
「些細って──」
 まぁ、日頃問題にしていることに比べれば、些細なことかもしれない。なんて一也は思って苦笑い。それに、遙の父親は日本の総理だ。
「なるほどねぇ…」
「ニューヨークかぁ…みんなどうしてるのかなぁ?」
 そんな風に言って、遙は再び振り向いた。ベランダの向こう、夜空に明滅する光。成田空港より空にあがっていく飛行機の光を見ながら、遙はぽつりぽつりと言う。
「私ね、中学卒業してから、すぐにニューヨークに行ったんだ」
「…へぇ」
「なーんにも考えないでね。ただ、日本から飛び出してみたかったんだ」
「どうして?」
「日本では、望めばほとんどのことは出来たもの。パパの力で」
 つぶやきながら、遙は目を細めた。半分本当で、半分は嘘。だけれど、結局は自分が留学を決めたのは、似たような理由。
「一人でニューヨーク留学なんて、不安とかなかったの?」
 膝の上のウィッチが寝てしまったのを見て、一也はゆっくりとウィッチを彼女専用のベッドの上へと運んでいった。一度眠ると、ウィッチはなかなか起きないのである。
「あったよー」
 と、遙は笑う。
「第一、言葉が通じない」
「英語、話せた訳じゃないんだ?」
「ちょっとは出来たけどね。アメリカへは、比較的よく行ってたから」
「…なんか、やっぱり生活が違う」
 言いながら、一也もベランダへ出てきた。
「アメリカにいた友達を頼って、ニューヨークにアパートを借りたの」
 ベランダに出てきた一也に向かって、遙は「自慢話だぞ」と言う調子で笑いながら続ける。
「始めは一人だったんだけど、いろいろと不都合が出てきて、引っ越した。High schoolが始まってすぐくらいだったかな?もっとでっかい部屋を、ルームメイト達と一緒に借りて、共同生活を始めたの」
 遙は笑う。
「今と同じ様な感じ」
「へぇ」
「これが、一番私の落ち着くライフスタイルなんだろうな」
 言いながら、遙は一也のことを見た。一也は小さく、うなずきを返す。
 そして、軽く笑いながら言った。
「遙らしいや」
「なにそれ。なんかその言い方、気に入らないぞ」
 と、ぐーにした手を振り上げてみせる遙。
 一也は片目だけ閉じて、心持ち身を引いた。
「それで?」
「ん?んー…──それだけ。もうないよ」
 笑いながら、大きく夏の夜の空気を吸い込む遙。それだけ?それだけなんかじゃないじゃない。
 けれど、言っていた。
「気がついたら、ニューヨークはエネミーにぼろぼろにされちゃってた。それで、日本に帰ってきた。それだけ」
 都合のいい理由。一也には言えない、ニューヨークにもいられなくなった、本当の理由。
 もしかしたら、一也はわかってくれるかもしれない──けど、そんなこと言えない。
 遙は悪戯っぽく微笑むと、一也のことをじっと見つめた。
「な…なに?」
「それで──日本に帰ってきてみたら、日本にはなんと、巨大ロボットがあった」
 と、微笑みながら、一也のことを指さす遙。
「世界でたった一つの。R‐0というロボットが」
 そして彼女は微笑みを浮かべたままで、一也に向かって言った。
「ヒロインになるのも悪くないかな?──なんて思ったりした訳よ」


「ねぇ、一也」
 遙はベランダから外を見つめたままで、言った。
「ん?」
 隣にいた一也が、喉を鳴らして返す。
「なに?」
「今度は、一也のこと教えてよ。私も、一也が京都にいた頃のこと、よく知らないもの」
「何だよ、遙が僕のこと知りたがるなん──」
「怒るぞ?」
「はいはい」
 一也は仕方なさそうに笑いながら、言った。
「こっちに来る前は、京都の東山の方に住んでてね」
「うん──」
 遙は話し始める一也の横顔を、頬杖をついて見つめていた。
 ひと夏の夜が、静かに更けていく。


                                   つづく








   次回予告

(CV 吉田 一也と吉原 真一と松本 詩織)
吉原「ありがとう一也っ!!
一也「わ。何だよ突然…
吉原「オレはお前とゆー友達を持って、本当に幸せだ。
一也「ど…どうしたんだよ吉原?
詩織「原因はコレです。
一也「コレ?『としまえん夏の一日券』?
吉原「ありがとう一也っ!
一也「話が見えない…
詩織「次回、コレを吉田君は教授からもらうことになります。その枚数は四枚。一枚は自
   分、もう一枚は村上センパイ。さて、後二人。吉田君は誰といく?
吉原「一也、オレとお前は親友だよなっ♪
一也「あー…何となくわかった…
詩織「と、言うわけで次回、『新世機動戦記R‐0』
   『やっぱり夏のお約束♪』
   もちろん最後の一枚も決まってるよね?
一也「(なんか…僕、どうなっちゃうんだろう…)


[End of File]