studio Odyssey


第二十一話




 あ…電話鳴ってる。
 ──からと言って、布団からもそりと起きあがって電話に出るほど、村上 遙は律儀な人間ではない。
 それに大体、ここは自分の家でもない。そんな私が電話に出ちゃ、ちょっと問題あるものね。なんて寝ぼけた頭で勝手に考えてみる。(注*1)
 けれど、早朝──と言っても、まだ空も白んでいないのだけれど──に吉田家にかかってくる電話など、どんな物か、出なくたって遙にはわかっていた。
 あーあ…起きなくっちゃ…
 もそもそとシーツの中で動く。「夏休みだから」と、昨日──正確にはもちろんもう今日だったけれど──遅くまで起きていたのを、今更になって後悔した。
 電話は相変わらず鳴り続けている。起きます起きます。起きればいいんでしょ。
 という脳とは裏腹。体はシーツの中でごそごそと動くだけ。
 あーあ。香奈さんはいいな。この電話の音なんて、きっと聞こえてないんだろうな。
 そうっとシーツから頭を出して、遙は隣で眠る吉田 香奈を見て、嘆息。
 本当に気持ちよさそうに眠っている。
 不意に、電話が切れた。
「もしもし…」
 なんていう、ちょっとかすれた一也の声。
 ああ…やっと一也が電話に出た。と、シーツの中に戻る遙。そうじゃないそうじゃない。
「うー…」
 だらける身体に喝を入れるかのように、遙はうーんと腕を伸ばした。「はぁ…」とため息とともに身体から力を抜いて、再びシーツの中へ──って。そうじゃないんだって!!
「遙?」
 眠たそうな一也の声が、開け放たれた部屋のドアをノックする音の後に続いた。言い忘れていたが、ここ吉田家にクーラーがある部屋はリビングだけである。よって、遙と香奈の相部屋、および一也の部屋にそのような科学的至高のアイテムはなく、いつも夜は窓とドア全開で風を通していた。(注*2)
「遙?起きてる?」
「ううん…寝てる」
 答えておいて何を言う。
「言うまでもないね。起きて」
「いやぁ…」
 本当に起きているんだか、寝ているんだかわからないような声。
 常夜灯の下でもそもそと動くシーツ。行って、ぴっとひっぺがしてやってもよかったのだけれど、一也は盛大にあくびをしながら、
「いいから起きてよ。僕だけ起きても、しょうがないでしょ」
 と、不満ぎみに呟いた。(注*3)
「いやん…いやん」
 なんて、シーツの中で一人首をふりふり。だけれど、一也はもうあくびをしながら自分の部屋へと戻ってしまっていたので、遙は一人むなしいだけだった。
「…起きればいいんでしょ」
 とても不機嫌そうに呟いて、もそりと起きあがる遙。ぼさぼさの頭をこりこりと掻きながら、枕元の時計に手を伸ばす。
「まだ…4時にもなってないじゃない」
 はぁと悲観するように呟いて、
「エネミーも、こっちの都合を考えて襲来してほしいわね…」
 無理な注文を、ため息混じりに言ってみた。


「いたか!?」
 男が叫ぶ。
「いや、こっちにはいない」
「くそう、どこに隠れたんだ!?」
 湾岸の倉庫群の中を走り抜けていく男達。スーツ姿の、一見はビジネスマンふうの男達だが、その手にはグロック、S&W(スミス・アンド・ウェッソン)のリボルバーなどが握られている。
 強く歯を噛み締めたまま、
「見つけだせ。なんとしても見つけだせ。他国の奴らも奴らを狙っているんだ。後れをとるわけにはいかないぞ」
 リーダー格の男は、携帯電話に向かって指示を出した。脇では、別の男が携帯の向こうから得た情報を告げている。
「CIAももう動いているらしい。なりふりは構っていられないぞ」
「聞いたな…」
 リーダーの男は、部下達に向かって命令した。
「この際生死は問わない。なんとしても捕まえろ!」
 やがて、静かな朝の空気を撃ち破る銃声が聞こえてくる。


 彼の呼吸は乱れていた。
『くそっ…』
 舌打ち混じりにつぶやく男。脇腹を押さえつけた右手の隙間から、赤い血がにじみ出てきている。
『もうダメか…』
 男はそう言いながら、コンテナの向こうへと視線を走らせた。もうすぐ近くまで、奴らの足音は迫ってきている。
『…ひどいわ』
 その彼を、心配そうに眉を寄せて見つめている女──いや、少女。
『どうして…こんなこと』
 彼女は、こみ上げてきそうになる嗚咽をこらえながら、言った。目の前にいる男は、きっともう死ぬだろう。あまりにも出血がひどすぎる。
『なんで、こんな事に──』
 少女は眉を寄せ、悔しそうに歯を噛み締めた。
『言うな。ベル』
 男は大きく息を吸い込みながら、彼女の言葉に返す。
『元はといえば、我々が起こした戦争だ。たとえ、我々の意志とは違っていたとしても』
 徐々に男の語気が弱くなってきているのを、少女は敏感に感じ取っていた。彼の身体を襲った、この星に住む人間達の撃った鉛の弾は、確実に彼の身体を蝕んできているのだ。
 少女は眉を寄せたまま、
『でも──私たちは戦いに来たんじゃないのに…』
 小さくつぶやく。
『私たちは、我々の犯した罪を償うために、ここに来たはずなのに』
『だとしたら、これが償いなんだ』
 そう言って、男は自嘲まじりに口許を弛ませた。
 そしてゆっくりと、自分の目の前にいる少女の肩に左手をかけ、言う。
『ベル。これはきっと、俺達の犯した罪の償いなんだ。そして、それはすべて俺が償う。ベル。お前は、新しい時代のために、生き残ってくれ』
『そんな──でも私なんか──!!』
 少女は目を見開き、男に詰め寄った。けれど、男はそれを止めるように、強く彼女の肩を握って返す。
『ベル。我々も彼らも、一緒だ。悪い奴ばかりじゃない。きっと我々の考えを理解し、我々の望む我々の償いをさせてくれる人がいるはずだ。そして、それを望む人々もいるはずなんだ。そのためにベル、おまえは生き残れ』
 男の言葉に、少女は視線を落とした。何も言うことは出来なかった。一緒にこの地に降り立った他の仲間達ともはぐれた。皆、無傷ではなかった。きっと、もう──
 無傷なのは、この男が護ってくれた、自分だけ。
 男は少女を見つめたままで言う。
『ベル、この戦争はもうじき終わる』
 少女はその言葉に小さく頷いた。
『その時に、その場所に、おまえはいろ。わかったな』
 少女はその言葉に、小さく頷いた。
 男はゆっくりと頷きを返すと、優しく微笑んだままで、
『ベル──行くんだ』
 ゆっくりと立ち上がった少女の背中を、その言葉で押した。
 少女は振り返るまいと心に決め、駆け出した。
 再び響いた銃声から、逃げる様に。








 第二十一話 使者。

       1

 朝のすがすがしい空気の中に響く、きいっこ、きいっこという音。
「なんでこういうときに限って、小沢さんはいないわけ?」
「勝手なことを…」
 と、一也はぽつりと遙の言葉に呟き返した。
 小沢 直樹。自称ルポライターの26歳。さらに香奈に言わせれば『私の彼氏』と言うことになる男である。最近はよほど暇なのか、毎日のようにNec本部に顔を出している。
 が──
「何てったって、まだ4時だから」
 あくびをかみ殺す一也の言うように、そんな時間にはさすがの彼もNec本部から一也達を迎えには来てくれなかった。
「ふぁあぁ…」
 と、こちらはためらいもなく大あくびの遙。
「あーあ。小沢さんはいなくてもいいから、あの車でもあればなぁ」
 言いながら、その間に脱力して一也の背中に寄りかかり、
「ぐぅ…」
「寝たフリすると、落とすよ」
 と、一也にどやしつけられた。
 朝の4時。
 もちろん電車も通ってないし、先に遙の言ったように車もない。(注*4)
 では本部までどうやっていくか──単純である。と言うか、あと残されている移動手段など、たかが知れている。そう──
 自転車だ。
 きいっこきいっこと一所懸命こいでいるのはもちろん一也で、
「ぁああ…眠い…」
 と、さっきからずうっとそんなことを言っている遙は、彼の背中に寄りかかって半分眠っていた。
 くそっ…いつもこうだよ。
「ねぇ…」
「なに?」
 遙の声に不機嫌そうに返す一也。
「ついたら起こして」
「起きてなきゃ落ちるでしょ!」
「ねぇ…」
「なに!?」
「香奈さん、ほっといてよかったの?」
「起こしたって起きないものは、しょうがないじゃないか」
 香奈とウィッチは、すぅすぅと吉田家でまだ安眠していた。
 一也も遙も、起こしても起きないことくらいよく知っているので、メモを残してそのままほったらかしてきたのだが、きっと目が覚めたときに驚いて、次に顔を合わせたときに怒るのだろう。
「ねぇ…」
 と、遙がまたも呟く。
「なんだよ!」
 いい加減一也もぴくぴく来ていた。寝てるところをたたき起こされたのは僕だって同じだし、しかもこっちは自転車までこいでるんだぞ!
「ね…ねぇ…」
 ぎゅっと、遙が一也の背中に抱きついた。
「な…なんだよ」
 一也はちょっと身を固くして、逃げるように背筋を伸ばした。けれど遙はさらにきゅっと一也を引き寄せ、
「あ…あのさぁ…」
 と、耳元でぼそりと呟いた。
「な…なんだよ」
 柔らかな感触を背中に感じながらも、一応憮然とした表情で返す一也。
 Nec本部まであと少し、東京湾が一望できるアスファルトの道。──正確には道ではなくて、ただの岸壁なのだけれど──東の空も白んできて、弱く吹く海からの風に、遙の髪が軽く揺れていた。
「あの…さぁ…」
 一也の耳下にささやく遙。
「だからなんだよ」
「あれ…なんだと思う?」
「はぁ?」
 と、ちらりと遙に視線を走らせて、彼女の指さす方を見る一也。そこに、
「まさか、死体じゃないよね?」
 なんて遙が危惧するような、人影があった。
「まさか…」
 一也も「あはは…」と乾いた笑いを返す。「違うよ…」と呟くけれど、どっちにしても通らなければならない道の脇、岸壁近くの所にその人は倒れていたので、見過ごすわけにはいかなかった。
 きいっと自転車を止め、
「あのう──って、遙。離れてよ」
「だって…」
 だっこちゃん人形よろしく(注*5)一也の身体にしがみつく遙のせいで、一也はサドルから降りることなく、その人影に声をかけた。後から考えてみればそれは誤った選択だったのであるが…神ならぬ一也が、そんなこと知る由もない。
「あ…あのぅ…」
 と、一也。
 まず目を引いたのがその髪。短い髪型なんて別に今時珍しくはないのだけれど、その色が美しい金色だったのである。
 それから、やけに小さな背。年齢的には中学生くらいだろうか。うつぶせに倒れていたので顔は確認できなかったのだけれど、まず間違いないだろうなと一也は思った。
 それを考えたのは遙も同じだったようで、
「あのさぁ…」
 と、苦笑いを浮かべて怖いことを言う。
「最近、中学生とか、それ以下のチャイドル世代の子って、よく殺人事件とかに巻き込まれちゃうよね?(注*6)」
「そういうことを言うなよ」
 苦笑いを浮かべる一也も、それは考えていたようである。
「あの…」
 と、探るように身を乗り出させる一也。
 彼女は、何故か全身びしょ濡れだった。海からはい上がって…?と、岸壁の向こうから続く濡れた地面を見て眉を寄せる。
 さらに身を乗り出させようと、一也はブレーキをしっかりと握りしめた。きゅっと悲鳴を上げた前輪のブレーキに、
「!?」
 不意にぱっと顔を上げたその彼女に、
「きゃあぁああ!」
 驚いた遙の悲鳴に、一也は驚いた。
「あ…」
「い…」
 ふわっという浮遊感が一也と遙を襲った。そう──
 遙がのけぞったせいで、しがみつかれていた一也もろとも、自転車は倒れたのである。
 盛大に音を立てて倒れる一也と遙と自転車。
「いったぁああぁい!」
「バカっ!」
 泣きそうな声を出したのはどっちも同じだ。が、ちゃっかりというかなんというか、遙はしっかりと一也を下敷きにしているのだからたいした物である。
「わざとじゃないからね」
 なんて、笑いながら言ったのでは説得力がない。
「いいから早くどいて──あっ!」
 と、一也は短く声を上げた。
 二人に気づいて立ち上がった金髪の少女が、一也と遙に一瞥をくれて、走り出したのである。
「あ…ちょっ…ちょっと!」
 宙に手をさしのべる一也。一瞬、金髪の少女が振り返った。
「なによぅ、せっかく気にして声かけてあげたのにぃ」
 と、ふてくされたように頬を膨らませる遙。彼女は遙に一瞬だけ視線を走らせると、何かを言うように少しだけ口を動かし──だけれど結局、再び走り出した。
「なによ、こんな時間にこんな場所で水に濡れてりゃ、誰だってあやしがるっつーの」
「そりゃ…そうだろうけど」
 濡れた金色の髪が陽光の中に踊るのを眺めながら、
「結局…なんだったんだ?」
 そう小さくつぶやいた一也の声は、朝の空気を引き裂くけたたましいブレーキ音にかき消された。
 目を丸くする、一也と遙。
 とっさに立ち上がる。
「一也、チャリ!」
 言う遙の声が早いか、一也はすぐさま自転車を立て直すと、そこにまたがった。
「今日はツイてないっ!!」
 眉を寄せて叫ぶ一也。
「いつもでしょ!」
 遙が──かわいそうなことを──言う。(注*7)
 ブレーキ音──けたたましく響きわたった車のブレーキ音。突然、金髪の少女の目の前に飛び出してきて止まった一台の車に、一也は遙は直感的に「やばい」と悟ったのである。
 はっとして立ち止まり、くるりときびすを返す金髪の少女。何か舌打ちをするような言葉を発して、彼女は、二人の方へと駆け戻ってきた。
「ちょっ…一也!見てよ!!」
「なに?」
 遙の声に視線を走らせる一也。
「ちょっ──冗談!?」
 一也の視線の先、車からバラバラと降りてきた男達が、何事かをわめいていた。英語だ。それはわかったけれど、何を言っているのかまではわからなかった。一人が、空に向けて発砲したからである。
 首をすくめる一也と遙。
「なんなの!?」
 頭を抱えて言いながら、遙は金髪の少女の方を見た。
 彼女は、ぎゅっと強く目をつぶって、そいつらから逃げるように、走っていた。
「一也、逃げるわよ!!」
「あの子は!?」
「もちろん──」
 金髪の少女に向かい、遙は言う。
「早く!こっち来て!!」
 叫びながら差し伸べられた遙の手に、少女は、ただ困惑していた。銃声が再び響く。彼女の足下のアスファルトに、火花が散った。
「一也、一也も男の子なら、女の子二人くらい平気よね!?」
「ダメって言っても、ダメなんでしょ!!」
「もちろん!」
 短く一也に返し、遙は再び金髪の少女に向き直る。少女と遙の視線が、しっかりと出会った。
「Come on!!Catch a good hold of this hand!!」
 差し伸べられた遙の手に向かって、少女は、ゆっくりと手を伸ばした。
「一也!!」
 遙は、彼女の手をしっかりと握りに行く。そして、自転車の後ろへ引っ張り上げる。金髪の少女はただ、目を丸くするだけだった。
「OK!!──Go!!」
 遙の声に、
「しっかり捕まって!!」
 一也はペダルを踏み抜かんばかりの勢いで踏み込んだ。


「誤報?」
 Nec本部のハンガー。いつもの即席会議場──要するにホワイトボード前で、助教授西田 明美は眉を寄せていた。
 電話で叩き起こされて、髪の毛にブラシも入れずに来たのに──これだ。さすがに彼女も眉毛ぴくぴく。
「つまり?」
「つまり──誤報かも知れない──と言うことだ」
 明美助教授の質問に、胸を張って平田教授は答えた。けれど、もちろん空威張りである。額を流れていく一筋の汗が、それを克明に表していた。
「聞きましょう」
 明美助教授は努めて冷静に、耳を掻いたりしながら、聞き返す。
「いいわけを」
「いいわけではない」
 教授はこほむと咳払いを一つ。
「正確には『誤報かも知れない』ということだ。エネミー予想降下地点は東京湾湾岸。それもこの辺りなのだが…明美君、ここに来るまでの間にエネミーを見なかっただろう?」
「ええ…まったく」
「だから、誤報かも知れないと。そう言うことだ。ただ、もちろん第一種警戒態勢にはなっているから、一也君と遙君が着き次第、降下予想地点の警戒飛行を──」
「ま、落ちてきたのは隕石か何かでしょう。じゃあ、私は仮眠室で休ませてもらいます」
 と、欠伸混じりに明美助教授は言って、歩き出した。教授は何か言おうとしたけれど、やっぱりやめて、「うむ」と小さく頷きを返した。触らぬ神に──である。(注*8)
「あ。そういえば、二人はどうしたんですか?まさかまだ来ていないんじゃ…」
「うむ──」
 「そのまさかだ」と言おうとして、やっぱり教授は止めた。火に油を注ぐのは非常に危険である。
「あー…」
 言葉を探すように喉でうなる教授。そこに、R‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲの声が滑り込んできた。
「教授!電話です!村上総理!!」
 R‐0のハンガーは吹き抜けのようになっているので、その二階、作戦本部室の前の通路から、シゲが身を乗り出して怒鳴っているのが見える。
「わかった。すぐ行く!」
 と、シゲに向かって言いながら、小走りに駆け出す教授。要するに──彼は逃げ出したわけである。(注*9)
「まったく、誤報とはなぁ──こっちだって忙しいのに──」
 なんて、ぶつぶつ。
「…まったく」
 教授の背中を見ながらため息混じりに言い、明美助教授は欠伸をかみ殺した。
「しかし──」
 うーんと伸びをし、眠気を押しだそうとする。けれど、やっぱりこんなに朝早くから起こされたのでは、多少の不満も残るわけで──明美助教授はその不満を口にした。
「今日は、朝からツイてないなぁ」


「フェンス!登って!!」
 金髪の少女の手を引きながら、遙は自転車から飛び降りて叫んだ。
 がちゃがちゃがちゃと、一也が自転車をその辺に押し倒す音が続く。
「フェンスの向こうに行けば、回り道しないと車は入ってこれないんだ!」
 と、一也。フェンスの向こうは、東京国際空港の駐車場になっていた。
「登るの!わかる?Can you climb over?」
 戸惑いながらも、金髪の少女はフェンスに手をかけて登ろうとする遙を見、彼女のいわんとする事を理解したのか、彼女のあとに続いてフェンスに手をかけた。
「一也!見んなっ!!」
 と、遙。
「こんな時にまで何言ってんだよ!」
 遙、スカートなのである。
「いいから急いで!」
 言いながらも、律儀に後ろを振り向く一也。だけれど、ちょっと頬を染めながら。──遙の台詞は、少々、遅かったのである。


 フェンスをよじ登り、三人は東京国際空港の駐車場へと出た。
 何故か。理由は比較的簡単である。
「すみません!」
 と、遙。それほど大きくもない旅行鞄を持ったサラリーマン風の男に声をかけ、
「この車あなたのですか?」
 なんて言って、にこり。
「はぁ…まぁ…そうだけど」
 男──遙の感覚で言えばもうオジサンである──は、旅行鞄を出したトランクに手をかけ、遙と彼女に手を引かれた金髪の女の子に、目を丸くした。
「どうしたの?こんな朝っぱらから」
 一也も一緒にいたのだけれど、彼のことは目に入っていないのか、(注*10)男は遙に視線を落として言った。ちょっと、その目を細くして笑いながら。
「なにかあったの?」
「ええ、まぁ…」
 なんて言って遙は困り果てたように微笑んだ。もちろん演技である。ちらりと後ろを振り向くと、例の男どもがフェンスの向こうにまで迫ってきているのが見えた。仕方ない…
「お願いです。助けて下さい!」
 得意の猫なで声を使用し、眉間にしわを寄せちゃったりしながら、遙は男の腕にしがみついた。「えっ…」と硬くなる男に腕に、きゅっと身体を押しつけ、
「お願いですっ」
 上目遣いに男を見上げる。ついでに、その下では柔らかな二つのモノで腕を圧迫したりしているから、たいしたものだ。(注*11)
「えっ…そりゃ…私に出来ることがあるなら、何でも言ってくれよ。これから仕事にいかなきゃならないが、関西行きの第一便にはまだ時間があるし──」
 目をほそーくして笑った男の台詞は、残念ながら最後を結ぶことはなかった。
「ありがとうございます!」
 と、遙が身を翻して、トランクを開けていた鍵をその手に取ったからである。
「あっ!」
 男が上げたその声は、次の悲鳴と重なった。
「わあぁっ!!」
「ごめんなさい!恨むなら、この作戦を言いだした遙を恨んで下さい!!」
 一也が男の足をはらって、後ろから押し倒したのである。ご丁寧に、その腕をぎゅうと背中にねじりあげて。
「いたたたたた!!」
「僕は止めようって言ったんですからね!」
「いたたた!だったら離してくれっ!!」
「オ・ジ・サ・マ♪」
 なんて、運転席のドアを開けた遙が、人差し指を振りながら言う。
「女は怖い。オジサマくらいのお年なら、身をもって経験済みのコトではないかしら?」
「うっ…」
 たしかに…うちの経理の女どもは女房にチクるとか言って私を脅して…なんて、男は額に汗をした。
「あの…おじさん」
 と、一也も嘆息混じりにぽつり。
「僕も、この年で十分女の子の怖さって経験しちゃってます」
 男二人は、思わず「うーん」と唸りあった。(注*12)
「乗って!」
 遙が助手席のドアを開けて、金髪の彼女をせかす。
 彼女はこくりと頷き、もう躊躇することなく、車の中に身を滑り込ませてきた。遙が口許を弛ませて微笑む。
「一也!」
「わかった!どうもすみません!!」
 と、男の腕を放す一也。タイミングよく遙が車のエンジンを思い切り吹かして、哀れオジサンは黒い煙に巻かれる運命となった。
「うーげほっ!ごほっ!ぐほっ!」
「楽しんでるでしょ…」
 それを横目に見ながら、後部座席に一也が半身を入れてそう言うと、
「しっかり掴まってなさいッ!!」
 遙はいきなりクラッチを二速に繋いで、急発進した。
「おおぉおっ!!」
 落ちそうになるのを何とか堪える一也。外に残った右足が、アスファルトの地面の上を、靴底を減らしながら擦っていった。
「遙!本当に運転は平気なんだろうね!?」
 なんとか後部座席に身を躍らせ、こすれて斜めになったTOTAL MAXの靴底を見ながら、悲鳴じみた声で言う一也。
「安心しなさい!」
 それに続く遙は、にやりと笑って、すごいことを言った。
「右ハンドルの車に乗るのは初めてだけど…」
「はっ…遙っ!?」
 その言葉に一也は目を丸くした。









       2

「行方不明っ!?」
 と言う響きを聞いて、一也の姉、吉田 香奈は倒れそうになった。
「香奈さん、落ち着いて」
 と、支えてくれたのは小沢 直樹である。
 陽は、そろそろ南天に届こうかという時刻になりつつあった。当たり前のことだけれど、そんな時間になれば香奈だっていい加減起きるし、一也と遙の予想通りにメモを見て憤慨し、Nec本部へと顔を出すのである。
 が──
「どどどどどど…どうしましょう小沢さん!!」
 作戦本部室に入ってきて、そんないきなり話を聞いてしまったら、もう怒るどころの騒ぎではない。
「私がついていながら、二人──」
 おろおろしながら香奈。教授は目をしばたたかせ、「ついてはいなかったが…」と思ったが、言うのは止めた。話がややこしくなりそうだったからである。
「その可能性があるという話だ」
 教授は椅子に座り直して、机の上に置かれている書類に視線を走らせた。
「まったく…どうしてこう、次から次へと…」
 と、書類を訝しげに見ながら眉を寄せる。
「では、我々はこれで」
 来客用ソファに座っていた一見サラリーマン風の男二人は、アタッシュケースを手に立ち上がった。
「何か進展がありましたら、ご連絡を」
「うむ…ご苦労様」
 と、教授は頭の後ろに手を組んで、二人の男に向かって言う。この男達、こう見えても内閣調査室の者達である。たびたびここNec本部に『エネミーについての報告書』を持って来るので顔なじみではあるが、よく知った仲というわけでは、無論ない。
 二人が一礼して作戦本部室から出ていくのを見て、
「エネミーの現れなかったわけ…そして、一也くんと遙ちゃんが消えてしまったわけ…ですか」
 自分の台詞に酔いつつ、シゲは机の上に置かれた書類を手に取った。
 書類には、報告の日付もナンバーもふられてはいなかった。が、急に作成された訳ではないことは、紙の傷み具合からも容易に想像がついた。
 内閣調査室の二人が置いていった書類。それには、今日のエネミー降下誤報についての真相と、一也、遙が巻き込まれたであろう、事件の真相についてが記されていた。
「私たちの知らないところで、ずいぶんと情報が飛び交っていたようで──」
 教授に耳打ちする明美助教授。
「ああ──だがまぁ」
 と、机に肘をついて大真面目に教授は、
「所詮私らは、脇役だからな」
 前半の台詞がいやに少なかった事を根に持ちつつ、言った。(注*13)
「そんなことを言ってる場合じゃないです!!」
 と、香奈は著者の気持ちを代弁しつつ、ばぁんと机を叩く。
「一也と遙ちゃんが、大事件に巻き込まれちゃったのかも知れないんですよ!?」
「知れない──んじゃなくて、きっとそう」
 報告書をぺらぺらとめくりながら、シゲ。ひどいことを言う。(注*14)
「探さないんですか?助けないんですかっ!?」
 と、香奈は教授の眼前に顔を突きつけた。その表情の真面目なこと。
「うむ…」
 教授は目を伏せてぽつりと、
「明美君」
「はい?」
「何か良い案はあるかね?」
 明美助教授に、香奈のその視線を振った。
「うっ…」
 と、明美助教授も香奈の押すような視線に気後れする。が、よく考えてみれば「どうして私が?」である。
「教授。自分に作戦がないからって、私に振らないで下さい」
「明美君。君ね──」
 教授が何かを言うよりも早く、
「教授。あなたは私の教授です。あなたは私よりも上の立場。作戦くらい考えて、当然と言うべきでしょう」
「うっ…」
 この一連のやりとりで初の明美助教授からの反撃に、教授は思わす喉を詰まらせた。
「しっ…しかし…」
 香奈の視線から目を逸らしつつ、次の標的、シゲの様子を探る。が、シゲだってそんなもの、あるはずがない。彼は書類に自分の顔を隠しつつ、そろそろと移動していった。
 電話が鳴ったのは、ちょうどその時だったのである。
「はいもしもし!こちらNec本部作戦会議室!」
 嬉々として電話に出たシゲに、教授はあからさまにちっと舌打ち。
「もしもし?」
 シゲはこの時、『お約束』と呼ばれる展開にちょっと感謝していた。だが、『お約束』と呼ばれる展開が、この程度で終わるはずもないのである。
 だからといって、そんなこと神ならぬシゲが、知る由もないのであるが──
「もしもし?」
 シゲが聞き返すと、受話器の向こうで微かに空気が動くような音が聞こえた。耳に神経を集中させ、その向こうの状況を探ろうとするシゲ。
「どうしたんです?」
 シゲの顔をのぞき込んで小沢。肩をすくめるシゲに、眉を寄せる。そして、彼は電話の外部スピーカーボタンを押した。
「もしもし?」
 作戦本部室にいた全員が、固唾をのんで相手の出方を待つ。
「まさか、脅迫電話じゃ…」
 なんて、香奈が両手で口を押さえて呟いた。
「金ならないと言え」
「教授…」
 きっぱりと言った教授の言葉に、明美助教授は頭を抱えてため息を吐き出すことしかできなかった。
「あなたって人は…」
「もしもし?」
 受話器を持ち直して、シゲは呟いた。受話器の向こうの何者かが、軽く笑ったような気がした。
 いや。確実に笑った。それも、面白い悪戯を思いついたときに彼女がいつも見せる、「にやぁ♪」と言う笑い顔で。
 はっ!?として、シゲは受話器から耳を離そうとした。けれど、一瞬遅かった。
 彼が受話器を耳から離したのは、受話器から、彼女の大声が響いた後だったのである。
「きゃぁあぁぁあ!!シゲさん助けてッ!!襲われちゃうよおぉぉおお!!きゃあああっ!!」
 ぶちっ、と。電話は一方的に切られた。
 シゲは凍っていた。その耳の中で、きーんという高周波の音が鳴り続けていた。
「明美君…」
「はいはい」
 凍ったシゲの手から受話器を取って、電話に戻す明美助教授。
「小沢君」
「わかりました…」
 と、小沢はため息ひとつ。
 凍ったまま、どこかに飛んでいってしまった香奈を連れて、仮眠室の方へ。
「うむ…」
 教授は大仰に頷いて、
「元気そうで何よりだ」
 と、一言感想を述べて椅子に座り直した。


「楽しんでない?」
 という一也の言葉に、
「失礼なッ」
 と、返す遙。手には今切ったばかりの携帯電話が握られている。
「じゃあ何だよその顔は」
「え?」
 遙の顔は、実に楽しそうに笑っていたのである。
「えっ?そっ…そぅお?」
 笑いながら頬をさする遙に、はぁとため息を吐き出す一也。隣に座っていた金髪の彼女は、ただ目を丸くするばかりだった。
「さてっと!」
 と、遙は話をうやむやにするように、携帯電話をポケットにしまい込んで、がらんとした薄汚い部屋を見回しながら手を打った。
「どうしようか?」
 そんなこと言われたって、一也にだってどうしようもない。とにかく逃げられるところ──本部はもちろん、家や遙の前住んでいたアパートもダメだった──と、こんな遠くまでやってきてしまったけれど、今更ながら、後悔から来るため息しか出ない。
「本当に、どうするの?」
 パイプ椅子をきしませながら、一也はぽつりと呟いた。
「どうしようか」
 と、遙も壁に立てかけてあったパイプ椅子を開く。しかし、座る前にクッション部分を指でなぞってみて、座るのを止めた。あまりにも汚かったのである。
「まずは掃除かしら?」
「そういう意味じゃないだろっ!」
 ちょっと本気になって怒る一也に、遙はひょいと肩をすくめて見せる。
「でも、ちょっと汚れすぎてない?」
「しょうがないよ」
 と、一也は部屋の天井を見つめてため息。
「半年近く、人が入ってないんだからね」
 三人が逃げてきた先。さすがにここには彼女を追う連中もいなかった。それはそうだろう、高速を使ってとばしても、ゆうに一時間近くかかるところにあるのだから。
 「初めて来た」と、遙は車から降りるなり呟いた。「そうか…」と、一也も思わず目を丸くして呟いた。「遙は、研究室を見たことなかったんだっけ…」
 T大学構内。第14号館にある、薄汚いがらんとした部屋、『脳神経機械工学研究室』である。
「逃げる場所がなかったとは言え…」
 最後にこの部屋を出たときと、ほとんど部屋の中は変わっていなかった。カギだって、いつも置いてあった外のロッカーの中に入っていたし、教授が持っていくかどうかで明美助教授ともめた健康サンダルも、最後に教授が脱いだ位置──ご丁寧に、引き戸のドアを開けてすぐの所──に、そのまま置かれていた。
「まぁ…ここならしばらくは大丈夫だろうけど…」
 一也は椅子を軋ませて、深いため息をついた。
「ベル──か」
 名前を呼ばれて、金髪の彼女は少し首を傾けて一也のことを見た。


 それは、ここに来るまでの車内での出来事である。
「名前は?」
 と、遙は聞いたけれど、金髪の彼女は声を出した遙の方を向くだけで、その質問には答えなかった。
 ハンドルを握って高速を走っていた遙は、彼女にちらりと視線を投げかけて、
「What your name?」
 少しきつい口調で問いつめるようにして聞いてみた。けれど、彼女は困ったように眉を寄せて見せるだけ。
「Wie heisen Sie?」
 と、今度はちょっと優しく聞いてみても、彼女は困ったような表情のままで、遙のことを見つめているだけだった。
「なら、これしかないわ。Kiu estas vi?」
 しかし、反応なし。
「…万策つきたわ」
 遙はため息を吐き出した。
「万策って…四ヶ国語で聞いてみただけじゃないか。しかも、最後のなんだよ」
「エスペラント語よ。知らないの?」
「普通知らないよ!大体、何でそんな言葉知ってるんだよ(注*15)」
「じゃあ、一也は何か別の言葉しゃべれる?」
 むっとした遙にルームミラー越しに睨まれて、後部座席で一也はため息。
「英語だってまともに出来ないんだから、そんなこと僕に言うだけ無駄でしょ」
「じゃあ、文句言わない」
 と、遙は唇を尖らせた。
「しかし…」
 思案するように呟いてため息を吐き出すけれど、
「言葉が通じないとなれば…やっぱり、この手しかないか」
 遙は助手席で眉を寄せている金髪の少女を足元からじぃと見て、言った。
「私、はるか」
 と、自分を指さす。
「は・る・か」
 子供に向かって言い聞かせるかのように、一字ずつ、しっかりと口を動かして発音する。
「古典的すぎない?」
 眉を寄せ、一也は苦笑いとともに呟いた。
 遙は口を一瞬とがらせたけれど、軽く微笑んで、ルームミラー越しに一也に向かって笑いながら返した。
「私、コレでも昔は英語一言もしゃべれなかったんだ」
「へ…?」
「その私が、アメリカに行ってまず初めに学んだコミュニケーションの取り方なのよ」
 笑いながら、今度は不意に後部座席の一也を指さして、
「彼、一也。か・ず・や」
 彼女に向かって、「わかった?」と言うように、目で語ってみる。(注*16)
 金髪の彼女は、小さく口を動かした。そこから言葉は出てこなかったけれど、咽まで言葉が出てきていることは、遙にも一也にもわかった。
「一也ぁ!?」
 意味もなく大声で呼んだ遙に、後部座席の一也が不機嫌そうに返す。
「なんだよ…そんな大声出さなくたって、車の中なんだから聞こえてるよ」
「ね。コレ、一也♪」
 と、助手席の金髪の彼女に向かって、遙はにっこりと微笑む。
「コレ?」
 指さしで「コレ」なんて言われて、一也は目を丸くした。なんか…非道い扱いだ…
「私は──」
 と、自分を指さして、
「遙」
 そして遙は、その自分を差した指を、今度は助手席の彼女へと向けた。


 この人達は、私の力になってくれる。
 ベルは、そう思ってきゅっと唇をかみしめていた。
 『ハルカ』と『カズヤ』。二人のことは、それしかわからない。きっと、二人も自分のことは、『ベル』という名前であるということしかわかってくれていないに違いない。
 言葉が通じない。ハルカは自分にわかるように話しかけてきてくれはするけれど、意志の疎通は、やはり完全にはできていない。
 けど──
 小さな部屋の中で、ハルカとカズヤは何かを言い合っていた。カズヤに強く何かを言われて、ハルカが再びポケットから携帯電話のような物を取り出す。さっきと同じ所に連絡を取っているようだ。
 本当に──二人は、本当に私の力になってくれるんだろうか──
 けれど、ベルが頼れるものは他になかった。
 ただ、信じるしかなかった。


「久しぶりだな」
 笑う男に、小沢は口を軽く曲げた。
 Nec本部。ハンガーの出口脇に立っていた男は、あの、内閣調査室の男だった。
「久しぶりだな。いやに他人行儀なんで、俺のことを忘れちまってるのかと思ったよ」
 言いながら、小沢は内ポケットから煙草を取り出す。内調の男も、ふっと、軽く口許を曲げて笑った。
「それはこっちの台詞だな。ボスになんの連絡もよこさないで…仕事を忘れて、女のケツでも追ってるのかと思ってたよ」
「お仕事、してますよー。ちゃんと」
 顔色一つ変えずに言いながら、煙草に火をつける小沢。
 何もかもお見通しってわけか──
「吸う?」
 おどけるようにして、小沢は煙草の箱を軽くふるった。一本、ひょいとそいつが飛び出てくる。
「いらん。小沢、ボスに連絡を取れ。BSSの事もそうだが、お前が連絡をよこさないでいる内に、状況はかなり変わったんだぞ」
 男は声を潜めるようにして言う。一瞬アタッシュケースに手をかけ、中の書類を彼に手渡そうかとしたが、止めた。
「それとも──もう、こっちには戻ってこないつもりか?」
 それならば、この書類を渡すわけにはいかない。
「どうなんだ?」
 小沢は答えない。あらぬ方向を向いたまま、ふうと煙を宙に吐き出すだけ。
 沈黙の中で、小沢は笑っていた。
 戻る──それはつまり、終わり──煙草を口にくわえたまま、小沢は聞いた。
「なぁ、お前、今内調でなにを探ってるんだ?」
「いろいろだな」
「それは──Necに関係することも?」
「ああ。だから言える」
 男は小沢に近づくと、彼が口にくわえていた煙草を奪い取り、地面に投げ捨てた。小沢の表情が、一瞬、昔のものへと戻った。
「Necは、孤立するぞ」


 香奈はどきりとした。
 その、男の台詞に。
 なんの話をしているのかはよくわからなかったけれど、小沢と知り合いらしいこの内閣調査室の男は、自分たちの知らないことを、すでに十分知っているらしかった。
 仮眠室で気がついてから、小沢を捜して、きっとハンガーの出口脇──Nec本部唯一の喫煙所──にいるだろうと思って来てみたら、二人の会話を耳にしてしまったのである。
「どういうことだ?」
 小沢の低い声。普段は決して出さないような、重く、問いつめるような声。
「それは──こっちに戻ってくるという答えと、受け取っていいんだな?」
 内調の男は、笑うようにして返した。
「教えくれ。何が起こってる?」
 彼の声に、男は本気で笑った。
「何をそんなにマジになってる?ここがどうなろうと、お前の知った事じゃないだろう?それとも、ここの穴の居心地は、そんなによかったの──」
 男の台詞が最後を結ぶことはなかった。
 小沢の動く気配。それに続く、激しい音。誰かがハンガー脇の鉄の扉にぶつかる音。激しい音に、香奈は身をすくませた。
「言いたいことははっきり言えよ」
「マジになるなよ…仲間内じゃ有名だぜ。お前が、ここの香奈って子に首っ丈だってな。お前、もう戻ってくる気なんてないんだろ?」
「戻ってやるよ」
 躊躇せずに、小沢は答えた。
「ボスにしっかりと言っときな。俺は、ここで仕事をしているだけだってな」
 そう言って、小沢は口許を軽く突き上げた。


「そうでなくちゃな」
 男は、口許を弛ませた。
「教えてやるよ」


 香奈はただ、凍り付いたようにその場に立ちすくみ、二人の会話を聞くことしかできずにいた。


「降るかも知れないなぁ…」
 車から降りて、シゲはぽりぽりと頭を掻いた。
 通い慣れたキャンパス。駐車場から第14号館までの近道も、知ったものである。
 さすがに今はもうそこを通る人はいないのか、下草もかなり生い茂ってはいたけれど、土の地面からアスファルトの地面への段差をひょいと飛び降りると、眼前にぼろっちい建物、第14号館が、昔と変わらずにそこに姿を現した。
「懐かしいなぁ」
 思わず微笑むシゲ。頭の中を研究室での想い出が走馬燈のように──何となくシゲの未来を暗示しているようなので止めよう。(注*17)
 ドアノブを少し下に押しつけて捻り──こうしないと開かないのである──錆びた音を立てるドアをシゲは引き開けた。
 薄暗い廊下。「いい加減、新しい電灯くらいつけましょうよ」と言い続けて二年たった廊下は、相変わらず薄暗い。──無理矢理いい言葉で言ってしまえば、シックに落ち着いていると言うべきか。
 14号館には、『脳神経機械工学研究室』以外には研究室は入っていない。もともと、この研究室自体が大学では異色であったのだ。爪弾きにされたといってもよい。教授だって、もとは機械工学の教授としてこの大学に呼ばれて来たのである。
「大学側も、清掃くらいしてくれたっていいのに」
 ぼやきながら階段を上がって、研究室のある方へと急ぐ。一階は、全て実験室になっているのだ。(注*18)
「おーい」
 階段を上がりきって真正面にある、青い引き戸をこんこんとシゲは叩いた。ドアの上にある黒いプレートには、『脳神経機械工学研究室』と、白く、小さな読みにくい文字で書かれている。
 中から、不意に声がした。
「超ヒモ理論と私という命題で──」
「遙ちゃん、そんなの今時の子にはわかんないって(注*19)」
「じゃ、山」
「川」
「谷」
「啓(注*20)」
 はぁとため息を吐き出して、シゲは引き戸をがららっと開けた。
「心配してきてみれば、元気そうじゃ──」
 と、シゲのその言葉は途中で途切れた。それはそうだろう、シゲの眼前のパイプ椅子には、見たこともない金髪の少女が、行儀よく座っていたのだから。
「だ…だれ?」
 何となく答えはわかっていたのだけれど、シゲは目を丸くして一也に向かって聞いてみた。遙に向かって聞かなかったのは、さすがに彼にもまだ多少の状況判断能力が残っていたと言うことだろう。
 だけれど、
「僕に聞かれたって、わかりませんよ」
 一也も、彼女のことをよく知っているというわけではなかった。
 ため息を吐き出して、一也は続ける。
「朝、本部に行く途中の道で倒れてたんです。声かけたら、急に逃げ出しちゃって。それで、それはそれでよかったんですけど、彼女、なんだか知らないけど、変な奴らに追われてて──」
 説明と言うよりも、言い訳のように呟く一也の言葉に、遙が人差し指を立てて笑いながら続く。
「で、私たちも一緒に追われるはめになって、しょうがないからここに逃げてきたというわけです」
「ふーん…」
 シゲは二人のこれ以上もこれ以下もない説明を聞いて、顎を撫でながら唸った。
「なるほど…そういうことか」
 なんて言って、一人にやり。
「なるほど。状況はよくわかった。彼女が、そうなんだな──」
「は?」
 一也と遙は、ただ口をぽかんと開けて目を丸くすることしかできずにいた。


「Necは孤立するぞ」
「なぜ?」
「上が、そうさせようと動いているからな」
「防衛庁か──」
「内閣調査室の連中もそうだ。今、エネミーについて、かなり詳しく調べている」
「エネミー?」
「なぁ、小沢。お前考えたことはあるか?」
「何を?」
「エネミーって、なんだと思う?」
「──わかってるのか?」
「奴らは、兵器なんだよ。地球外の、俺達と同じ知的生命体のな。わかるか?あのレポートも、少しは見ただろう?」
「ああ…」
「Necの連中は、地球を護るとか何とかと思っているかも知れないが、この戦いはそんなんじゃない」
 男は、言った。
 それは、彼女の認めたくない、言葉だった。
「この戦いは、単なる戦争なんだよ」


 T大学の駐車場にシルバーのソアラが止まっていた。明美助教授の車である。とは言っても、もちろん国の税金で買ったので、建前はNecの車であるが──まぁ、実体はそういう事である。
「男が一人、乗っていたな」
 と、その車を子細に眺めていた男が言う。
「ああ。ここは連中の大学だからな」
 相棒の男はちらりと、木立の向こうに視線を走らせた。第14号館が、その頭を木々の上に少しだけ覗かせている。
「あいつらをかくまうのには、いい所かも知れないな」
 そう言って、男は歩き出した。車をじっと見ていた相棒に向かって「おい」と声をかけると、彼も「ちょ…ちょっと待ってくれよ」と、小走りに後を追って来た。
「いいか、奴らにはケガをさせるな」
 胸に手を突っ込む相棒に、男は苦笑いを浮かべながら諭す。
「わ…わかってるよ」
 ひょいと肩をすくめて胸から手を抜く相棒。男はそれを確認して、ドアノブを普通に捻った。
 よって──
「あ…あれ?」
 第14号館のドアは、容易には開いてくれなかった。
「何やってんだよ」
「くそっ…なんて立て付けの悪いドアだ。開かないじゃないか!」
 二、三度がちゃがちゃとドアノブをいじって、やっとドアを開ける。
「くそっ…」
「下にあるのは、ほとんど実験室みたいだな…電気もついてない」
 相棒は、薄暗い廊下を見回して呟いた。
「いるなら上か…」
 呟きながら、男は胸に手を押し込んだ。自分で言っておきながら…と、相棒もそれに習って歩き出す。
「出口はどうなってる?」
「大丈夫だ。さっきの所以外にはない。連中は、もう袋の鼠だよ」
 頷くのを最後に、二人はきゅっと口を結んだ。
 足音を忍ばせて階段を上がり、眼前の青い研究室のドアを見つけると、二人はその両脇にぱっと身を押しつけ、互いに視線でカウントを取り合った。
 がっとドアを相棒が引き開ける。男が胸ポケットから拳銃を取りだして部屋の中にその銃口を向ける。
「畜生ッ!!」
 男は一瞬だけ部屋の中の景色に目を丸くすると、こみ上げてきた怒りに、壁を思い切り殴りつけた。
 もぬけのカラの研究室に、男の声が虚しく響く。
「どうなってやがるんだッ!!」


「甘過ぎ」
 と、シゲは走りながらにやりと微笑んだ。
「って言うかシゲさん…」
 ため息を吐くのは一也。
「普通、大学の研究室に『緊急脱出用シュート』なんてないと思うんですけど…」
「教授達の研究室らしいというか何というか…」
 遙も眉間にしわを寄せてはぁため息。(注*21)
「もぅ、今日はツイてないなぁ…」
 と、手を繋いで走っている金髪の彼女をちらりと見やる。この子、一体何者だって言うのよ。そうまでして、捕まえたい子なの?
「いやぁ、しかし」
 シゲは笑いながら、満足そうに言った。
「あのシュートも、一回も使われなくって可哀想だなぁとは思っていたけど、こんな事で使うなんてなぁ」
 裏手の、ゴミ置場の前を走り抜けて駐車場へ向かう三人。
「あいつら、いったい何者なんですか?」
 明美助教授の──ではないのだが──ソアラの助手席のドアに手をかけて、眉を寄せた遙が聞く。朝からずっと頭の中にある、疑問を。
「この子を狙ってるんでしょ?」
「そうだろうね」
 と、シゲは笑った。
「その子がその資料の通りの人物なら、引く手あまただよ」
 運転席のドアを開けて中に身を滑り込ませ、シゲはキーを回した。ソアラ2.5GT‐Tの直列六気筒、1JZ‐GTE型エンジンが唸りをあげる。(注*22)
「資料?」
 遙が倒した助手席のシートの脇を抜け、後部座席へ身を進ませた一也が聞いた。後ろについて来るのは、その金髪の彼女である。
「コレね?」
 助手席に座った遙は、お尻の下からもぞもぞとそのファイルを取り出した。
「エネミーの報告書?」
「彼女の正体が乗ってるんだ」
 ファイルを開く遙の横顔に向かって言うシゲ。その向こうの窓から、走ってくる二人の男の影が見えた。
「お。意外と早く来たな」
 なんて、感心しているヒマはない。
 男が腕を上げた次の瞬間、銃声が轟いた。
「!!」
 遙が身を屈める。シゲも肩をすくめて目を丸くしたけれど、それは銃声に驚いてではなかった。
 走りながら男が撃った弾丸は、『明美助教授のソアラちゃん』のボンネットをかすめ、火花を散らし、もちろんくっきりとそこに跡を残したのであった。
「こ…殺される…」
 呟くシゲの言葉に主語はなかったが、誰に殺されるのかは、コメントを控えよう。
「あ…」
 金髪の少女──ベルは、シゲに向かって言った。その言葉は遙に教えられ、彼女が喋れる数少ない言葉の一つなだけであったのだけれど、この状況に置いて、シゲを奮い立たせるのには十分すぎるほどであった。いや、実際十分すぎた。
「たすけて…ください」
 ベルの褐色の瞳に真っ直ぐに見つめられ、シゲは思考が止まったかのように口をぽかんと半開きにした。
「あ…」
 ベルは小さな手をきゅっと握り直すと、捨てられた子犬のように、寂しそうに眉を寄せてうつむいた。
 自分の喋った言葉がそれでよかったのかどうか、彼女にはわからなかった。ただ力無く俯いて、その手をきゅっと握りしめる。
 はっと、銃声に我に返るシゲ。どくどくと高鳴る自分の心臓の音に、自分で驚いた。
 ぷちっと頭の中で弾けた思考の中から、この子を助けなくちゃならない──と言う、妙な使命感の様なものが芽生えた。
 眉を寄せる金色の髪の少女に向かって、かつてないほどの真面目な顔を見せて頷くシゲ。
「よしっ!!」
 ギアをバックに入れ、思い切りアクセルを踏み込む。ハンドルを思い切りきり、タイヤの上げる悲鳴に嬉しそうに笑うと、
「この私に任せておきなさいッ!!」
 と、叫びながらギアをドライブに入れて、再びアクセルを全開まで踏み込んだ。
 遙とベルの悲鳴が重なる。
 後部座席でドアに頭をしたたかに打ち付けた一也は、萌え萌えモードのシゲに、はぁとため息を吐き出した。
「…どうなっちゃうんだろう…僕たち…(注*28)」


                                    つづく








   次回予告

                          (CV 吉田 香奈)
 徐々に、足音を忍ばせて忍び寄るもの。
 気づかぬうちにそのものの背後に立ち、
 一瞬のうちに襲いかかるもの。
 彼らの身に起こるのは──
 栄光か、
 破滅か。
 生か、
 死か。
 始まりを告げるそれは──
 次回、『新世機動戦記R‐0』
 『破滅への序曲。』
 お見逃しなく!


[End of File]