studio Odyssey


第十二話




 Nec本部。
 それを遠巻きに見ながら、彼は胸ポケットから煙草を取り出した。
 愛車、Mitsubishi GTOに寄りかかり、
「さてと…」
 なんて言いながら、煙草をくわえる。
「どう攻めようかな」
 車の助手席には、大きな茶封筒があった。かなり太ったその茶封筒の中には、彼の眼前にある特務機関、Necのわかっている限りのすべてのことが記されている。
 出撃記録、被害報告、予算使用状況、そして構成員のパーソナルデータのすべて。
 彼はポケットからロンソンのライター、『バンジョー』を取り出すと、くわえた煙草に火をつけた。(注*1)
 茶封筒の中身は、今はすべて彼の頭の中に移っていた。
「──そうだな」
 彼は口許を弛ませながら、たっぷりと煙草を吸い込むと、青い空に向かって、一気に白い煙を吐き出した。
 かすかな潮風にかき消されるその白い煙。
 Nec本部のハンガー脇、資材搬入路から、彼女が姿を現していた。
 彼はちらりとそれを見て、口許を弛ませる。


「あ、じゃあ私、大学に行って来ます」
 にこりと笑う、吉田 香奈。
「はいはい、行ってらっしゃい。あ、頼んだ奴、忘れないでね」
 彼女に向かって手を振る、助教授西田 明美。
「はい。わかりました」
 笑いながらこくりと頷いて、香奈は小走りに、資材搬入路から外に出た。








 第十二話 Nec、それを取り巻く者たち。(前編)

       1

 あら?誰か私のこと、呼んだかしら?
 吉田 香奈はそう思ってふと立ち止まった。
 でも、よく考えてみればおかしいのである。
 T大学。(注*2)この大学の構内に、今年5年生をするハメになってしまった香奈の友人など、居ようはずもないのである。
 私を呼ぶ人なんて、居るはずがないものね。気のせいだわ。
 気を取り直してとことこと歩き出す。
 利香も、夏美も、ずるいわよね。私をおいて卒業しちゃうなんて。そりゃあさ4年生の単位はほとんど取れなかったけど、私のせいじゃないのに。
 と、そう言うわけで今年大学5年生の香奈は、週に一度、128単位目の単位を取るため、T大学へと来る事になっていた。(注*3)
 あら?まただわ。
 本当に誰か呼んでるみたい。
 立ち止まって、周囲をくるりと見回す香奈。掲示板を見て嘆息を漏らしている学生。芝生の上で楽しそうに話している学生。薄汚い白衣の教授たち。知ってる顔はないみたいだけど…教授の誰かかしら?だとしたら、誰が誰だかわからないし…
「あの、吉田 香奈さんですよね?」
「きゃっ!」
 突然後ろからかけられた声に驚いて、香奈は手にしていたクリアケースを落としてしまった。アスファルトの上に、ケースの中身が派手にぶちまけられる。
「あっ!すみません!」
 と、言ったのは香奈である。自分で落としたのだから、すみませんも何もあったものではないのだが。
 中身を拾おうと、かがみ込もうとする香奈を手で制し、
「すみません。僕が拾います」
 彼は、代わりに自分からしゃがみ込んだ。
「すみません。驚かせちゃいましたか?呼んでも気付かなかったみたいなんで…」
 クリアケースの中身を拾いながら、彼はすまなそうに言った。
「いえ。すみません。驚いちゃった私がいけないんです」
 香奈の頭の中では、驚いてしまった自分が全面的に悪いのである。よって、この人に拾わせてちゃいけないわ。自分で拾わなきゃ。と、そうなるわけである。
「手伝います」
 と、香奈もしゃがみ込んだ。「手伝います」という台詞も変だが、それ以外の台詞が思い浮かばなかったのである。
 香奈はクリアケースの中身を拾いながら、ちらちらと彼の顔を見た。
 え…と。誰だったかしら?うーん…会ったこと、あったかしら?それ以前に、私この人のこと知ってるのかしら?
「なにか?」
 顔を上げた彼と視線をかち合わせてしまい、
「いえ。すみません」
 香奈はぺこりと頭を下げた。嫌だわ、私。この人のこと、失礼な目つきで見ちゃってた。反省しなくっちゃ。
「あの…本当にすみません。私いつもぼうっとしているもので…」
 なんて言うけれど、自分で自分のことをぼうっとしているとは思っていないのである。ただ、よく言われることは事実なので、最近はちょっと自覚してきた。
「本当にすみません」
 照れくささから、香奈はしきりに髪に手を触れていた。最も、しゃがんで落ちているものを拾おうとしているのだから、髪の長い香奈にとっては、それを押さえていないと下が見えなくなってしまうという事もあったのだけれど。
「髪──」
「はい?」
 あらかた拾い終わったところで、彼がぽつりと言った。香奈は顔を上げ、手を止めて、聞き返す。
 彼は最後の教科書をクリアケースに入れ、そのふたを閉めてから、
「長いですね、髪」
 そう言って、彼は香奈にそれを両手で手渡した。
「え…ええ。ずっと伸ばしているもので──時々邪魔になったりもしますけど…」
 髪のことを言われたせいか、香奈は髪を軽く後ろへやってから、両手で手渡されたクリアケースを両手で受け取った。
「綺麗ですね」
 言いながらケースを手放し、彼はゆっくりと立ち上がった。
 どきっと、香奈は自分の心臓が大きく鳴ったのを感じていた。
「あ!本当にすみません!あの…私…すみませんでした」
 ばっと立ち上がって、香奈は何度も何度も頭を下げた。ものすごく照れくさい。まともに、顔を合わせることもできない。なんだか知らないけど、そんな事を言われたのは初めてで──いや、女の子の友達に言われたことはあるけれど、要するに男の人に言われたりしたのは初めてで──しかも自分の失敗が元になってて──
「あの…本当にすみません。それから私、授業があるんで…すみません!」
 と、逃げるように香奈はその場を離れたのだった。
 残された彼は、ぱちくりと瞬きをして香奈の後ろ姿を見送り、
「あ…とと」
 何かを言おうとして、止め、頭を掻いた。
「まぁ…いいか」
 彼は笑う。
 ポケットから取り出す煙草。軽く振って飛び出した一本をくわえ、その箱で風を遮りながら火をつける。
 箱の内側にあった写真が、ライターの炎に浮かび上がったけれど、それは、一瞬だけだった。
「写真より実物の方が可愛いじゃないか」
 そう言って、彼は笑った。


「こら君ぃ!!」
「はい?」
 かけられた声に振り向く彼。煙草はくわえたまま。
 そこには白衣を着た老人教授の姿があった。
「構内は所定の場所以外は禁煙だ!」
「あ──すんません」
「ったく、最近の若いモンは」
 と、言いながら老人教授は彼の脇をすり抜けていく。そうは言われてもなあ…と、彼は苦笑いを浮かべた。
「あの、じゃあ、所定の場所ってどこです?」
 格好良く決められない世の中になっちゃったなぁ…なんて、彼は思った。(注*4)


 スピーカーをひっかくノイズの音。
「ネオパン400から、エクタクロームへ(注*5)」
「こちらエクタクローム」
「目標が動き始めた。追跡を開始する」
「了解。行動には十分注意されたし。エクタクロームからデルタへ」
「こちらデルタ」
「目標が動き出すはずだ。追跡を開始してくれ」
「デルタ了解」
「エクタクローム、こちらインプレッサ。目標、現着。監視を続ける」
「了解。しかし何だな──」
 スピーカーの向こうの声は言った。
「何人笑ったかな。この会話で」
 実に微妙な問題である。(注*6)


 はぁ…
 と、大きくため息を吐き出す香奈。黒板に書かれている、脳神経についての難しい記述がわからなくてため息を吐き出したのでは、無論、ない。
 いやね、私。あの人にお礼らしいお礼もしないで。怒ってるかしら?怒ってるわよね。何か用があったみたいだったのに、私、授業があるからって逃げ出しちゃったし…
 香奈はもともと、一つのことを考え出すと他のことなど忘れてしまうタイプの子である。真っ白のままのノート。このままでは6年生をすることになるかも知れないのだが、今の香奈は──
 謝るべきよね。んでも、どこの誰だか思い出せないし…連絡の取りようもないし…どうしたらいいのかしら。
 それだけで頭がいっぱいだった。
 しかも彼の言ってくれた台詞をちらりと思い出しようものなら──やだわ、もう!
 きゃっと、両手で顔を隠してしまいたくなってしまうのである。
 どうしよぅ…なんとかして連絡を取らなきゃ。
 そう決心して、取りあえず今は授業だ。と、顔を上げてみて驚いた。あら。いつの間にこんなに進んだのかしら?


 学校が終わる時間をまわると、駅前のショッピングモールは学生たちであふれかえる。
 見慣れた高校の制服だけではない。この駅前のショッピングモールには、この辺りに点在する高校の学生たちのほとんどが集まって来ていた。
 よって、ショッピングモールはさながら高校制服のファッションショーのようになる。
「でも、ウチの学校の制服って、目立つよね」
 と、夏服に替わった制服に身を包み、松本 詩織は笑う。隣を一緒に歩いているのは、詩織の言うところでは彼氏、本人はそうは思っていないのようなのだが──吉田 一也である。
「何を買うの?」
 と、一也は辺りをきょろきょろ見回しながら聞いた。こんな所クラスの奴らに見られたら、大変なことになるぞ。(注*7)
「うーんとね…」
 詩織は一也の横を歩きながら、きょろきょろと辺りを見回した。ふふ♪明日学校に行ったら、噂になっちゃうかな?
「別にね、どうしても買わなきゃいけない物があるわけじゃないんだ」
「なんだ。そうなの?僕を引っ張ってきたから、何か重たい物でも買うのかと思ったよ」
 普段、遙にそうさせられているからである。
「私は吉田君を物持ちになんてしないよ。あ♪ねえねえ、プリクラあるよ。一緒に撮ろ」
「えー…いいよぉ…」
 一也は眉間にしわを寄せて渋った。もともと、写真に写るのは好きな方じゃない。
 詩織に手を引っ張られながら、一也はふと、妙な感覚に襲われた。あれ?誰かに見られてる?
「どうしたの?」
「いや…」
 気のせいかも知れないと思った。それに、詩織と二人でこんな所を歩いているのだ。クラスの誰かが見ていたとしても、不思議はない。あ…いつの間にか手までつないでる…
「吉田君?」
 詩織が小首を傾げて、一也の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あ。ごめん。いや…」
 一也は空いている方の手で──片手は詩織が握っているのだ──ぽりぽりと頭を掻いた。
「誰かに見られてるような気がして…」
 それを聞いて、詩織はくすっと笑った。
「じゃ、見せつけてやろ♪」


「ストーカーかもしんない」
 遙は部屋のカーテンを少し開けて、外を見た。
「やっぱり居る」
「間違いではないのね?」
 電話の相手、Nec本部にいるR‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲは、嘆息とともに漏らした。
「本当につけられてたの?」
「本当だもん。駅からずっとつけられてたのよ。何度もまこうとしたんだけど、ダメだったのよぅ」
 泣きそうになりながら、R‐0専用輸送機『イーグル』のパイロット、村上 遙は受話器を握りしめた。
「ほぇー…遙ちゃんが泣きそうな声を出してるのなんて、初めて聞いた」
 変なところで感心してるシゲ。
「あのねぇ!」
 遙は受話器に向かって、思い切り大声で──ちょっと声は震えていたのだけれど、
「私だって、か弱い女の子なのよ!襲われちゃったら、抵抗できないんだから!」
 とにかくまぁ、ある程度は強がって言った。
「そうは言っても、どうしろって言うの」
 答えはわかりそうな物だが、シゲは面倒くさそうに聞いてみた。
 息巻いて遙が言う。
「助けて!か弱い女の子、しかも女子高生、バージンの女の子の危機なのよ!!」
 あんだって?
「ごめーん、今ちょっとよく聞こえなかったや(注*8)」
「何でもいいから助けてよぅ。私一人暮らしなのよ。ひ・と・り・ぐ・ら・し。ああ…明日の一面に、大きく載っちゃうんだわ。『女子高生、自宅で殺される』って。しかも、それは総理の娘で、イーグルのパイロットで、美人で、お友達にも人気があって、お葬式には長蛇の列ができて…」
 まだまだ元気そうだなぁ…受話器のこっちで、シゲは苦笑いを浮かべた。
「じゃ、切るから」
「シゲさぁあああぁぁん!シゲさんがダメなら、この際一也でもウィッチでも何でもいいから!!」
 この際?しかも、ウィッチと一緒にまでされては、一也も助けには行かなかったろう。
 しかし幸いというか、なんというか、
「一也君はいないよ」
 シゲはごく当たり前というように言った。
「あれ?今日はあいつ、部活にも出ないで帰ったわよ。本部に行ったもんだと思ってたけど…いないの?」
 遙はぱちくりと瞬き。あ…そう言えば詩織ちゃんもいそいそと帰ったわね…ってことはあの二人…
「一也めぇ…」
 遙はぎゅうと受話器を握りしめた。プラスチックの受話器がきしっと軋む。私がこんな怖い目に遭ってるって言うのに、詩織ちゃんとデートしてんだなぁ…ゆっ、許すまじ!
 ストーカーも、今の遙ならば敵ではないだろう。
「取りあえず遙ちゃん、今からそっちに明美さんと車で行くから、相手を刺激しないようにね」
 そう言ったシゲの言葉が聞こえているのかいないのか、
「後で見てろッ!」
 遙は、受話器を思い切り電話に叩きつけた。


 結局、香奈が今日の授業でノートに書いたことは、授業の始めに書いた日付と、「明美さんに頼まれた資料を探す」という、忘れないように書いたメモの一文だけであった。
 しかし、この一文を書いておいて、香奈は90分前の自分を大いに褒め称えたのである。
 授業が終わる頃には、すっかり忘れていたのだから。
「資料、資料…」
 と、忘れないようにつぶやきながら、香奈は『脳神経機械工学研究室』のある第14号館へと向かっていた。
 構内のはずれ。木立の奥に、それはあった。学内でも異色の研究室であった脳神経機械工学研究室。第14号館には、この研究室だけが入っている。
 香奈は14号館にはいると、迷うことなく階段を上がっていった。研究室は二階にあるのである。
 しかしその階段の途中で──
「あれ?」
 不意に立ち止まる香奈。
「…開いてる」
 開け放たれた引き戸の上にある黒いプレートには、小さな読みにくい文字で『脳神経機械工学研究室』と書かれている。


「上がっていけばいいのに…お茶くらい入れるよ」
 と、詩織は玄関先で笑った。
 ここは詩織の家の前、取りあえず詩織をここまで送るという使命(?)を果たした一也は、
「本部によらなきゃいけないから。ごめん」
 そう言って、片手をあげた。
「そう?別に遠慮なんてしなくてもいいのよ。寄っていけば?」
 と言うより、詩織としては寄らせたいのである。もうちょっと話しもしたいし、それに、自分の部屋に男の子をあげて二人っきりになるなんて言うシュチュエーション、二人の仲が親密になっちゃういい機会になっちゃったりなんかしちゃったりして…きゃーっ♪(注*9)
 とまぁ、詩織が何を考えていようと、鈍感な一也がわかるはずもなく、
「ごめんね、そろそろ行かなくちゃ。じゃ、また明日」
 と、一也は軽く笑って言った。
「あ…吉田君!」
「ばいばい」
 手を振る一也に、思わず手を振り返してしまう詩織。
 もぉ…そんなぁ…


 一也は後ろを気にしながら、駅に向かって歩いていた。
 間違いない。やっぱりつけられてる。
 詩織ちゃんじゃなくて、やっぱり僕の方か…
 尾行されている。
 詩織の申し出を断った理由と言うべきか、それとも、都合よい理由に仕立て上げているだけなのか──どちらにしろ、一也は自分をつけている男の存在に気付いていた。
 何者だろう?
 つけられる理由なんて、一つしかない。
 R‐0か、BSSを狙う奴か…
 最悪、ストーカーだったらやだな。
 あまり男で男を付け狙うストーカーというのはいないと思うが…(注*10)
 まくか?でも変に刺激させても危ないか?相手に腕に覚えがあったらまずいし…
 とにかく、今すぐにどうこうしようと言うわけじゃないみたいだな。
 それくらいは一也にもわかる。
 それくらい、尾行が下手くそだったのである。(注*11)


「あっ…」
 香奈はそっと、『脳神経機械工学研究室』の中をのぞき見て、思わず声を上げてしまった。
 研究室の中にいた男が、どきりと身を震わせて振り返る。
「あっ…」
 彼は、スチール棚の中から出したらしい資料を手に持ったまま、言葉を呑んだ。
「あの…いえ。え?」
 香奈は何を言ったらいいのかわからずに、小首を傾げていた。


「で。どれがそのストーカーなの?」
 そう聞く助教授、西田 明美は楽しそうである。後部座席のシートから、きょろきょろと辺りを見回して、
「ね。どこにいるの?」
 と、助手席に座った遙に聞いた。訂正しよう、彼女は実際楽しんでいるようだ。
「あのね、明美さん」
 遙はむすっとして返す。
「私はすっごく怖い思いをしたんですよ。そんなに楽しそうに言わないで下さい」
「だって、私ストーカーって見たことないもの。見てみたいじゃない。知的好奇心」
「ま、明美さんをストーキングする奴って言うのもね」
「なんか言ったシゲ君?」
「車出しますんで、ちょっかい出さないで下さい」
 ハンドルを握り直してシゲ。
「早く行きましょ」
 遙はいち早くここから逃げ出したそうである。
「どこにいるのかなぁ…あ。あれかな?」
 明美助教授は一所懸命にストーカーを探していた。


「ああ、ごめん。また驚かせたかな」
 そう言って、彼は笑った。
「いや、ちょっと調べたいことがあってね。不法侵入といわれるかもしれないけれど、外のロッカーの中に鍵を置きっぱなしにしているそちらにも、問題があるんじゃないかなとは思うんだけど」
 彼は手の中の鍵を、香奈の前にちらつかせた。置き鍵である。いつも外のロッカーの中に、入れっぱなしにしているのだ。
「あ…」
 もじもじとうつむく香奈。探し出してお礼を言わなくちゃと思っていた人が、目の前にいる。
 あ…お礼を…お礼を言わなくちゃ…
 ──とは思うものの、
「いえ…すみません」
 なんて、なぜか謝っている。
 彼は一瞬困ったような表情を見せると、ぽりぽりと頭を掻いてから、言った。
「えーと、吉田 香奈さんですよね?」
「えっ…あ、はい」
 そうだ。この人、私に何か用があったんだっけ?それで私、この人のこと知ってるのかどうか──って…
 うーん…と考えて彼の顔を見るけれど、誰だかさっぱりわからない。それどころか、まっすぐまともに見ることもできなかったりで──やだわ、もう。
「えーと、僕はね…」
 胸の内ポケットに手を入れて、香奈の前へ歩み寄ってくる彼。離れていたときはそうは感じなかったけれど、すらりと高い背に、スーツ姿がよく似合っている。
 歩み寄る彼にどぎまぎして、うつむく香奈。あ、どうしようどうしよう。
「どうも、初めまして」
 そう言って、彼はうつむく香奈の視界の中に、自分の名刺を差し出した。驚きに、香奈がはっとして顔を上げる。
 その瞬間に、
「よろしく」
 なんて言って笑う彼と目をかち合わせてしまい、
「あっ、すみません!」
 なんて言って、香奈は再びうつむいてしまったのであった。
 彼は──小沢 直樹という──ただ、楽しそうに笑っていた。


 Nec本部。作戦会議室にぽつりと取り残された平田教授は、
「いかん…」
 そう呟いて、苦虫をかみつぶした。
「私は今回の前半、出番もなければ台詞もないのか…(注*12)」









       2

「私が怖い思いをしてるときにぃーッ!」
「なっ…なにがだよ!」
 作戦本部に入ってくるなり遙につかみかかられた一也は、訳も分からずに目を白黒させた。
「デートなんてしくさってた訳ね。ああもう、男なんてッ!」
 と、泣き真似。
「何かあったんですか?」
 遙を指さして、一也はシゲに訪ねた。
「ストーカーだって。命を狙われたわけじゃあるまいに…」
 今度はそうあっさりと言ったシゲに、噛みつかんばかりの勢いで、
「貞操の危機だったわ」
 と言うが、
「よく言うよ」
 一也にも、あっさりと返された。
「明美さん!私、もう男なんて信じられない!!」
「って、私に抱きつかれてもねぇ…」
 明美助教授は苦笑いを浮かべて、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ねえ遙。でもそれって、本当にストーカーだったの?」
 スチール机に鞄をおきながら一也が言う。
「なんでよ。一也は私が信用できないとでも言うわけ?ああっ、もう男なんてッ!!」
 またも抱きつかれてしまった明美助教授は、
「遙ちゃん、それ気に入ってるでしょ」
 と、笑うしかない。
「実は、僕も今日、つけられてたんですよ」
「一也が!世の中には物好きがいるのねぇ…」
「なんだって?遙に言われたくないぞ」
「なんですって?」
 いがみあう二人を、
「まぁまぁ、二人とも」
 と、止めながらも、明美助教授は微笑んだ。仲がいいんだから。
「これは偶然ですかね」
 大真面目な顔を見せてシゲが言う。が、彼が自分の台詞に酔っていることは言うまでもない。
「シゲ君、何か思い当たることでも?」
「いえ…特には…教授は、何か思い当たることありませんか?」
「!!」
 机について沈黙を守っていた教授は、目を丸くしてシゲを見た。
「どっ…どうしたんです?驚いたような顔をして…」
「私は居たのか!?」
「何を訳の分からないことを言ってるんですか!」
「台詞がないから居ないのかと思っていた…いや。こっちの話だ。(注*13)で。なんの話だったかな?」
「どこから話しますか?」
「長くなるのか、ちょっと待て──なるほど、大体のことはわかった」
「なんだかよくわからないですが…まぁ、そう言うことです」
 技である。(注*14)
 教授は、沈黙を破って喋りだした。
「R‐0やBSS、Necについて探っている連中かも知れんな。いつかは出てくるだろうと思っていたが…」
 お約束的に…とは、思ってはいたが言わなかった。どうせここの連中は、そんなことくらい言わなくてもわかっている。(注*15)
「どうしますか?」
「上手く使えば武器になる。R‐0も、タイプUに移行しなければならなくなりそうだからな」
「たっ…タイプUを!?ですが…あれは…」
 シゲの言葉に教授は大きくため息を吐き出し、
「仕方がないのだよ。そうせざるを、得ない状況になったのだ」
 と、目を伏せた。
「そんな…しかし」
「ああ…私も、ついにこのときが来てしまったかと思わないでもない。しかし心のどこかで──」
 そうそう。言うまでもないことだが、この二人は自分に酔っているので、他の三人と同様に、放っておいてくれてかまわない。
 他の三人──一也、遙、明美助教授は何を始めたのかというと──
「ただいま戻りましたー」
 と、作戦本部室に入ってきた香奈のところに駆け寄り、
「香奈さん香奈さん!変なのにつけられたりしませんでした!?」
 なんて、一気にまくし立てるように言う遙。
「変なのにつけられる?──さぁ?」
「香奈ちゃんには、そんなのわかんないわよねぇ」
 明美助教授は軽くため息。
「遙はストーカーだとかって言うんだけどね。日頃の行いを考えれば、ストーカー以外にも──」
 そういう一也を、
「あ!?」
 とかって遙は睨む。
「香奈さんっ一也がいじめますっ!」
「一也っ、女の子をいじめちゃ──」
「僕が今遙をいじめてた風に見えた!?」
「香奈ちゃんには、そう見えたようね」
「一也、女の子というものね──」
「べーっ!」
「この…遙ぁっ」
「おーい」
 ドアの方でわいわいやっている四人に向かって、ものすごーく遠くから声をかけるかのようにして、シゲが言った。(注*16)
「こっちもかまってくれよー」
 なんだかんだ言っても、かまってくれなきゃ、シリアス芝居をしていても面白くも何ともないのである。


 Nec本部に入っていった香奈を見て、彼、小沢 直樹は笑った。
 いい子じゃないか…
 自嘲するように笑って、小沢は懐から携帯電話を取り出す。
 いつも通りの、かけなれた短縮ダイヤルを押すと、いつも通りの相手が、いつも通り数コールのうちに受話器を取り上げた。
「小沢です。吉田 香奈とコンタクトを取りました。思った以上に、おもしろい子ですよ。──ええ、やりがいがありますね」
 言いながら胸の内ポケットを探り、煙草を取り出す。軽くふるうけれど、もう残りが少ないらしい。わずかに飛び出ただけのそれを前歯で咬み、引っぱり出しながら、彼は続けた。
「いい子ですよ。俺も、惚れちゃうかもしれませんね」
 小沢は、笑っていた。


「興味があるんだよ」
 小沢は壁に寄りかかったままで言った。
 言葉の先にいるのは、香奈である。
 脳神経機械工学研究室。そのがらんとした部屋の中に、二人はいた。
「興味って──」
 香奈は少しうつむき加減に返す。
「でも私は、質問に答えられるほどたくさんのことを知っているわけじゃないですよ」
 必要はないから──と運び出さなかったスチール棚が、研究室の壁際にはいくつか残っていた。香奈はその棚の中から、明美助教授に頼まれた資料を探しながら言う。
「それに、答えられない質問には、答えられません」
 香奈が小沢に手渡された名刺。それには、小沢 直樹、26歳。ルポライターと書かれていた。
「質問の内容を言う前から、答えられない質問には答えられないなんて言われてもなぁ」
 小沢は笑う。彼の手の中では、テープレコーダーがゆっくりと廻っていた。
「たとえば、どんな質問には答えられないわけ?」
「えっ?」
 小沢の質問に目を丸くする香奈。
「どんなって──」
 と、思わず考え込んでしまう。
 ご存じのように、香奈は一つのことを考え込んでしまうと、それ以外のことが全く出来なくなってしまう子なので、
「え…えーと…」
 と、つぶやく彼女の手は、完全に止まっていた。
「じゃ、とりあえず質問するよ」
 困ったように眉を寄せ、小沢は言う。今時、変わった子だ…
「答えられない質問には、答えられませんって答えてくれればいいや」
「あ…すみません。私、あんまり要領よくなくて──」
 もちろん自分がそう思っているわけでなく、人によく言われる──ので、最近「そうなのかな」と思うようになってきただけのことだ。
「まずね──」
 小沢は言う。
「あのロボット──なんて言ったっけ?」
「R‐0ですか?」
「そう、R‐0。あれは──一体何のために作られたの?」
「えーと…」
 香奈は眉を寄せた。何とも難しい質問だったのである。少なくとも、香奈にとっては。
「簡単に言えば、多足歩行式大型マニュピレーターのデータ収集、及びそのマニュピレーションにおける最も効果的、かつ能率的なシステムの──とか何とかってシゲさんが言ってました」
「なるほど」
 小沢は頷く。それは、彼もすでに知っていることだった。そして矢継ぎ早に、彼は次の質問を言う。
「じゃ、R‐0って言うのは、そもそもはエネミーとかと戦うために作られたんじゃないってわけだ」
 その言葉に、香奈がぴくりと身を震わせた。そして、彼女は間髪入れずに返した。
「違います」
 はっきりと答える香奈。彼女のその言葉に、一瞬だけ口許を弛ませる小沢。香奈は、全く気がつかなかったようだったけれど。
「R‐0は、兵器じゃないんです」
 香奈は言う。
「じゃ、何?」
 小沢は返す。
「それは──」
 小沢の質問に、香奈は少しだけうつむいて、悔しそうに、眉を寄せて答えた。
「答えられません。──私も、知らないから」


 何となく、それ以上続けて彼女に聞くことが小沢には出来なかった。
 最後の質問に答えた後に見せた香奈の微笑みは、儚げで、ものすごく脆くて、触れただけで壊れてしまう硝子のそれの様に感じられて──
「えと…資料、何探してるんだっけ?」
 なんて言って、彼はいつの間にか彼女の前にあるスチール棚に手を伸ばしていた。
 何やってんだ俺は──
「…すみません」
 香奈が、消え入りそうな声で言う。
「いや…いいよ」
 小沢は、なぜかついさっきまで当たり前のように出来ていた、『香奈のことを見る』と言うことが出来なくなっていて、
「あと、もう一つだけ聞いてもいいかな?」
「…はい?」
 棚の中の資料を見つめたままで、聞いていた。
「香奈さんのこと──なんだけど」


「いい子ですよ。俺も、惚れちゃうかもしれませんね」
 小沢は煙草を歯で咬みながら、携帯電話の向こうにいる相手に向かって、続けた。
「そうそう。話は変わりますが、Necの周りを、別のネズミもうろちょろしているようです。調べた方がいいかも知れませんね。車は…レンタカーですから、調べてもどうせ偽名でしょうけど(注*17)」
 Nec本部を遠巻きに見る位置に止められたバンを見やって、小沢は言う。見た目はどこかのTV局かゴシップか…まぁ、問題はないだろうが…
「はい?──吉田 香奈ですか?まだわかりません。彼女がBSSに深い関わりを持っているのか、いないのか。まあ多少は時間がかかるかも知れませんが…」
 小沢は、ため息混じりに苦笑した。
「彼女から聞き出してみせますよ」


 給湯室で、香奈はぼーっと手にした名刺を見つめていた。
「香奈さん?」
 遙が、ひょいと給湯室に顔を出す。
「あっ!」
 香奈は遙の声に、大いに驚いてあわてふためいた。手にした名刺を急いでポケットに押し込み、
「なっ…なぁに?」
 と、振り返り、小首を傾げて微笑むけれど、さすがは香奈といったところか──
「もろバレです」
 遙ははぁと、香奈に向かって小さくため息を吐き出した。
「何見てたんですか?」
「えっ?う…ううん。なんでも、何でもないのよ。ホント。なんでも」
 香奈は乾いた笑いをその顔に浮かべながら言う。
 でも遙には「もろバレ」なわけで、遙は何かを勘ぐったように、「にやぁ」と微笑んだ。
「あ、何かあったんだ!その顔は、オトコだなぁ」
「ちっ…違うってば!」
「えっ!カマ掛けだったのに、そうなんですか!?」
「ちっ…違うってば。いやだなぁもう、遙ちゃんは!」
 言いながら、遙の背中をばしばし叩く香奈。
「痛いですよ、香奈さん!」
「そんなんじゃないのよ。もぅ」
「何がですかぁ…」
 何がそんなんじゃないのかなぁ?とも思ったが、遙はあまり突っ込まないことにした。突っ込んで聞いても、もっと強くたたかれてしまうのがオチだろうし。
「大体ね、これは問題なのよ。うん」
 とかって言って、香奈は「うんうん」と頷いている。
「何が問題なんですか?」
 聞き返した遙に、
「えっ──?」
 香奈は驚いて目を丸くして、ぽっと顔を赤らめた。
「えっ──いや…あの…」
 口ごもる香奈に、眉を寄せる遙。
「なっ…何?」
 香奈は遙の視線に聞き返す。
「何が問題なんですか?」
「え──えーと…だから」
 香奈は困ったように眉を寄せながら、
「例のストーカーの話かな?」
 なんて言って、無理矢理に微笑んだ。
 沸騰を始めたヤカンが、ぴーっと音を鳴らし始めていた。


「香奈君には、辛い話になるかも知れないな」
 Nec、定期会議──
 会議室の机に腰を下ろして、教授はぽつりと呟いた。言葉の先にいたシゲも、小さく頷いて返す。
「タイプU化ですか…ですが、R‐0はもう僕らだけのものって訳じゃないですからね」
「そりゃそうだけどね」
 椅子に座り、明美助教授はノートパソコンを開いた。二、三枚のディスクを眺めながら、
「彼女、絶対に怒るわよぉ」
 と、男二人に向かって悪戯っぽく微笑みかける。香奈を説得するのは、彼女の仕事ではない。
「あのぅ…」
 それを遠巻きに見ていた一也が、
「タイプU化って、なんなんですか?」
 机の上にいつものアイテム──要するにポテトチップス──を置きながら聞く。
 明美助教授とシゲは顔を見合わせ、ぱちくりとお互いに瞬きをしてから、教授の方に振り向いた。視線の先の教授は椅子に深く座り直してから、シリアス顔に言う。もちろん、そうしたことに深い意味はない。
「タイプU化、要するにR‐0のバージョンアップ計画のことだ」
「バージョン──」
 聞き返そうとする一也の声を遮って、シゲが言う。
「R‐0に搭載されるべき予定だったウェポンを、完成させる計画だよ。R‐0の完全版、つまりタイプU」
 バッと、どこから出したのか、机の上に設計図を広げてみせるシゲ。
「まずは基本を押さえて頭部バルカン。これは初陣で外装を使ってたけど、内蔵に切り替える。それから、シールド。バズーカ。ジャベリン。ドリル。ハンマー。ヨーヨー。ケンダマ。フリスビー──」
「シゲくーん」
 暴走を始めたシゲを、明美助教授が冷たい視線と冷めた声で止める。
「真面目にやりましょ?」
「僕はいつも真面目です」
 と、本当に真剣な顔をして言うから困る。
 教授は一人、満足そうに頷いた。シゲも立派な科学者になる素質は十分だ。(注*18)
「まぁともかくもR‐0をより強力に──」
 そこで、シゲの台詞はぷつりと切れた。
 設計図をくるくると巻き戻しながら言うシゲの言葉が途切れたわけは、会議室に入ってきた彼女と視線を合わせたためである。
「いや…その…」
 がさがさがさっと、急いで設計図をしまうシゲ。明美助教授は我関せずと言うようにパソコンを立ち上げて、「このプログラムは変えなくちゃー」とか言いながらキーボードを叩き始める。
「どう言うことですか?」
 会議室のドアの脇には、香奈が立っていたのである。
「タイプU化って、どうして今更、そんなことをする必要があるんですか?」
 ポットを両手で持ったまま、香奈はつかつかと教授の方へ歩み寄った。
「なんでR‐0を改造しちゃうんですか?R‐0は、あのままで十分じゃないですか」
「そう言うわけにはいかない。R‐0は、もはや我々だけの物ではないのだ。R‐0には、この国を護るという、重大な使命があるのだからな」
「だからって──それじゃ約束が違います」
 香奈はポットをどすんと机の上に──教授の目の前に──置いて言う。きゅっと寄せた彼女の眉を見て、一也は姉が真剣に意見しているのだとわかった。
「大体、教授だってR‐0を戦争の道具として──」
「すまないが香奈君…」
 教授は椅子から立ち上がり、ポットに手をかけて、香奈の視線に返した。
「この計画に変更はない」
 その言葉に、ぴたりと全員の時間が止まってしまった。
 突き放すような教授の言葉。ごくりと唾を飲む香奈。
 教授は無言で、また椅子に座り直した。
「どうしてですか…?」
 香奈は、ぽつりとつぶやく。
「どうしてみんな、R‐0を、エネミーと戦う道具としてしか、見てくれないんですか?R‐0は、そのために──何かと戦ったりするために──作られたんじゃないはずなのに」
 そして、香奈は少し声を震わせて、
「戦争する兵士みたいに戦うR‐0なんて、私、見たくないです」
 小さな手を握りしめたまま、会議室を出て行った。遙は、脇を通り抜けた香奈の唇が、かすかに震えていたのを、視界の隅に捕らえていた。


「あ…」
 小沢はつぶやいた。
 煙草の自動販売機の前で。
 Nec本部へ続く未舗装の道と、舗装された道との交わる場所に、それはあった。ただ、本部へ向かう道とは、反対車線にあたる位置になるのだけれど。
「香奈さん!」
 小沢は、道の向こうに向かって声を上げた。
 ひとり、とぼとぼと歩いていた香奈が、ふと立ち止まる。
 煙草の箱のビニールを開ける手を止め、車道に駆け出す小沢。車なんて、元々通るような道ではないので、危険はない。
「あ…小沢さん…」
 香奈は小さくつぶやいて、きゅっと握った手で鼻をこすった。小沢には、なぜ彼女がそうしたのか、よくはわからなかった。
「なに、どうしたの?」
 香奈に駆け寄り、小沢は聞く。
「もう帰るの?何なら、送ってあげようか。どうせ暇だし」
 笑いながら、小沢は言う。
「あ、でも厚かましいか。そんなの」
「いえ、ありがとうございます」
 香奈は、小沢の申し出に細く微笑んで断りの言葉を言った。
「でも、いいです。今日は、歩いて帰ります」
「歩いて?──って、結構距離あるんじゃないの?」
 目を丸くする小沢に、微笑む香奈。
「はい。でも、今日は歩いて帰りたいんです。そうすれば、きっと疲れて、すぐに眠っちゃうだろうから」
 そう言って、あの──儚げで、ものすごく脆くて、触れただけで壊れてしまいそうな硝子の微笑みを見せる香奈。
 小沢は、一瞬言葉を失った。けれど、何とか聞き返す。
「な…何かあったの?香奈さん。あの…僕が力になれることなら、言ってよ。協力するからさ」
 何言ってんだ俺は──
 心の中で、そんな台詞を言う自分に、小沢は笑っていた。よくもまぁ、口をついてそんな言葉が出てくるモンだ。
「いえ、いいんです。ごめんなさい」
 香奈は、軽く頭を下げた。
「私の、わがままなんです。わかってるんです。私も」
「香奈さん…本当にどうし──」
「じゃ、私帰ります。──さようなら」
 香奈は小沢に向かって微笑むと、その微笑みを残して、歩き始めた。
「あ…」
 小沢は、彼女の小さな背中を、その目で追っていた。
 しばらくの間──
 小沢は、手にしていた煙草を、とりあえずポケットの奥に押し込んだ。
「香奈さん!」
 いつの間にか、小走りに彼女に駆け寄っている自分。
「途中まで、一緒に行ってもいいかな?」
 隣りに並んだ小沢に、香奈は、細く微笑んで返した。
「…はい」


「どうしてお姉ちゃん、R‐0を改造するのに反対なんでしょう?」
 ハンガーの中に横たえられたR‐0。その脇では、整備員たちがシゲの書いた設計図を取り囲んで、ああだこうだと意見しあっている。
「理由か──難しいぞ」
 唸って腕を組む教授を見て、一也は小さくため息を吐き出した。難しいって言ったって、どうせいつもみたいに「お約束だ」とか、「その方が展開的に燃えるから」って言うんでしょ。
「平たく言ってしまえば、香奈君の望むR‐0は、こんな物じゃないと言うことだな」
 軽く笑いながら教授は言う。その言葉に、一也は目を丸くした。
「何だ?そんな風に目を丸くして…」
「いえ…」
 驚いた…教授がまともなことを言ってる…
 一也も酷いことを言う。
「あの…」
 一也は、小さく口を動かした。尋ねてみても、答えは返ってこないかも知れないと、そう思ったからである。
「お姉ちゃんは、R‐0に何を望んでいるんですか?」
「さて…何かな?私にもよくわからない」
 それは嘘じゃないな。と、一也にもわかった。やけにあっさりと教授が言ったからである。
 教授と一也は、しばらく無言のままでR‐0を眺めていた。シゲや明美助教授が、しきりに整備員たちに何かを言って、めまぐるしく動いている。
「どうして改造する必要があるんですか?」
 R‐0の頭の方へ駆けていくシゲを見ながら一也。
「知りたいかね?」
 R‐0の頭部に駆け寄ったシゲが、ノートパソコンを覗いていた明美助教授に、懸命になって何かを言っていた。どうやら、シゲが「絶対につける」と言って聞かなかった内蔵型頭部バルカンの事らしい。ケースレス弾がどうとか、プログラム的にどうとかと言い合っているようだ。(注*19)
「どうしてお姉ちゃんがあんなに嫌がってるのに、改造するのかなって」
 R‐0の左手の前にいた整備員たちが、大声でシゲを呼んだ。「シゲさん!シールド装着接点のこと何スけど!」と言う声が、巨大なハンガーの中に響く。
「必要に迫られたからな」
 頭から、左手の方へ全力で駆けていくシゲ。半開きになった口が苦しそうだが、実のところは、R‐0が自分の手で変わっていくのが嬉しくて仕方がないのだ。(注*20)
「必要に迫られてって…R‐0のビームライフルとビームサーベルがあれば、エネミーなんて敵じゃないじゃないですか」
「そう思うかね?」
 一也は、突然目の前に出された茶封筒に目を丸くした。読めって事かな?と、その茶封筒を手に取る。
「先日、オーストラリアを襲ったエネミーだ。いわゆる、新種という奴だな」
 茶封筒の中からは、六ッ切りサイズの写真が五枚出てきた。出てきた写真に写る人型のエネミー。爆撃の中で、揺らぎもせずに立っている。
「これが新種?どうしてです?僕が初めて戦ったエネミーと、全く変わらないように見えますけど…」
 どの写真のエネミーも、嵐のような爆撃を受けていながら、傷一つ負っていない。まるで、人類が初めてエネミーと対峙したときに撮った写真のようだ。
「それを見て、何とも思わないかね?」
「はぁ…別に…何か?」
「オーストラリアほどの国が、エネミーに対して苦戦しすぎじゃないかね?」
「たしかに全然爆撃の効果がないようですけど──」
 ん?おかしいぞ…対エネミー用兵器は、各国で開発生産されているハズだ。これだけの爆撃を行っていながら、足止めにもならないなんて事、あり得るのか?
「攻撃が効かない?」
「そう。そのエネミーは、通常攻撃に対して無敵の耐性を持っている。ある、特別な理由によってね」
「特別な理由?」
 教授の声に顔を上げる一也。その視線が、教授の視線と出会う。
 教授は、一也の視線にうなずき返した。──特にその行為に意味はないが…(注*21)
 しっかりとした声で教授は言う。
「『超硬化薄膜(ちょうこうかはくまく)』いわゆるバリアフィールドの存在によってね」


「時間て、怖いですね」
 香奈は、ぽつりとつぶやいた。
「ん?」
 隣を歩いていた小沢が、喉を鳴らして聞き返す。
「時間が怖い?」
「はい…」
 香奈は、夕暮れていく空に向かって、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎだした。
「どんどんとすぎていって、どんどんと進んでいって、失った時間は戻ってこないのに、私たちは進む時間に、変わり続けていかなきゃならない」
「香奈さんは、変わるのが嫌なの?」
 小沢も、香奈の視線の先を追った。宵の明星が、輝き始めていた。
「いえ…変わるのは、私も嫌じゃないです。けど、時々、変わってもいいものかどうか、迷う時ってあるでしょう?」
「…ああ」
「その時に、変わらなきゃならなくさせてしまう、時間って怖いなって」
 紫色の空を見つめながら、微笑む香奈。
「でも、それも仕方がないのかな──って」
 そして彼女は、小沢のことを見た。
 小沢はその視線に、とまどいがちに返す。
「それって、R‐0のこと?」
 香奈は、「ふふ」と、口許を弛ませて、
「小沢さんは、きっと私たちのこと、何でも知ってるんでしょう?」
 微笑んだ。


「始まったみたいだな」
 双眼鏡をのぞいていた男は、小さく仲間達に向かって言った。
「ああ…どうやら、噂通りらしい。おい、何か見えるか」
 あんパンをくわえながら言った男は、隣の少々小太りな男の脇を足でつついて言う。
「なんか、忙しそうに動いてます」
 1200oF5.6という、いまいち使い道に首を傾げるレンズをつけたEOS‐1N──しかもRSだ──のファインダーをのぞいていた男は、足でつつかれながらも返した。
「では、こちらも情報収集を始めるとしましょうか」
 眼鏡をあげながら、バンの外にいた男は笑う。
 彼の眼前には、小さな黒猫が、行儀よく座っていた。
 ウィッチである。
「猫なんて使って、どうするつもりだ?」
 双眼鏡から目を離し、テレビPアナウンサー、新士 哲平は聞いた。
「猫なんかで、Nec本部の内部が見えるのか?」
 あんパンの残りを口の中に放り込み、袋をくしゃくしゃと丸めながら言うのは、カメラマンのセンちゃんである。
「おい、篠塚。これ捨てとけ」
「あっ、何するんですか。僕のウェストポーチはゴミ箱じゃないですよ!」
 と、センちゃんにゴミを入れられたのは、先のEOS‐1Nを持つパパラッチャー、篠塚だ。(注*22)
「猫は猫ですよ」
 そう言って眼鏡をあげる、情報屋の片桐。
「しかし、使いようによっては、使えないこともない」
「にゃ?」
 自分を取り囲む人間たちを見回して、黒猫のウィッチは小首を傾げた。この人たち、僕に何かくれるのかしら?
「にゃ?」
「こいつを使って、あそこの中を探ってみようじゃないですか」
 情報屋片桐はつっと眼鏡を上げると、ポケットから小さな黒い箱を出した。
 それを見て、新士が眉をひそめる。
「盗聴器か…」
「こいつはいいですよ。小型で、まぁ電池はたいして持ちませんが、十分でしょう」
 ウィッチをひょいと抱き上げると、
「黒猫とは、いい趣味をしているな」
 とか呟きながら、ウィッチの赤い首輪に盗聴器を仕掛けて笑う。
「空港が近いけど、大丈夫なのかね…」
 心配そうにパパラッチャー篠塚が言うが、新士は腕を組んだままで、双眼鏡をのぞきながら事も無げに言い放った。
「まぁ、心配するな」
 とことこと本部へ戻っていくウィッチ。
「何かあったとしても飛行機が落ちるだけだ」
 だけ…!?


「にゃー♪」
「あれ?香奈さんウィッチ置いてっちゃったんだ」
 足にすり寄ってきたウィッチを抱き上げて、遙は一也を大声で呼んだ。
「一也!ウィッチ!!」
 って、ウィッチを目の前に突き出されても…
「は?」
 と、一也は目を丸くする他はない。
 ハンガーの中、いつもの即席会議室──要するにホワイトボード前──で、一也は遙にウィッチを手渡された。要するに、押しつけられたのである。
「ちょっ…僕、今、R‐0の改造のことで手一杯なんだから」
「手一杯?」
 ホワイトボードに書かれた言葉をいぶかしげに眺めて遙。
「なんでR‐0の改造に、『プ○ステ』とか、『サタ○ン』っていう言葉が関係してくるのよ」
「こっ…これは!」
 言い返そうとするが…いや、ここは僕が言うよりシゲさんに──と彼をちらりと見やると、彼はふっと笑って、
「わかってないな遙ちゃん」
 ホワイトボードをコンコンと叩く。
「実はR‐0には『プレ○テ』や『サ○ーン』が標準装備されているのさ。一也君も、知らなかったようだがね(注*23)」
 シゲがつけたのである。しかも、ソ○ーやセ○に就職した友人から横流ししてもらったハード情報を、いちいち明美助教授に解析してもらってだ。(注*24)
「それになんの意味があるんですか?」
「遙、それを聞いちゃ…」
「ああっ!そんなことを言うのか。R‐0のコックピットシートはそれだけじゃないぞ。20倍速CD-ROMドライブも搭載されていて、ウィンドウズのゲームもできる!!(注*25)」
「だから、それになんの意味が?」
「しかも、使ってるハードが旧型のパソコンなんだよ」
「遅いんじゃないの?それって」
「遅いどころじゃないよ。最近のゲームなんか、動かないんだ」
「ますます意味がなーい」
 冷めまくってる遙。
 シゲは、声を荒げて反論した。
「ああっ!全然わかってないぞ二人とも。このドライブはもちろん音楽用CDの再生もできるし…ああっ!もちろんそれだけってわけじゃないぞ!BSS端末ヘッドギアのスピーカーは、もんの凄く良い奴を使っていてな。良い音が出る!もちろんオーディオプラグの方は24Kメッキを使っているし、(注*26)音飛び防止はもちろん、デジタルグライコもついてるし、R‐0のアンテナの方を使って、FM、AM、果てはPCM放送。映像方面だって、BS、Wowow、CSに至るまで見れて…AV機器としても申し分のない性能を…」
「いつからR‐0はAV機器になったんですか?それにしても、でっかいAV機器ですよねぇ…」
「…シゲさん、国家予算使ってそんな事してるんですか…」
「ああっ!二人ともすっごく冷めてる!!」
 シゲは、二人の冷たい視線に頭を抱えた。
「くそっ…せっかく、せっかくつけたのにィ…これを使えば、出撃の時とか、戦闘中とか、BGMを流しながらの行動が…」
「別にそんな事、できなくてもいいです」
 取りあえず、一也はそれだけはしっかりと言っておこうと思った。


「おっ…恐るべし…」
 ウィッチの盗聴器が拾った会話を聞いて、新士は額に汗を浮かべた。
「マジで欲しい…」
 あるなら著者も欲しい。(注*27)


 夜空には、弱く輝く十六夜の月があった。
「じゃ、さようなら」
 香奈は、その月明かりの中で微笑む。
「ああ…」
 小沢は、ただ、喉を鳴らして返した。
 香奈は、その小沢に、目を細めて微笑み返す。
「ちょっと、嬉しかったです」
「なにが?」
「小沢さん、嘘つきだと思ってたんです。でも、小沢さん力になってくれるって言ってくれたでしょ。それで、本当に力になってくれたから」
「僕が?香奈さんの力に?何の?」
 俺は、別に何もしてないのに──
 香奈は少しうつむいて、恥ずかしそうに、言う。
「小沢さん、一緒に歩いてくれたから」
 それだけ──
 だけれど、それだけでも、優しく自分を包んでくれるような、綿羽に包まれたような、そんな暖かさが感じられたから。
「いや──別にそんなこと」
 小沢は言葉を濁した。そして、そうしている自分に気づいて、思わず吹き出しそうになる。
「どうかしましたか?」
 香奈が聞き返す。
「いや…なんでもない」
 小沢は、軽く微笑んだ。


「小沢さん──」
 香奈は十六夜の月を見ながら、探るように彼に向かって聞いた。
「また、会ってくれますか?」
「あ…」
 小沢は一瞬答えに詰まったけれど、
「…ああ」
 月を見上げて言う香奈に、微笑みながら返した。
 香奈は、彼の言葉に、優しく微笑みながら返す。
「よかった」
 月明かりの中で微笑む彼女の顔に、小沢は何も言えなかった。


 Nec本部が闇の向こうに見える。
 小沢は、愛車Mitsubishi GTOに寄りかかって、煙草に火をつけた。
 赤い光が、闇に踊る。
「もろともに 大内山は出でつれど 入る方見せぬ 十六夜の月──か(注*28)」
 笑う小沢。
 見上げる先には、十六夜の月があった。
「何やってんだ。俺は」


 つづく








   次回予告

(CV 吉田 香奈)
 生まれ変わるR‐0。
 だが、それがR‐0の本当の姿なのか。
 変わるR‐0に、香奈は唇をかみしめる。
 そしてBSS。
 開けられない箱を巡り、人は何に思いを馳せるのか。
 夢と現実。
 現実と夢。
 ふたつの交錯するその先に見えるものは?
 一也は何を思い、香奈は何を感じるのか?
 次回『新世機動戦記R‐0』
 『Nec、それを取り巻く者たち。(後編)』
 お見逃しなく!


[End of File]