studio Odyssey


第十一話




「いててて…」
 自分から進んでやることにしたとはいえ、吉田 一也は今更になって後悔していた。
「にゃぁ」
 一也が風呂に浸かって顔をしかめたので、一緒に──と言っても、猫のウィッチは専用の桶なのだが──風呂に入っていたウィッチは鳴き声をあげた。
「ウィッチには関係ないよ」
 と、一也は苦笑いを浮かべてみせる。
 一也が顔をしかめた訳。それは両肩にまあるく出来た擦り傷のせいである。
「いていていて…」
 どうやらそれだけでもなかったらしい。よく見れば、肘にも膝にも擦り傷が出来ている。
 一也は肩の擦り傷を恨めしそうに見て、
「ウィッチ、知ってるか?この擦り傷はな、ウメボシって言うんだぞ(注*1)」
 黒猫のウィッチに向かって言う。が、
「にゃ?」
 もちろん、猫にわかろうはずもない。
「くうぅ…いってぇ…」
 両肩を両手で押さえつけて、肩まで湯船につかる。そして、そろりそろりと手を離していくと──
「いていていてて」
 と、なるわけである。
 擦り傷とお湯との格闘が終わると、一也もようやく体の力を抜いて、ふうと大きくため息を吐きだせるようになった。
「格闘技なんて、やったことなかったからなぁ」
 身体──特に腕──の擦り傷は、すべて畳で擦れて出来た物である。
「今更、やめるわけにもいかないよな」
 そんなことをすれば、親友であり、現在では一也の師匠である吉原 真一に、何を言われるかわかった物じゃない。
「平沢先輩も、協力してくれてるし…」
 平沢とは、3年生の先輩であり、部の主将を務めている男の事である。
「遙も絶対に『根性なしー』とか、言うだろうし…」
 一也はため息を吐きだしてから、ざぶんとお湯に顔をつけた。
 柔道なんて始めるんじゃなかったな…
「にゃ?」
 黒猫のウィッチは、水面にぽこぽこと出てきたあぶくを、面白そうに眺めていた。








 第十一話 男の子は、強くなきゃ。

       1

 何にせよ、受け身というのは柔道で最も重要な物であり、
「下手くそ」
 と、言われてしまえば、そこより先のステップへは進めないものなのである。
「肩が痛い…」
「文句を言わない」
 肩に出来る、通称『ウメボシ』と呼ばれる擦り傷は、前まわり受け身という前転のような受け身の練習をしているときに、必ず出来る物である。
 柔道を始めた者に必ず出来る洗礼のようなその擦り傷は、初心者の若葉マークのような者であり、根性レベル1に相当するハードルである。(注*2)
「何か、じゃあ一也は投げられて、首の骨をポキッといっちゃってもいいわけだな」
 真顔でいうのは一也の親友、吉原 真一。柔道着に身を包み、腕を組んだ姿勢で仁王立ちをしている様は、他の柔道部員すらも圧倒する貫禄がある。
 いや。実際圧倒していたのである。
 格技場は、体育館の二階にあった。
 半分は柔道部、半分は剣道部──のものなのだが、公式試合場一面分の広さの練習場を持っている割に、この学校の柔道部はあまり活発に活動をしているという訳ではなかった。
 柔道部主将、平沢に言わせれば、
「この五倍は練習しなきゃ、地区でも勝ち抜けない」
 と、言うことである。
 が、吉原と平沢の卒業した中学がハイレベルであっただけであり──地区では無敵を誇り、都でもベスト8に入っていた──その感覚で練習されちゃ、部員がいなくなってしまうというのも、事実であった。(注*3)
「どうだ吉原。オレと一緒にこの部活を変えないか?」
 平沢は吉原の肩を叩いて言うが、
「平沢先輩、そんな事したら恨まれちゃいますよ。他の部員に」
 吉原はジョークではなく、そう言って笑った。
 練習量でも、実力でも、この高校の柔道部員は吉原に及ばない。それくらい厳しい練習を中学の時にしてきたのである。故に、
「吉原、柔道部に入れ」
 と言う平沢の言葉に、
「いやです」
 と、きっぱり答えられるのである。
 ともかくも、一也は今、そのスパルタ男吉原の下で、柔道を教わっていた。
「柔道はセンスだ」
「じゃ、僕にはセンスがないんだ」
「うん、そうかも知れない」
 そういう酷いことを言う吉原だが、彼も一也をいじめて楽しんでいるわけではない。ない?──いや、ない。
「一也くーん♪がんばってねぇ」
 と、柔道場の脇に重ねてある投げ込み用マットの上で、R‐0専用輸送機イーグルのパイロット、村上 遙が手を振る。もちろん、一也をからかって楽しんでいるのだということは、言うまでもない。
「帰れよ」
「あぁん、ツレないの。こうして応援してあげてるっていうのに」
「いいよ、しなくて。帰れ」
「遙、かなしぃ」
「シナを作るな」
「一也、いいから練習だ」
「吉原、遙が見てるからって格好つけてもしょうがないぞ」
「オレはそんなつもりはない」
「吉原君、かっこいい♪」
「あ♪そうっスか?」
「吉原ッ!」
「さあ一也、練習だ!気合い入れていけよッ!」
「なんなら私、詩織ちゃん連れてきてあげようか?」
「やめろッ!いいから帰れ!!」
「三人打ち込み、二十本、十セット!」
「殺す気か!」
 打ち込みとは技の反復練習のことだ。組んだ姿勢から、投げる直前までの動作を繰り返し、身体で技を覚える練習である。
「平沢さーん、帯持ってもらえますか?」
「おう」
 と、吉原の声に平沢が答える。
 普通の二人でやる打ち込みと、三人打ち込みとの違いは、受け手の帯を持つ人がいるかいないかの違いである。
 帯を持つ人がいる三人打ち込みの場合、当たり前の事だがそこに思い切り力を掛けて持ち上がらないようにするため、二人打ち込みの何倍もの力を必要とする。
 よって、
「はいはいはい、力がないっスよ。持ち上がってないっスよ」
 と、一也は吉原に頭を叩かれるハメになるのである。
「そんなこと言って!吉原が腹を出してるんじゃないか!(注*4)」
 一也は、最近の高校生の感覚で言えば比較的小柄な方だ。決して小さいいというわけでもないが、吉原と比べても、拳二個分くらい背が違う。
 よって、得意技として一番に教えてもらったのが、柔道技としてもっともポピュラーな背負い投げであった。
「はいはい、弾き手が上がってない」
「わかってるよ」
「わかってるならちゃんとやる。それから、返事は『はい』だ」
「はい」
 投げやりに答える一也。吉原は苦笑いを浮かべて、軽くため息を吐きだした。
 教えるのも楽じゃないな…
「釣り手を巻き込め。手首を痛める」
「はい」
「技にはいる前に足を下げるな。癖になる。ゆっくりでもいい。一本一本、技をかみしめて打ち込め」
「はい」
 吉原は真剣な顔つきで打ち込みをする一也を見て、ふと思った。
 そういや、オレも同じ事を言われたんだっけ…


「お前、何を狂ったことを言い出したんだ?」
 それは一週間も前のことになる。昼休み、購買で買ってきたパンをぱくついていた吉原をじっと見て、一也が言ったのだった。
「何を突然、柔道を教えてくれって」
 興味なさそうに言って、パックのジュース、ライチにさしたストローをくわえる吉原。
「吉原くらいしか思い当たらないんだよ」
 と、一也は手をあわせる。
「なっ!」
「う…ん。だがな吉田。悪いが、オレはもう柔道はやらないんだ」
「なんでよ」
「実は…」
 吉原は眉間にしわを寄せて、
「試合中に、ライバルだった男を不慮の事故でな…」
「その話は別の機会の時に聞くよ。なぁ吉原」
 ものの見事に一也に嘘だと見破られた。
「吉原、頼む。一所のお願い!」
「一所?一生ではないのね」
「まあ、これからもちょくちょく…」
「お前との友情もこれまでか…」
 ふうとため息を吐く吉原。一也は苦笑いを浮かべて、この手は使いたくなかったが…と、
「遙の話なんだけど──」
 ぼそりと呟く。
「吉田、オレとお前はいつまでも親友だ。何でも相談しろ」
 一也の手をがしりと掴む吉原。目がマジだ。
「で。なんだって?」
「あのな。柔道をな。教えて欲しいんだ」
「村上先輩がどうしたって?」
 沈黙──
「あのな。柔道をな!」
「村上先輩がどうしたって!?」
 また、沈黙──
「だから柔道をね!!」
「先輩がどーしたって!!」
 こういうのを、イタチごっこと言う。


「しかしま、なんで突然柔道やろうなんて思ったんだよ」
 六時半に稽古は終わりになる。部活動の終了時刻だ。
「ん?」
 蛇口から勢いよく流れ出る水に頭をつっこんでいた一也が、ひょいと顔を上げて聞き返した。
「なに?」
「どうして、突然柔道なんか──って」
 日も延びてきて、体育館の外にある水飲み場にも、この時間に夕日が射し込む様になっていた。その光の中で、一也は水に濡れた頭をぶるぶると犬のように振るう。飛び散る雫が、きらきらと輝いた。
「別に、理由なんてないよ」
 さらりと言って、水飲み場の上のコンクリートに乗せておいたタオルを手探りで探す。あれ?タオルがないぞ?
 あるわけがない。
「一也ね、地球を護る使命に目覚めたわけよ」
 タオルをひょいと持ち上げて、遙は笑った。
「返せよ」
「あら、ツレないのね」
「地球を護る使命ねぇ」
 吉原はひょいと肩をすくめてみせる。彼は一也がR‐0のパイロットであることを知ってる、数少ない人間だ。(注*5)
「別に理由なんてどうでもいいだろ。僕もちょっとくらいは格闘技とかを習って、強くならなきゃって思っただけだよ」
 タオルを奪い返して、ごしごしと顔を拭く一也。
「彼女を護るためでしょ?」
 と、悪戯っぽく笑う遙。
「詩織ちゃんはか弱そうだからな」
 唸って腕を組む吉原。
「なんでそうなっちゃうんだよ」
「タオルの下から睨むな。怖いだろ」
「怒っちゃ、い・や♪」
「怒るよ?」


「男の子は、やっぱり強くなきゃ駄目よ」
 食卓で、ご飯をよそりながら言うのは一也の姉、吉田 香奈。
「香奈さんは、そう言う男性が好みなんですか?」
 食卓に着いているのは、この家の人間ではない者──村上 遙だ。夕食は吉田家で御馳走になるという習慣が、とうとう彼女の生活に組み込まれてしまったのである。
「そうねぇ…私、あんまり身体は強くないから、やっぱり護ってもらえる人がいいわ」
 そう言って、「きゃっ」と顔を赤らめる香奈。
「もう。やだなぁ遙ちゃんは!」
 一人で言って、一人で照れて、ばしばしと遙の背中を叩く。遙の方は「はぁ」と力無く笑いを返すだけ。
「あ。一也呼んできてくれる?ご飯よって」
 いきなり戻るのね…遙はこくりと頷いて、席を立った。
 吉田家は3DKのマンションである。香奈と一也と黒猫のウィッチの、二人と一匹が暮らすのには十分な大きさだ。
 一也にも自分の部屋があって、
「一也ぁ、ご飯だって」
 その部屋のドアは、玄関を入ってすぐ右のところにあった。
「一也?」
 コンコンとノックをしても、返事が返ってこない。あれ?おかしいな。トイレ…じゃあないわよね。
「一也ぁ?開けちゃうよー」
 いいや、開けちゃお♪
 人の部屋に無断ではいるのはいけないとも思うが、好奇心もあるし、返事もないんだから、仕方がない。
「仕方ないよね♪」
 しかし、それは言い訳である。
 がちゃりとドアを開けると、部屋の電気は消えていた。およ?と、思わず身構えてしまう遙。
「一也?」
 おそるおそる部屋の中を覗き込む。
 机の上には、開けられたノートパソコン。その下には、投げ捨てられた鞄。そして、ベッドで寝息をたてている一也。
「一也ぁ…」
 遙はふうとため息を吐いた。疲れてんのかしら?柄にもなく、張り切っちゃってるから。
「か・ず・や♪」
 跳ねるような足取りで、遙はベッドに近づいていった。
「かーずやくん」
 と、その寝顔を覗き込む。笑っちゃ悪いが、無防備な寝顔というのは思わず吹き出しそうになる。しかも、相手はいつも自分に何だかんだと言ってくる男の子なのだ。
「カメラカメラ♪」
 とは言っても、さすがにそんなものがほいと出てくるわけがない。遙はことさら悔しそうに、ちぃと舌打ちをした。
「ま、しょうがない」
 口をつんと尖らせ、遙は本来の目的に戻ることにした。
「一也?ご飯だって。起きないと」
 ベッドに腰掛けて、一也をつんつんとつつく。揺すり起こしてもよかったのだが、何となく気が引けたのだ。
「おきろー。ウィッチに引っ掻かせるぞー」
 うーんとばかりに、のそりと一也が動く。起きたのかしら?
「一也?」
 右手で一也の腕をつつきながら、ひょいと一也の顔を覗き込んだ遙は、次の瞬間に驚きに目を丸くした。
「わっ!」
「う…うーん」
 ごろりと転がった一也の腕が遙の肩に掛かり、彼は、彼女のことをベッドに引き倒したのである。
「かっ…一也」
 相変わらずすうすうと眠っている一也。どうも、夢か何かを見ているらしい。遙の首筋に掛かった手は、何となく、そこにあるはずの襟をつかむような格好になっている。
「ちょっ…いたいって」
 その手を押し退けようとするが──一也ってこんなに力あったっけ?
「おもいってばぁ」
 押し退けようとする左手に、力が入らない。それどころか、その手が少し震えている。
 うそ…私、なにどきどきしてんだろ。い…嫌だなぁ…もう。
「一也。どいてよ」
 大声で怒鳴れば、一也もすぐに起きるだろうが──遙はそれをしなかった。
 一也の寝顔が、遙の目の前にあった。
 あ…と…えと…
 遙の首に軽く触れている一也の指先。
 と…と…えと…なにしてんの!私!!
 震える自分の左手が、視界の隅から伸びてきて、一也の頬へと向かっていく。
 ダメだって、そんなの!卑怯だってば!
 遙はきゅっと目をつぶった。
 指先が、暖かいものに触れる。
 軽く絡み合う、一也と自分の腕。
 ダメぇっ!
 ぎいっと、ベッドが軽く軋む。
 やめなさい、遙!!
「遙ちゃん」
 どきんと、その声に遙の心臓ははじけ飛びそうになった。
 一也の部屋のドアの前に、香奈が仁王立ちをしている。逆光になって表情はよくわからなかったが、ぴくぴくと頬が震えているという事だけは、遙にもわかった。
「あ…あの…そのね」
 遙は少し口を振るわせながら、言った。
「あのね香奈さん、これは違うんですよ。これはその…私のせいじゃなくて、一也が私の事を引き倒して…それで、だからあのー…一也の方が悪くって、私は一也に引き倒されてね…」
「遙ちゃん?」
「いえ…あの…えーと」
 困り切って眉間にしわを寄せる遙。一也はそれでも気持ちよさそうに眠っていた。(注*6)


「いいんじゃない?」
 ノートパソコンから顔も上げずに、助教授西田 明美はさらりと言ってのけた。
「はぁ…」
 コーヒーカップを明美助教授のデスクに置き、香奈は眉間にしわを寄せる。
「二人はいい雰囲気だと思うけどなぁ」
 そう言ったのは、院生中野 茂──通称シゲである。読んでいる漫画本から、顔も上げやしない。
 Nec本部、作戦会議室。
 香奈は困ったように眉間にしわを寄せて、Necの面々に向かって聞いていた。
「一也と遙ちゃんて、その…なんでしょうか?」
 言葉を濁してみても、明美助教授などにはあまり関係なく、先の台詞がぽんと飛び出てきたのである。
「二人は、若いし」
「明美さんが言うと、重みがありますね」
「シゲ君?それはどういう意味かしら?」
「あ。僕、そう言えばやり残した仕事が…」
「教授はどう思いますか?」
 そう言って、香奈は平田教授の机の上にお茶を置いた。
 教授は読んでいた書類から目を逸らしもせずに、
「いいんじゃないか?」
 と、事も無げに言う。
 さて、ここで断っておこう。教授と明美助教授はどちらも「いいんじゃないか?」という答えを導き出しているが、その答えにたどり着く過程は、お互いに全く違う。
 「それはお約束だし、その方が燃えるし…」と、「高校生だもん。そういうこともあるでしょ」という、二つである。どちらがどちらか、言う必要はあるまい。(注*7)
「それはそうと──」
 教授は書類を閉じて机の上に投げ出すと、椅子に座り直してから香奈に聞いた。
「一也君が柔道を始めたんだって?どうして言わないんだ」
「あれ?私その話しませんでしたっけ?」
 ぱちくりと瞬き。
「えーと…」
 考え込むように宙を眺めて、香奈は頬に人差し指をつけた。そう言えば、言おうとしていてずっと忘れてたっけ?あ!そうだ。忘れてたと言えば、ウィッチのご飯を買わなきゃ。確かシラス入りマグロの缶詰が切れてたわね…えーと、それから何を買わなきゃいけないんだったっけ?卵?牛乳?
「香奈君」
 呼ばれて、香奈ははっと我に返った。
「でも牛乳って重いんですよ」
「なんの話をしてるんだね?」
 切り替えの遅い子なのである。教授は、冷たい視線を香奈に送った。
「あ。すみません。なんでしたっけ?」
「一也君の話だよ」
「あ、そうそう。遙ちゃんと──」
「その話は終わったんだろう。一也君が柔道を始めたって話だ」
「あ。そうそう」
 ぽんと手を叩くが、本当にわかってるんだろうかと、教授はため息を吐きだそずにはいられなかった。
「一也、柔道を始めたんですよ。もう一週間以上になりますね。今日も朝練とか言って、早くに家を出ていって…お弁当作ろうと思ったんですけど、やっぱり六時に起きるのは辛くって…運動してるから、栄養あるものにしないといけないですよね?」
 うん。駄目だ、わかってない。
 教授は視線を香奈から外し、パソコンモニターを見ていた明美助教授の方に向けた。彼女は上目遣いに教授のことを見て、
「いいんじゃないですか」
 一言言って、またモニターに視線を落とした。
「R‐0のOS、BSSは基本的にパイロットのモーションをそのまま追跡するシステムです。パイロットが格闘術を身につければ、それだけでR‐0のレベルアップになりますよ」
「貴重なご意見をありがとう」
 そう言って、今度はシゲの方に視線を向ける教授。
「そうすると、R‐0側の反応速度の問題が出てきますね。機体自体のレベルアップは基本的に出来ませんから、明美さんの仕事が増えるだけです」
「それはまた、貴重なご意見をありがとう」
「また私の仕事が増えるのね」
 明美助教授はそう言って、大きくため息を吐きだした。私だけじゃない?ここでまともに仕事してるの。(注*8)
「お肉もいいんですけど、油は控えた方がいいんですよね。私や遙ちゃんも一所にご飯食べるわけだし、一也もあんまり太っちゃうと体にはよくないし。あ、じゃあ今日はお魚にしよう!」
 ぽんと手を打つ香奈。
 にこにこ笑って、もう始めの頃に自分が話していた事なんて忘れてしまっているようだ。
「にゃー♪」
 と、ウィッチは魚という台詞を聞いて嬉しそうに鳴いた。









       2

 運動をすると疲れる。
 それは自明の理である。疲れたとき、人はどのような行動をとるか。
 これがその答えである。
「次、吉田」
 ぴくりと、英語の先生浅倉の声に、一也は身を震わせた。
「…はぃ?」
 やべ…と、口元を手で拭ってから、一也は教科書に視線を走らせる。が、わかるわけがないのである。
 寝ていたのだから。
「続きだ、訳してみろ」
 続きって…どこの?
 後ろの席の吉原に助けを求めようと、ちらりと後ろを見やるが──そんな期待、持つ方が愚かだ。
 …寝てる…
 そんな、冷静に分析してるヒマはない。(注*9)ちくちくと感じるこの視線。浅倉の『催促眼光線』なのに間違いない。
 ど…どこ?
 ちらりと隣の席の松本 詩織を見ると、彼女はふぅと小さくため息を吐きだしてから、
「48ページ」
 と、小さく呟いた。


「最近、吉田君がおかしいんです」
 と、面と向かって言われても、遙は困るだけだ。「まえから」とは、さすがに言えない。
 放課後の美術室。大きなテーブルに、面と向かって詩織と遙は座っていた。
「いっつも授業中は寝てるし、放課後は部活に来ないし、朝もいつも通りの時間に学校に来てないみたいなんですよ」
 詩織は困ったように眉間にしわを寄せて、
「もしかして、私のこと避けてるのかも…」
 しゅんとうつむく。
「そっ…そんなことないよ」
 そんなことはないのである。が、詩織は一也が柔道を始めたことを知らないのだ。ううっ…言いたい…けど、一也には口止めされてるし…
 学校の近くにあるケーキ屋のチーズケーキで。(注*10)
「遙先輩、何か知りませんか?」
 ああっ…そんな悲しそうな顔しないで!私まで辛くなっちゃぅ…
 うううっ…けーきぃいぃぃ…私はあんたを恨むッ。(注*11)
「私、やっぱり嫌われてるのかもしれない」
「そっ…そんなことないってば」
「やっぱり吉田君は、私なんかより先輩のこと…」
 どうやら、詩織は被害妄想の強いタイプの様である。
「詩織ちゃん、一也にもなんか理由があるんだって。絶対そうだって」
「そうでしょうか…」
「そうよ。そう。そうなんだって」
 なんで私が、一也の弁解をしてやんなきゃならないわけ?これじゃ、いつぞやの柚木 園子とのデートの時と同じじゃないの!(注*12)
 くそう、やっぱりあの時、トリュフも食べておくんだった。(注*13)
「センパイ…」
「なぁに?」
 詩織はじっと遙のことを見て、ぽつりと、
「私、知ってるんです」
 言った。
「なっ…なにを?何を知ってるって?」
 思わず動揺。心にやましいことがあるからである。
「センパイ、私に隠し事してるでしょ」
 どきりと、遙の心臓が大きく鳴った。隠し事?隠し事…詩織ちゃんに隠し事…たくさんありすぎてわからない…
「い…嫌だなぁ、詩織ちゃんとは約束したじゃない。私は一也とはなんでもないから、何でも教えてあげるって」
「でも、私に隠し事してるでしょ?」
 ずいっと、詩織は遙に言い寄った。遙はつつーっと後ずさる。
「詩織ちゃん?落ち着いて。なぁに?何でも聞いてよ。センパイ、何でも答えてあげちゃうから」
 ほほほ、と笑って遙。詩織のじっと見つめる視線と、目を合わせようとしない。
「センパイ、こっち向いて下さい」
 いや。
「あ。詩織ちゃん、あんまり寄ってくるとキスしちゃうよ。適度に離れて。お姉さん、欲求不満だったりするから。ほほほ」
「だから、近くにいる吉田君に手を出したり?」
 詩織が、探るように呟いた。どきりとした遙の顔が、一瞬青ざめる。頭の中を、昨日の出来事が駆け抜ける。
「そっ…そんな事しないってば!」
「でも私、知ってるんですから」
 しっ…知ってるって…なんで知ってるの!?
「なんにもしてない!絶対。神に誓う!」
「本当ですか?」
 そう聞く詩織の視線は、疑いの眼差しである。
「信じてっ」
 と、手をあわせる遙。
 詩織はその遙をじーっと見て、言った。
「センパイ、吉田君家に毎日入り浸ってるそうじゃないですか。それでも、なんにもないって言い切れるんですか?」
「あ…なんだそっちか」
 そりゃそうだわ。詩織ちゃんがキス未遂事件の事なんて、知ってるはずないモンね。
「あれは──」
 と、何かをいおうとした遙を遮って、
「センパイ、『なんだそっちか』ってことは、私に内緒でもっとやましいことを──!?」
 詩織は泣きそうになって、眉間にしわを寄せた。
 ああっ!私、墓穴掘ってるッ!!
「もう信じられない!センパイも、吉田君も!!フケツだわッ!!」
 ああぁああぁっ!もう駄目だ!!かなり危機的状況!!
「詩織ちゃん…ね。落ち着いて…」
「吉田君になにしたんですか、センパイ」
 あ。落ち着いてはいるのね…
「聞いて。冷静に。私はなにもしてないから、ね」
「私は?ってことは吉田君が──!!」
「なんでそうなっちゃうの!」
「だって…みんなも私より、遙センパイの方がって言うし…」
 と、うつむいて鼻をくすんとすする詩織。
「あぁあ、もぅ泣かないの。わかったから。全部教えてあげるから」
 遙は眉間にしわを寄せて呟いた。
「本当ですか?全部、包み隠さず何もかもですよ!?」
 ぱぁっと詩織の表情が明るくなる。
「うん…」
 ──こりゃ、はめられたかな?
「全部ですよ」
 詩織は少し怒ったような顔つきで、遙のことをじっと見た。忙しい子である。


 ばぁんという、布団を思い切り叩いたようなけたたましい音が道場に響くと、他の部員ですらも、思わずそっちの方を見てしまうものなのである。
「くそっ…」
 一也は右手で、伝い落ちる汗を拭った。
「根性だけで勝てたら、苦労はしねーよ」
 ふうと大きく息を吐き出して、吉原は黒帯を締め直す。
 乱取り──要するに何人もの人間が入り乱れてやる練習試合である。
 普通、元立ちと呼ばれるずっと乱取りをやり続ける人間がおり、そこに他の部員が駆けていって既定時間模擬戦を行う──というものだが、この二人においてははちょっと違う様である。(注*14)
「今度こそ勝つ」
「無駄だ。百年はえぇ」
 と、にやり。
 一本目からずっと、この二人は戦い続けているのである。(注*15)
「なんとしても、倒す」
 一也の言うこの「倒す」は、文字通り「倒す」ということ。畳に身体をつけさせてやるということだ。
 立ち上がり、気合いとともに吉原に組みかかる一也。が、そう簡単に組ませるほど吉原も「いいひと」ではないのである。
「甘い甘い」
「くっ…」
 組み手争い(注*16)で、一也が吉原に勝てるはずがない。というより、すべてにおいてキャリアが違うのだから、そう簡単に勝てるはずがないのである。
 くそっ…!
 しかしなんとか弾き手を取った一也は、多少無理矢理な姿勢ながらも、一本背負いに入り、
「うるぅあぁあ!」
 と、気合いだけで投げられるものなら苦労はしないのだ。(注*17)
 また…そんな事して…
 吉原は顔をしかめた。腹を出して──この姿勢でなら投げられることはない──
「自分より大きな相手が、そんなんで投げられるはずがないだろ」
 どんと一也の背中を押して、吉原は彼を顔から畳に押し倒した。倒れ込む一也の顔が、ビニールの畳に擦れる。(注*18)
「きゅぅ…」
 情けない声を上げる一也。
「きゅうじゃねぇ」
 その一也の背中から襟首に手を回し、吉原は一也の首を絞めた。(注*19)
「いいか。まずは相手を崩せ。柔よく豪を制す。柔道ってのはそういうモンだ」
 淡々と語る吉原。ぎゅうと絞められた一也が、自分の腕をぱんぱん叩いていることになど、気付いていないようだ。(注*20)
 吉原!放してくれっ!!苦しいッ…
「相手の力を利用する。これもポイントだ。相手が前に出てきたら前に、後ろに下がったら後ろに。それから──」
 あれ。反応がないぞ?一也、聞いてるのか?
「一也?」
 ふと見ると、
「いかん…落としてしまった」
 一也は力無く目をつぶっていた。(注*21)
「…軽くやってたんだけどなぁ」
 吉原はぽりぽりと頭を掻いて呟いた。


 夕日が沈む。
 体育館の外にある水飲み場で、一也はぼうっとしたままそれを眺めていた。
 かと思うと、突然ぷるぷると犬のように頭を振るいだした。
 落ちた後遺症か、意識がいまいちはっきりとしない。なにぼうっとしてんだ一也!汗に濡れた髪を掻き上げると、その手がBSSの電極に触れた。
 R‐0のOS、BSSとリンクするための電極。
 一也はふうとため息を吐きだして、水道場の蛇口を目一杯ひねった。勢いよく水が流れ出る。
 こんなに頑張ってるのに、身にならないモンだな…
 大きく息を吸い込んで、一也はその水の中に頭を突っ込んだ。
 金色に輝く雫が、視界の脇を流れ落ちていく。
 ふと、一也はその視界の隅に何者かの気配を感じて視線を送った。茶色のローファー、ルーズソックス、プリーツの入ったチェックのスカート、見慣れた制服。遙?
 そして緑のリボン。
「しおっ…」
 一也はばっと顔を上げた。
「きゃっ」
 飛び散る雫に、詩織が目を細める。
「あっ…ご、ごめん」
「ううん、大丈夫」
 そう言って、詩織は一也のタオルを手渡した。
「あ…ありがと…」
 戸惑うように呟いて、それを受け取る一也。どうして詩織ちゃんが?とも思ったが、彼女から数メートル後ろに離れたところで手をあわせている遙を見て、すべてを理解した。
「遙に?」
「うん。教えてもらっちゃった」
 悪戯っぽく言って、ぺろっと詩織は舌を出す。一也は仕方なさそうに笑って、ため息を吐き出した。
 言うなって言ったのに…
 そろそろと遙が近づいてきて、
「あ。じゃあ年寄りはここら辺で姿を消しますんで、後は若い二人で…」
 おほほほと笑って去っていこうとする。が、
「気を利かせてくれてどうも」
 一也が彼女の歩みを止める様に呟いた。
「一也、目が笑ってない。怒っちゃいや」
「後で金返せよ」
「おほほほ、では私は帰りますんで」
 ぺこぺこ頭を下げて愛想笑いを浮かべていたかと思うと、突然遙は何かを思いついたかのように「にやぁっ♪」と笑い、
「んじゃ一也、詩織ちゃんに寝技の特訓でもしてもらって下さい」
 そう言って「きゃーっ」と駆けて逃げ出した。
「はっ…遙ッ!!」
 顔を真っ赤にして一也が怒鳴る。
 詩織も、赤くなった頬を押さえて身を小さくした。
 夕日が、ぎこちなくなった二人を赤く染め上げる。


「吉田 一也──か」
 男はそう呟いて、キャビネサイズの写真を机の上に放り投げた。ぎいっと、安物のソファが軋む。
「若いとは思ってましたが、高校1年生とは──ですか?」
 机の向かいに座っていた男は、おかしそうに微笑んだ。机の上には、キャビネサイズの写真が散乱している。すべて、この男が撮ったものだ。
「建前は、ごく普通の高校生と言ったところですね」
「そうみたいだな。っと、こっちの袋は?」
「あっ、それは!」
 写真を撮ってきた男の顔が、ぱっと青ざめた。ああっ、あの書類袋の中身は、もしかして「例の写真」じゃないか!?
 中身を見た男が、ぽつりと、
「──好きだなお前も」
 呟いて目を細めた。
「いや。あの…実はそれも、報告事項でしてね」
 あせあせと言う男。
「報告事項って…他は全部キャビネ版なんだから、これだけ四ツ切りで焼く必要なんてなかっただろう?」
 要するに大きいサイズの写真である。A4サイズくらいであろうか。写っているのは、楽しそうに笑っている女の子だ。
「いや、あの…ここの高校の制服はなかなか…いえ、そうではなくて」
「スカート丈、短いな」
 と、写真を斜めにしてみてもスカートの中が見えるはずがない。(注*22)
「ええ、そうなんス。このスカート丈ですと駅の階段で──」
「…好きだな、お前も」
 男はぽつりとそう呟いて、写真を元に戻した。
「え…いや…あの…はぁ」
 ぽりぽりと頭を掻いて男は言う。
「そんで、彼女がイーグルのパイロットなんです」
「ははぁ、なるほど」
 右脇に座った男から手渡された書類を手にとって、男はソファに座り直した。
「特務機関『Nec』と、その構成員──ね」
 その言葉にこくりと頷いて、書類を手渡した男は眼鏡をかけ直す。
「依頼通り、ここ数週間で彼らの身の廻りを調べ尽くしました。さすがに、国家機密レベルのところまではたどり着けませんでしたが…」
 と、言いながらも、男は満足そうに笑って言う。
「現時点で、わかっているすべての事がそのファイルです」
「サンキュ。感謝するよ」
 ひょいと書類を上げてみせる男。
「これで、カードはそろったと言うわけだな」
 書類には吉田 一也のプロフィールだけではなく、村上 遙、吉田 香奈、そして教授以下Necの面々、果ては松本 詩織のスリーサイズ──いや、プロフィールまで、事細かに書かれていた。
「このネタは、なんとしてもモノにしてみせるぞ」
 男は野心に燃えた目で呟いた。ついに、ついに来た。巨大ロボット、そいつを取材できるときが、ついに来たんだ。今だ。今、まさに今がその時だ!この機会を逃せば、もう二度とこんなチャンスはまわってこないぞ!(注*23)
「ゴールデンの二時間枠で、40%取るつもりでいくからな(注*24)」
 男はソファを軋ませて立ち上がった。
 特別取材班のクルー達は、皆笑った。が、それはその数字ぐらい当たり前に取ってやるという、自信に満ちた笑いだった。(注*25)
「待ってろよR‐0。そして──」
 書類を丸めて、
「特務機関『Nec』!」
 新士 哲平はそれで手を打った。


「内緒にしなくてもいいじゃない」
 青、バイオレット、そして漆黒へと、西の空はその色を変えていく。
「…うん。まぁ…その…なんというか…」
 一也は、いつもの川沿いの遊歩道を歩いていた。ここ一、二週間は隣を歩く相手もいなかったのだが、今日は、その前までと同じ相手が隣を歩いている。
 松本 詩織。彼女は少し頬を膨らませて、
「そうやって、いつも言葉を濁すのね」
 子供を叱りつけるかのような調子で言って、笑った。
「ごめんね。別に内緒にしようとか、そう思ってた訳じゃなくて」
「嘘。じゃなきゃセンパイを口止めしようなんて、思わないでしょ」
「余計な心配はかけたくなかったし…」
「かけさせてよ」
 詩織は、一也の前に身を踊らせて、彼の足を止めさせた。
「私、いいの」
 真っ直ぐに自分を見つめる視線。一也は、ごくりと唾を飲んだ。
「なっ…何が?」
「心配、したいの。吉田君のこと」
 詩織は小さな手をきゅっと握りしめて言う。そう、吉田君はあのロボットに乗って、あんな化け物と戦ってるんだもん。
「心配するなって言う方が無理なの。だから、心配かけさせてよ。私、誰よりも吉田君のこと、心配するから」
「詩織ちゃん…」
「内緒にしないで。何でも言って。私、力になれることなら何でもするよ」
 その…うん…なんでも…
 うつむいて、詩織はごにょごにょと口を動かした。あっ、やだ。顔、赤くなってる!?
 一也は、ふうと息を吐き出した。
「心配するって言うなら、僕はますます頑張らなきゃ」
 え?
「ど…どうして?」
 どうしてそうなっちゃうの?私、吉田君には危ないことしてもらいたくないのに。
「だって、心配するって言うなら、心配かけさせるわけにはいかないじゃないか。だとしたら、僕はもっと強くならなきゃ」
 一也は詩織の肩をぽんと叩いて、彼女の脇をすり抜けて歩き出した。
「行こう。もう日も落ちちゃったよ」
「まっ…待ってよ」
 そ、そりゃあそうかも知れないけど。
 小走りに駆け寄って、詩織は一也の横に並んだ。
「家のお姉ちゃん、会ったことあるよね?」
 視線を送る一也に、詩織はうなずき返す。
「お姉ちゃんね、見てわかるかも知れないけど…あんまり身体の強い方じゃなくて、運動神経もいい方じゃなかったんだ。そのお姉ちゃんがね、昔よく僕に言ってたんだよ」
「なんて?」
 聞き返す詩織。寄せた眉の間に、小さなしわが可愛く寄っている。
 一也は軽く笑って、
「よくお姉ちゃんがいじめられてた時に助けてくれた男の子がいたんだけど──その人に助けてもらって帰ってきた時にね、必ず僕に言ったんだ」
 すうと大きく息を吸い込んで、一也は言った。
「『一也、やっぱり男の子は、強くなきゃ』って」
 軽く微笑む一也に、詩織もなんとなく、うつむき加減にだけれど、微笑んだ。
 女の子なら、やっぱり男の子に守ってもらえるのも、嬉しいかも──
 なんて、思って。


「吉田 一也──か」
 彼は机の上に散乱している資料を手に取って見ながら、言った。
「この子が、あのロボットにねぇ」
 と、口許をゆるませながら煙草を吸う。
 マンションの一室。男二人が、テーブルに向かい合って話をしていた。
 煙草を吸いながら、資料の写真を見ている青年。向かいには、彼のボスである、痩せこけた男がいる。
 痩せこけた男は、煙草をくゆらす彼に向かって、言う。
「今度の仕事は、国からの依頼だ。儲けもでかい」
「儲けがでかいのは、いいことです」
 と、言いながら、机の上に散乱している別の資料を適当にとる男。それは、エネミーに対峙するR‐0の写真だった。
「国──ね。特務機関Necは、防衛庁の目の敵にされてるって話がありましたね」
「無用な詮索はしない。与えられた仕事をこなし、必要な資料を提出する。それがこの世界でのルールだ」
 痩せこけた男は、軽く口許をゆるませて言う。彼は煙草をくわえたまま、ひょいと肩をすくめて見せた。
「好奇心は猫をも殺す──と」
 そんなことは百も承知だ。この男の下で仕事をするようになって、もうずいぶんと経つ。肝に銘じておくことはいくつかあるが、それは最も重要なことであった。
 そしてそれを守ってきたからこそ、この世界でも腕利きと、一目置かれる様になったのだ。
 やばい仕事もこなしてきた。企業秘密を盗んだりもしたし、日本の政治を操るようなこともしたことがある。
「で?僕が提出すべき資料は?」
 彼は笑いながら、煙草の煙をふぅと吐き出した。手にしていたR‐0の写真を机の上に投げ出し、肘をついて笑う。
 彼のボスは、眉一つ動かさずに言った。
「選択肢は二つある。どちらもなかなか難しいが、内容は全く違う」
「僕に向いている方は?」
「どっちもどっちだな。好きな方にしろ」
「好きなほうねぇ…」
 青年は笑う。俺の好きな仕事って、どんなんだ?
 男は、笑っていた。だから、青年が選ばないであろう方を、先に言った。
「一つは、総理大臣を失脚させるネタ探しだ。政府筋から──とだけ言っておこう」
「あ──政治がらみですか…確かに今の総理には、頭を抱えますからねぇ。消費税も5%にされましたし…確かに、やりがいはあるかもしれませんね」
「政治がらみは嫌いじゃあるまい?」
 男の言葉に、首筋をなでながら返す青年。
「政治がらみの仕事は嫌いじゃないですけど、あの世界は嫌いです」
「なら、やはりもう一方の方だな」
 男は口許をゆるませた。どちらを先に言うにしろ、彼はこちらを選ぶ──そういう男だ。
 男は机の上に散乱している資料の中から、数枚の写真を彼に向かってはじき出しながら、言った。
「もう一方は、特務機関Necに潜り込んでの、調べ物だ」
「へぇ…」
 青年は煙草を再びくわえた。ゆるむ口許を、隠すためである。
 彼の目の前にはじき出された数枚の写真は、Necの人間達のそれであった。
「悪くない」
 言いながら、男は写真を手に取った。
「で?何を調べてくれば?」
 やはりこっちをやるか──彼のボスは、彼のわかりやすい行動に笑った。
「調べてくることは、こちらは少々抽象的だ。できるか?」
「僕が仕事を途中で投げ出したことがありますか?」
「わかった。調べてきてほしいのは、単語の意味と、それに付随する物、すべてだ」
「抽象的でおもしろそうだ」
 青年は一枚の写真を手の中で振りながら、聞き返す。
「で?その単語というのは?」
 彼の言葉に、男は、言う。
 はっきりと、しっかりとした口調で。
「調べてきてほしいのは、BSS──それのすべてだ」
「なるほど」
 煙草を灰皿に押しつけ、青年は軽く笑った。
「BSS──ね」
 彼の手の中には、香奈の写真があった。


 つづく








   次回予告

(CV 吉田 香奈)
 R‐0改造計画。
 着々と進化をしていくエネミーに対し、
 「対エネミー兵器」として、R‐0はその姿を変えていく。
 それを見て、香奈は一体何を思うのか。
 そして、Necへとのびる魔の手。
 すべてを白日の下にさらけ出そうとする者。
 彼の狙う物は?
 R‐0とBSS。
 彼女が護ろうとする物は?
 次回、『新世機動戦記R‐0』
 『Nec、それを取り巻く者たち。(前編)』
 お見逃しなく!


[End of File]