studio Odyssey


第二十二話




「あ…」
 金髪の少女──ベルは、シゲに向かって言った。その言葉は遙に教えられ、彼女が喋れる数少ない言葉の一つなだけであったのだけれど、この状況に置いて、シゲを奮い立たせるのには十分すぎるほどであった。いや、実際十分すぎた。
「たすけて…ください」
 ベルの褐色の瞳に真っ直ぐに見つめられ、シゲは思考が止まったかのように口をぽかんと半開きにした。
「あ…」
 ベルは小さな手をきゅっと握り直すと、捨てられた子犬のように、寂しそうに眉を寄せてうつむいた。
 自分の喋った言葉がそれでよかったのかどうか、彼女にはわからなかった。ただ力無く俯いて、その手をきゅっと握りしめる。
 はっと、銃声に我に返るシゲ。どくどくと高鳴る自分の心臓の音に、自分で驚いた。
 ぷちっと頭の中で弾けた思考の中から、この子を助けなくちゃならない──と言う、妙な使命感の様なものが芽生えた。
 眉を寄せる金色の髪の少女に向かって、かつてないほどの真面目な顔を見せて頷くシゲ。
「よしっ!!」
 ギアをバックに入れ、思い切りアクセルを踏み込む。ハンドルを思い切りきり、タイヤの上げる悲鳴に嬉しそうに笑うと、
「この私に任せておきなさいッ!!」
 と、叫びながらギアをドライブに入れて、再びアクセルを全開まで踏み込んだ。
 遙とベルの悲鳴が重なる。
 後部座席でドアに頭をしたたかに打ち付けた一也は、萌え萌えモードのシゲに、はぁとため息を吐き出した。
「…どうなっちゃうんだろう…僕たち…(注*1)」








 第二十二話 破滅への序曲。

       1

 自称ルポライター。誰もが嘘だと思っていても、ずっとそう言い通してきた小沢 直樹は、Nec本部ハンガー出口脇──Nec唯一の喫煙所──で、小さくため息を吐き出していた。手の中のファイル、内閣調査室の男が彼に手渡してくれたファイルを見つめながら。
 困りきった顔で内ポケットから煙草を取り出し、それをくわえて、ぽりぽりと頭を掻く。そしてゆっくりとそれに火をつけながら、言った。
 ハンガーの内と外、一枚の鉄の壁越しに背中を合わせた、彼女の問いに対して。
「…そんなつもりはなかったんですけど…聞いちゃいました」
「知ってたよ。きっとあいつも知ってた」
「小沢さん…さっきのことは本当ですか?やっぱり小沢さんは、その…お仕事をしているだけ?私たちを──」
「…違うよ」
 小沢は大きく煙草を吸い込んで、
「違うよ。きっと──」
 ため息混じりに煙を吐き出す。
 空に、黒い雲が低く垂れ込めていた。いつ泣き出してもおかしくない空模様だった。


 彼女の気配を背中に感じなくなって、小沢は自嘲するように口許を弛ませた。
 気がつくと、手にしていた煙草の灰が、ぽとりと足下に落ちていた。


 アスファルトの路面に、タイヤが悲鳴を上げる。そして、その車のドライバー以外の者達の悲鳴、クラクションの音が続いて響いた。
「しっかり掴まってなきゃダメだって!」
 笑ってハンドルを切りながら、そんなことを言うのはR‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲである。
「しっ…シゲさん!安全運転!!」
 などと言う村上 遙の台詞は、シゲの耳には届かない。「おっ!」なんて、巧く決まった自分の四輪ドリフトにご満悦なのだから。
「さすが、自分の手でチューンナップしたかいがあった!しっかり回るっ」
「いじったんですか!?」
「ちょっとだけだよ。R‐0を最近いじらせてもらってないから、暇つぶしに」
 遙と一也は、彼の言葉に深くため息を吐き出した。ダメだ…シゲさんに機械をいじらせたら、終わりだ…(注*2)
「いよぉーしっ、行くぜェーっ!!」
 にやりと口許を弛ませながら、シゲはアクセルを思い切りよく踏み込んだ。
 ドライビングは、その人の性格を表すという。
 ならば、ドライビングでこのシゲという男の分析をすると──
「高速に乗るから!料金所は突っ切るよ!!」
「ええっ!?」
 シゲの操る『明美助教授のソアラちゃん』は勇猛果敢に──暴れウシのごとく?──閉まっている料金所の車止めを破壊した。
 ドライビングでこのシゲという男を分析するのならば──
 萌え萌えモードに入ったら、もう誰にも止められないと言うことであろう。


「くそっ!さすがにソアラに乗ってるだけのことはある!!」
 と、こちらはシゲ達を追いかけている男達の方。
「おっ…おい!オレ達の任務は、あの女を捕まえることだぞ!わかってんだろうな!!」
 助手席から、相棒に向かって男は言う。けれど、無駄なことであるのはよく知っていた。この男、ハンドルを握らせると性格が攻撃的になるのである。
「おっ…おい!わかって──」
「こっちも高速に乗るぜっ!」
 『明美助教授のソアラちゃん』が、ヘッドライトの一部を壊しながら突っ切った料金所を、男達の車も走り抜けた。
「待ちやがれッ!!」
 相棒の剣幕に、男は大きくため息を吐き出した。
「わかってねぇ…」
 そしてその台詞に、ルームミラーに揺れる『交通安全』のお守りがぽとりと意味深に落ちたのであった。
「…ふ…不吉な…(注*3)」
 つぅと男の額に汗が伝った。
「ぬっ!そうこなくっちゃ!!」
 バックミラーに映る車を見て、シゲはにやりと微笑む。
「相手にとって不足なしッ!!」
「バトらないで下さいよ!!(注*4)」
「何を言う!!」
 後部座席からの一也の台詞を一喝するシゲ。
「相手は『日産、スカイライン2ドアクーペGTS25t TypeM specU』だぞ!車種形式で言うなら、『E‐ECR33』だ!価格帯もスペック的にもソアラに近いっ。これを相手に戦わずして、何と闘う!?」
「よっ…よくわからないですけど…」
 と、呟く一也。その後ろではシゲが懸命になって台詞の続き──「直列六気筒、DOHC、要するにツインカムエンジンであることはどちらも同じだが、最大トルクはソアラの方が低い回転数で、さらに上。総排気量はどちらもほぼ同じで、スペック的にも近い。いい勝負になるのには違いないんだ!」──なんて言って、にやり。
「要するに、私たちには止められないって事でしょ…」
 助手席で、はぁとため息を吐くのは遙。
「神よ…」
 とか言って十字をきる。
 後部座席の金髪の少女も、何となく状況がわかってきたのだろう、ただその顔に、苦笑いを浮かべて微笑んでいた。(注*5)
「トヨタ対日産!勝負だッ!!(注*6)」
 1JZ‐GTE型エンジンと、RB25DET型エンジンのあげる咆哮に、それを操るドライバー以外の人間の悲鳴が重なる。
「やめれーっ!!」


「やっぱりここにいたか」
 ハンガーの出口脇に、一台の車が止まっていた。Mitsubishi GTO、車種形式で言うならE‐Z16A‐TRXA2である。
「探したぞ」
 と、ため息混じりに言う平田教授。GTOに寄りかかって煙草をふかしていた男は、軽く笑いながら返した。
「そうですか?僕の出現確率が一番高いのはここですが」
 ここは、Nec本部唯一の喫煙所なのである。
「覚えておいてくださいよ」
「ここか、じゃなきゃ、香奈くんと一緒か──か」
 教授は笑うようにして、男の脇にまで身を進ませた。ひょいと、曇天の空を見上げ、
「今回もページが無くなるかもしれん。さっさと本題に入ろう」
 と、シリアス顔に言うべき台詞ではないことを呟いた。(注*7)
 男は笑っていた。その教授の台詞にもだけれど、教授が聞いて来るであろう事も、彼にはわかっていたからだ。
「君は、今回の件をどこまで知っていた?」
 教授が、一瞬だけ自分に視線を送って聞く。
「答える義理はないですが…」
 言いながらGTOの中へ身を入れ、彼は車内の灰皿で煙草の火を押し消した。ついでに、助手席のファイルを手に取って、
「ついさっき、このファイルを手に入れました」
 と、GTOの屋根の上にファイルを置く。
「あまり、気分のいいモノじゃないですけどね」
「今のところ──彼らの存在自体をどれだけの人間が知っている?」
「さて──どうでしょう?ほとんどの人間は知らないと思いますが」
 シークレットファイルだ。きっと、ある程度の人間達しかこのファイル存在を知るまい。そして、彼らの存在自体も。
 教授はファイルを手に、聞いた。
「我々は、どうすべきだと思うかね?地球を護る、正義の味方として」
 男は軽く笑って、頭を掻きながら返した。
「僕がどう考えていようと、教授は自分でお考えになっている通りにするでしょう?地球を護る、正義の味方として」
「うむ」
 教授はきっぱりはっきりと、言った。
 そしてファイルを手にした片手をあげながら、ハンガーの中へと戻っていく。
 男はただ、空に向かってため息を吐き出すだけだった。
「Necは孤立する──か」


「こんな報告は聞いていない!」
 手にしていたファイルでばしりと執務室の机を叩く男──村上 俊平総理。
「なぜ私に一言も知らせなかったのだ!?」
 ファイルの中身は、Nec本部から直通のファックスで送られてきたものであった。最新であるが、それが偽りのものでもある『エネミー報告書』。
「君は知っていたのだろう?」
 首相執務室の椅子に、深く身を沈める村上総理。机に肘をつき、深くため息を吐き出して言う。
「私の、納得のいく答えを君の口から聞きたいな」
 と、上目遣いに眼前に立つ男を睨み付ける。眼前に立つのはエネミーに対しての指揮権の半分を委託し、その情報の全てを統括する地位にいる男、防衛庁長官である。
「納得のいかれる答えといわれましても…」
 厚顔な男の表情は、全く変わることがなかった。
「下手に知っておられますと、広報などの際に──」
「ふざけているのかね!?」
 ばんと机を打って立ち上がる村上総理。
「FOXの映画じゃあるまいに!!(注*8)」
 防衛庁長官は、総理の言葉と行動に一瞬口許を弛ませた。が、すぐさまそれを腹の中に押し隠し、
「しかし、十分な調査もせずに情報公開に踏み切れば、逆に国民に不安を募らせる事となり──」
 用意してきた台詞を吐き出し始めた。
「私が聞きたいのはそういう事じゃない」
 村上総理はため息混じりに頭を振るう。
「君は知っていたのか知らなかったのか。イエスかノーか。それだけを答えてくれればいいんだ」
「いや…ですから──」
「違う!!」
 村上総理は腕を伸ばすと、長官の胸ぐらをぐっと掴んだ。さすがにこれには長官も驚いたようで、目を丸くして総理の視線から顔を遠ざけるように、その背筋を伸ばした。
「いいか。君も知っているだろうが、私は知略家だが政治家じゃない。そういう──言うだけで事をうやむやにしようとするような奴らは、最も嫌いな部類に入る」
「そ…総理…」
 恰幅のいい防衛庁長官の身体が、少し背伸びするような格好になっていた。押し殺した総理の声と、その奥にちらちらと見え隠れするものに、長官の額に珠のような汗が浮かび上がる。
「な…何をなさるのですか総理」
「君が言った先の台詞。アレを言った人間が、映画の中でどうなったかご存じかね?」
「なに…を?」
「日本も、アメリカも、若き党首が考えることは同じだよ」
 にやりと笑った村上総理が、力任せに長官を押して手を離す。彼はバランスを取るようにふらふらと二、三歩後ろに下がったけれど、結局どうと床に尻餅をついた。
「You're fired」
 降りかかってきた総理に言葉に、彼は目を丸くする。
「その顔は、これくらいの英語は分かると言うことだな。以前、君には話していたな。日本国憲法第六八条第二項を(注*9)」
「クビ──と」
 村上総理に言葉にゆっくりと立ち上がる防衛庁長官。その顔を覆っていた作り物の笑顔が崩れ、中から派閥の敵である男の顔が現れた。
「でしたら総理」
 探るように、下から上目遣いに総理を見る長官。
「私があの時に言った台詞も、覚えておいででしょう?」
 にやりとゆがませたその顔に、総理は一瞥をくれた。だが、彼は何か確信を持ったような笑みを浮かべたままで、続ける。
「貴方はこの国の総理には向いていない。自分でも、自分は政治家ではないといいましたね?知略家だと」
「何が言いたい。言いたいことは、はっきりと言いたまえ」
 総理は、平静を装って椅子に座り直した。しかし長官の含みを持つ言い方と、かつてない彼の自信に、ついにこの時が来たかと、机に肘をついて隠した口許を自嘲気味に弛ませた。
「利用できるものは何でも利用する。金も、他人も──たとえば奥様や、元第一党党首のお義父様の力など──流石は知略家というべきですかね」
「何を根拠に──」
 軽く笑って返す村上総理に、長官も、大仰に笑って返す。
「総理、ご自分で言ったではないですか!政治家みたいな口をきかないで下さい。貴方は政治家ではないのでしょう?」
「君ら政治屋とは違う」
「やっていることは我々、政治屋以上ですか?」
 村上総理は大きく息を吸った。そして、彼を睨むようにして、言った。
「言いたいことがそれだけなら、出ていきたまえ。ここにはもう、君の席はないのだからね」
「そうですか」
 軽く笑うと、防衛庁長官だった男は執務室のドアに手をかけ、
「総理との最後の会話にしては、情緒がなさすぎましたね」
 彼一流の皮肉を残して、そのドアを閉めていった。


「尻に火がついたかもな」
 ふっと自嘲気味に笑う総理の言葉の先には、彼の第一秘書である美しい女性がいた。しかし彼女は別段驚いた様子もなく、
「では、どうなさいますか?」
 と、執務室の椅子に腰を下ろした総理に向かって、事も無げに聞く。
「どうするも…こうするも…」
 なんて言って、村上総理は笑った。
「あの男のことだ。中途半端なネタで私に噛みついてくるとは思えない。今更じたばたしたところで、もう後の祭りだろう」
「流石は知略家ですわ」
 皮肉っぽく言って小首を傾げた秘書の微笑みに、さすがの村上総理も苦笑いで返す。
「君はどうする?このまま私についてくるのなら、それなりの覚悟が必要になるが…」
「覚悟…ですか?」
「そう。覚悟だ」
 村上総理は意味深に笑いながら、彼女を足元から舐めるように一瞥した。──が、その視線が彼女のそれとぶつかった時に彼女の口から漏れた台詞に、彼は目を丸くせずにはいられなかった。
「でしたら、総理にもそれなりの覚悟が必要になられますが?」
「私に?覚悟が?」
 眉を寄せる村上総理に向かって、美人秘書は笑いながら言う。
「ええ。私、これでも奥様に総理をよろしくと言われている身ですので」
 机に肘をついた姿勢のまま凍り付いた村上総理は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。えーっと…って。どういう事だ?
「つまり君は…」
 と、恐る恐る聞いてみる。
「家内と、通じていたと…そういう事なのかね?」
「そういうことになりますね」
 なんて言って、首を傾げながら笑う秘書。
 あぶねぇー…と、本気で胸をなで下ろす村上総理。(注*10)
「さて」
 あまりにもあからさまな話題を変えるための咳払いに、秘書の彼女も軽く吹き出す。
「尻に火がついてしまったことだし、こうなったら──」
 にやりと微笑んで、彼は言った。
「火だるまにでもなったつもりになるか(注*11)」


「どっちにつく?」
 自分で自分に問いかけた。
 今なら選べる。けれど──
「俺も、洗脳されちゃったのかな?」
 なんて、苦笑いを浮かべてながら、彼は頭を掻いた。
 ちょっと前、少なくとも三ヶ月前の自分ならあり得ない。分のないカケは身を滅ぼすとわかっていたし、自分のしていたことに、躊躇など覚えなかった。
 人を騙すとか、利用するとか──目的のためには別段気にはしなかったし、今までしてきた仕事──政治家や企業の情報を盗み出すこと──も、別にあくまで仕事で、自分とは違う世界に住む人間達が困るだけの事だったし、実際それを食い物にしてここまで来たし、正しいとか間違ってるとか、そんなことはどうでもいいと思っていた。
 いや、実際それは今でもどうでもいいと思っている。
 ただ、ちょっと考え方が変わってしまったと言うだけのことだ。
 ひょいと、ハンガーの中を覗いてみる。
 そこにある、白く輝く巨体をぼうと眺めて口許を弛ませる。大きく息を吐き出すと、曇り空と同じような色の煙が、自分のため息とともに宙に溶けていった。
 煙草の煙。昔みたいに、さっきからずっと吸い続けている。
 何でだろう…俺は何かを悩んでる…
「やれやれ…俺も、歳を取ったかな?」
 なんて、彼は頭を掻きながら笑った。
「深く考えて行動するのが、ダメになってきた」
 曇る思考の中、ひとつだけ出ている答えから、彼は逃げることをあきらめた。無駄なことのように思えたから。
 目の前にあるそれは、今まで彼が感じていた違う世界ではない。
 損得よりも思うままに。
 けれど、それもいいかななんて、小沢は笑いながら頭を掻いた。
「じゃ、行って来ます」
 小沢は煙草を持った右手をひょいと挙げながら、軽く笑ってハンガーの中に言葉を投げ込んだ。
 吹き抜けになっているハンガーの二階、作戦本部室前の通路から階下を覗いていた香奈は彼の言葉に軽く微笑んでいた。
 そして小さく言う。誰にも、その言葉は届かなかったけれど。
「ちゃんと、帰ってきてね」


 がりっと、無線機のノイズがスピーカを引っ掻く。
『目標は金港ICを通過。予定時間修正。マイナス7』
『目標は高速から下へ降ります。予定通り、再開発地区への誘導を』
『配備完了。誘導の方を』
『了解』


「しまったな…」
 シゲはハンドルを握り直して、一人ごちた。
 予想以上に相手の反応が早い。後ろから来るスカイラインもそうだが、要所要所で邪魔するように出てくる車からも、連中が自分たちをどこかに誘い込もうとしているのがわかった。
 時間の問題か…
 ルームミラーで金髪の彼女をちらりと確認する。もし彼女も捕まったとしたら──
 シゲは視線をルームミラーから、助手席の遙に動かした。そして、彼女のその膝の上にある例のファイルに視線を落とす。
「三人?」
 と、笑いながらアクセルを踏み込んで、さらに車を加速させるシゲ。
「しっ…シゲさん!?下に降りちゃったんですから、もうちょっと速度を落として…」
 運転席の後ろから言う一也の言葉なんて、聞こえているんだかいないんだか。シゲはにやりと微笑むと、三人に向かって言った。
「僕に命預ける気、ある?」
 答えは、躊躇なく返ってきた。
「無いです」
「萌えなーい」
 ちっと、舌打ちするシゲ。眉を寄せながら、ダッシュボードに手を伸ばした。


『これ以上泳がせるようなことがあると、他の奴らに気づかれる可能性がある。最悪の場合、生きていなくてもよい。サンプルの捕獲を最優先にしろ』
 無線機のスピーカーが、冷静すぎるほど冷静な男の声を伝えた。
『連中の生死は?』
 何者かの声が聞き返す。こちらは一変して、戸惑うような声色だ。
『現時点では問わない』
 答えは、一瞬の躊躇も、間もなく返ってきた。
『新港埠頭に誘い込め。あそこはまだ再開発があまり進んでいない。そこで決めろ』


「わああぁぁあ!」
「なんだっ!?」
「きゃああぁあっ!!」
 赤信号の交差点に突っ込んできたシルバーのソアラに、人垣が蜂の巣をつついたように散っていく。
 アスファルトに黒いタイヤ跡をしっかりと残してドリフトしていくソアラ。ゴムの焼ける臭いと、鼓膜を引っ掻く嫌な音が響く。
「なっ…何なんだ!?」
 そしてそれに続く、スカイラインGTS25tを先頭とした、数台の車。
 ほとんどの人は映画か、テレビドラマの撮影とでも初めは思っていただろう。たが、数秒後にはおかしすぎると、誰もが思ったのに違いない。
 なぜか。
 その車の運転は、撮影にしては全然安全ではなかったのである。
「くそっ!」
 舌打ちをするのはそのソアラを操っている男、シゲ。
「連中、先回りしてやがる!!」
 誘い込まれているのはわかった。だけれど、シゲにはどうすることもできなかった。
 下手に突っ込んでいって、事故を起こすわけにもいかない。自分や相手が事故るのは別にかまわないけれど、他人を巻き込むのはちょっと気が引ける。
 まぁそう思う心とは裏腹に、先にもちょっと触れたように、かなり無理な追越しをかけて歩道に乗り上げたり、反対車線に飛び出したりと、周囲に迷惑をかけまくってはいるのだけれど。
「退けって!」
 車の中で叫んだって、外にいる人間に聞こえるわけがない。
 『明美助教授のソアラちゃん』は、もうぼろぼろであった。粉々になったヘッドライト。吹っ飛んだバックミラー。もう駄目だな…なんて、シゲは一人苦笑いを浮かべて見せた。『ソアラちゃん』は、この状態でレストアですむなら儲けもの。ここまでやれば明美助教授だって怒るまい──いや、怒れまい。要するに、廃車状態だったのである。
「決着の地は近いかな?」
 曲がろうとした道を飛び出してきた車を睨み付けながら、ハンドルを切るシゲ。そろそろガソリンも残り少ない。
「この道だと──」
 広い道。だけれど対向車はほとんどない。この万国橋を渡ると、そこは新港埠頭再開発地区に入るのである。(注*12)
「新港埠頭か」
 ルームミラーに後ろを確認すると、スカイラインGTS25tが、その加速を増して迫ってきていた。
 並びあう二台の車。
 舌打ちをしてとなりの車を睨み付けるけれど、スモークを張ったその車内は、シゲには確認できない。ごうんと、ソアラのボディーがスカイラインに当たられて、揺れた。
 タイヤが悲鳴を上げる。その音ともに巻き上がる煙。
 シゲは再び舌打ちをすると、アクセルから足を離し、ポンピングブレーキで一気に減速した。スカイラインが前に出る。そしてシゲはその土手っ腹にソアラを突っ込ませ、思い切りハンドルを切った。
 平行して横滑りをする二台の車。外れたスカイラインのバックミラーが、ソアラのフロントガラスに跳ねる。
 行動のイニシアティブを取っているソアラは、スカイラインの抵抗もあって、カーブの向こうが開けるとすぐさま相手から離れて加速した。それにかけて最大トルクの回転数がスカイライン比べて低いソアラ。それが何とか離脱した所を、今のスカイラインにどうすることもできるはずがない。スカイラインは不安定に横滑りしたまま、カーブを曲がりきれずに資材の中に突っ込んで行った。
 金属がぶつかり合う、けたたましい音が響く。
 シゲは、ルームミラーに後方を確認した。初めからついてきていた強敵のスカイラインは破ったものの、その後ろから、どこからわいたのかまだまだ無数の車達が付いてくる。
 逃亡者にでもなった気分だな。(注*13)
 シゲは笑ったけれど、それはまさしくその通りであった。
 先回りをした車が、ソアラの行く道を次々と塞いでいく。
 曇天の空に、いくつものエンジン音とブレーキ音が吸い込まれていった。


 終息が近づいていた。
 次々と道を塞がれ、一点に追われていくのがわかった。ハンドルを握り直し、自嘲するように微笑む。
 ま。これも悪くないかな。
 大きく息を吸い込むと、シゲはアクセルをぐっと踏み込んだ。
 最後の抜け道を、プレリュードが横向きに塞ぐ。
 シゲはそれに向かって、口の端を突き上げて笑って見せた。
「やっぱ。オトコのコは可愛い女の子を助けるために、命張るくらいでなきゃ!」
 フルブレーキに、アスファルトとタイヤが擦れてけたたましい音を立てる。生まれる白い煙と、黒いタイヤの後。
 その抜け道を塞ぐプレリュードに向かって、ソアラは横滑りに突っ込んでいった。
 そして響いた轟音とともに、いくつもの光の破片が、宙に舞った。









       2

 はっと悪夢から覚めたときのように、彼女は目を見開いた。
 その口から言葉を紡ぎだそうとするのだけれど、今の彼女はその術を持たない。ただ悔しげに眉を寄せ、彼女は、横浜ベイブリッジを走る車の後部座席から、新港埠頭再開発地区の方へと視線を走らせた。
 空気を揺らしたその轟音は、彼女の耳にまでは届かなかった。けれど、もっともっと感覚的な部分で、彼女はそれを感じ取っていた。
 彼女自身もその理由はわからなかったのだけれど、ただ、何となくそれが、彼女にはわかったのだった。


「畜生が!!」
 男は言葉を吐き捨てると、粉々に砕け散ったフロントガラスの破片を砂利にするのと同じように蹴りあげた。
「こいつ…いつの間に」
 別の男も歯を噛みしめると、激突のショックでへこんだソアラのフロントを、力任せに蹴り飛ばした。蹴り飛ばしたことによってフロントの一部は形を変えただろうが、それは専門家の目にもわからなかっただろう。それくらい十分に、ソアラは衝撃に形を変えていたのである。
「いないのか?」
 助手席側から、また別の男が車内を覗く。そちら側は道を塞いでいたプレリュードと激突した方で、双方とも強烈な衝撃にボディをぐしゃりと粘土のようにへこませていた。もしもソアラの助手席に人が乗っていたなら、確実にミンチになっていたところであろう。
「どこで降ろしやがったんだ?」
 聞いても、その答えを返すものは誰もいない。ただ、ダッシュボードの中に入っていた無線機が、赤い光を点滅させているだけだった。
 ソアラを取り囲んでいた男達は皆、ごくりと唾を飲んだ。
 鼻につく、ガソリンやオイル、焼けたタイヤの嫌な臭い。そして、空気の抜けたエアバックにもたれかかる、人形のような男の頭。
 曇天が、とうとう一滴の滴を、堪えきれずにぽとりと落とした。
「クソがっ!!」
 フロントガラスの破片を蹴り上げた男は、今一度大きな声で言葉を吐き出すと、
「探すぞ!多分まだ市内にいるはずだ。絶対に他の国や組織の連中に渡すな!」
 辺りを取り囲んでいた仲間達に向かって、叱咤した。
 目の当たりにした惨状に曖昧に頷き、ばらばらと自分たちの車に分乗して走り出す男達。
「こいつはどうする?」
 助手席側からソアラをのぞき込んでいた男が、ぽつりと命令をした彼に聞き返す。まだかすかに熱を発するボンネットに落ちた雨垂れが、ソアラとその中のドライバーの身体を、薄い靄に包み込んだ。
「気になるならその辺に引きずり出しとけ。それで、救急車でも呼んでおくんだな」
「生きてればのハナシだけどな」
 笑いながら、ソアラのフロントを蹴った男は、運転席のドアを力任せに引っぱった。衝撃に外れそうになっていたドアが、ごとりとアスファルトに落ちる。
 それに続いて、力を失った男の身体も、どさりと地面に落ちた。
 雨足が、その早さを少しずつ増していた。
「行くぞ」
 最後に残っていた三人も、その言葉を最後にそこから姿を消した。
 ただ降り続ける雨。幾度となく男の頬を叩くけれど、それはその頬を流れて彼の身体の下に溜まっていくだけ。
 降り続ける雨が、走り疲れて、もう動くこともできなくなった彼とその車を濡らす。
 薄くだけれど色を持った彼の頬を流れる雨垂れが、少しずつアスファルトの上に広がっていった。


 Nec本部。
 ハンガー前に乗り付けた車に、香奈は飛び散る泥も気にせずに駆け寄った。手にした大きな傘を助手席にかざすか運転席にかざすかで迷ったのだけれど、香奈がそこにたどり着くのよりも早く、運転席の男は、雨の中にその身を乗り出してきてしまっていた。
「ひどい降りになってきたな」
 そう呟いて振り返り、車の屋根越しに香奈に向かって笑いかける小沢。白いYシャツの肩を、さらに早まる雨足がどんどんと濡らしていく。
「とりあえず、三人は無事に保護したよ」
 と、小沢は笑った。
「大丈夫だった?」
「ええ…まぁ…」
 助手席のドアから、香奈の傘の中へ身を進ませる遙。そしてそれに、一也と金髪の少女──ベルが続く。
「一也、これ。傘」
「うん」
 姉、香奈から傘を受け取ると、一也はそれを開いてベルの頭の上にかざす。
 一瞬、戸惑うように一也のことを見上げるベル。今なら──と口を小さく動かして、ずっと咽につっかえていることを言おうとするのだけれど、きっと彼らには自分の言葉はわからないと、彼女は眉を寄せてうつむいた。
「ベル?」
 首を傾げ、彼女のうつむいた顔をのぞき込む一也。
「どうかしたの?」
「なにかあったの?」
 小沢にも傘を手渡した香奈が、自分の傘を遙に手渡し、一也の目の前でうつむいている少女へと歩み寄った。
「香奈さん。濡れるよ」
 と、小沢の手にした傘が香奈の動きを追いかける。腕を一杯にまで伸ばして、自分の頭がその端から飛び出している事なんて、気にも止めていない様子。
「どうしたの?なにかあったの?」
 うつむいたベルの前にしゃがみ込んで、香奈は彼女の視線に聞き返した。普通に、いつもの自分の言葉と表情で。
「あ…」
 香奈の視線に、ベルが小さく返す。
「あなたのことは、教授や明美さんから聞いてるわ」
 と、優しく微笑む。
 正確には、自分が聞いた質問に二人が答えてくれただけなのだけれど、香奈には、それだけで十分だった。
 それだけでも、彼女たちを『敵』と見なすだけの理由は、存在しなかったからである。たとえ、あのファイルに書かれていた、『敵(エネミー)』が、彼女たちの送り込んだ物であったとしても、香奈には。
 この子は、私たちの敵じゃない。
「私達は、あなたを守るから。たとえ世界中を敵にまわしたって──」
 彼女の小さな手に、香奈はそっと自分の手を触れた。
「守るから」
 ゆっくりと微笑む香奈。
 小沢は彼女を見つめながら、細く、微笑んだ。
 ふと視線を走らせると、ハンガーの入り口脇に教授と明美助教授の姿も見える。
 香奈、そして金髪の少女ベルを囲む一也と遙。二人も一瞬目配せをし合ってから、大きく息を吸い込んでいた。
 Necは孤立する──
 小沢はその言葉をもう一度反芻し、ゆっくりと視線を雨を降らせる低い雲へとやった。
 金髪の少女ベルに向かい、香奈は言う。
「なんでも言って。私たちは、あなたの力になるから」
 もちろん、ベルには香奈の言葉がわからなかった。だけれど、ただ自分に向かって優しく微笑みかける彼女のその表情に、ベルも細く微笑んで、自分の言葉をぼそぼそと小さく呟き始めたのだった。
 新たに彼女の胸に刺さった棘。
 彼の身に起こったことを──


 そこには独特の空気が満ちていた。決して、心地よくは思えない空気。
 病院。そのロビー。
「僕が悪かったんです」
 小沢は、一度雨に濡れてから乾いた頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「シゲさんを囮に使って──判断を誤りました」
 うなだれるように長椅子に腰を下ろした小沢は、ぺこりと頭をさげた。その隣に座っていた教授は、ただぼうっと、眼前のエレベーターの上にある点滅する数字を眺めていた。
 何も考えていないような沈黙の後、
「ま。君のせいばかりという訳じゃないだろう」
 教授は、小沢の方に視線を落として言った。
 ベルの言葉は、もちろん誰にもわからなかった。けれど、彼女の伝えようとしていることをじっと聞いている内に、Nec本部の電話が鳴ったのである。そして、五人は彼女が伝えようとしていたことを理解した。何かを思うよりも早く、彼女と共に駆け出し、そして──
 この場所に来ていた。
 教授は言う。
「何にせよ、彼女を保護して護る──それが我々の決めた方針なわけだし、ましてや、君はNecの人間でもないのに我々につきあってくれているんだからな。君が責任を負うようなことじゃない」
 うつむいたままの小沢の横顔から、ひょいと教授は視線を逸らした。口許を軽く曲げ、彼のことを見ずに続ける。
「それとも、それも別の仕事のうちなのかな?」
「仕事だったら、分の悪い方になんてつきませんよ」
 小沢は教授の言葉に顔を上げると、両手で口許を隠して返した。その下に、自嘲混じりのため息を隠して。
「それもそうだな…」
 視線を元の点滅する光に戻す教授。
 緩慢とした空気。病院のロビーのそれは、音を伝えることもおっくうがっている様だった。
 二人の会話も、二人の耳以外には届かないほどに弱く、ともすれば、外に降りしきる雨音にうち消されてしまいそうになっていた。
「Necは孤立する──」
 小さく、床に向かって言葉を吐き出す小沢。
「そう──言っている奴がいました」
「ああ」
 喉で返す教授。点滅するエレベーターの光に向かって、返す。
「だろうな──だが、それはそれでかまわんさ。それでも、我々にはやらなきゃならないことがある」
 ため息混じりに言い、七階で止まったエレベーターの光に弾かれたように教授は続けた。
「しかし、上の方はどうなっているんだろうな…」
「どっちのことですか?」
 教授の言葉に、膝に肘をついた小沢が返す。
「シゲさんの事か、それとも総理のことか」
「どっちかな」
 教授は曖昧に頷くと、
「ま。どっちもだな」
 ぽりぽりと首筋を掻きながら言った。
「どっちも、そう簡単にはつぶれませんよ」
 小沢は言う。じっと、ただ一点を見つめるように真っ直ぐ前を向きながら。
「ただ、どっちも楽観視できる状態じゃないですけど」
「それが一番辛いな」
 苦笑いを浮かべて、教授は一人ごちた。(注*14)


「意識不明だけど、多分大丈夫だろうって」
 七階のエレベーターホール。明美助教授はふぅと大きくため息を吐き出すと、そこにある椅子に腰を下ろした。
「よかった…」
 顔を上げた香奈が呟く。
「ホント」
 と、明美助教授は口を尖らせると、
「でも意識が戻ったら、ちゃんと『ソアラ』を直させなくっちゃ」
 もちろん冗談にそんなことを言い、隣に座る香奈に笑いかけた。
 香奈も、さすがに曖昧ではあったけれど、明美助教授の自分を気遣うような台詞に弱く微笑んだ。しかし、やっぱり話をそれ以上広げられなくて、香奈は彼女に聞かれるのよりも早く、弱くぼそりと言葉を吐き出した。
「やっぱり、病院て好きになれません」
「そう…」
「嫌なことばかり、思い出しちゃうんで…」
「そう…」
 何となく黙りこくってしまった二人の間の空気を、エレベーターが止まったことを知らせる電子音が、軽く揺らしていった。


「どうだった?」
 廊下の向こうから歩いてくる一也に向かって、椅子に座っていた明美助教授が口を開く。
「どうといわれても…」
 ぽりぽりと頭を掻いて一也。
「普通に、寝ている風にしか見えませんでした」
「そりゃあそうでしょ」
 と、眉を寄せる明美助教授。そういうことを聞いているんじゃないんだってば。とも思ったけれど、確かにそれ意外に言い様はないかなと、話を変える事にした。
「遙ちゃん達は?」
「それが──」
 曖昧に呟いて、眉を寄せる一也。


「ベル」
 椅子に座った遙が声をかけても、彼女は顔すら上げなかった。
「ベル。そうしてたって、シゲさんがすぐに目覚める訳じゃないんだから」
 しんとした病室に、遙の声とベッドの脇に置かれた機械が規則的に鳴らす電子音だけが響く。
 困ったな…と、遙は頭を掻いた。
 一也が出て言ってから、もうゆうに5分は経っている。
「…まったく」
 遙は大きくため息を吐き出すと、中途半端に開いたブラインドの向こうに視線を走らせた。
 降り続ける雨が、小刻みに窓をうち続けている。その小さな雨音と規則的に鳴る電子音だけが、遙に時間の流れというものを教えていた。
 ただ、無駄に時間が流れていく。ため息を吐き出してベルを見つめる遙には、そうとしか感じられなかった。
 けれど、同じ時間の流れであっても、ベルにとってのそれは、遙にとってのそれと全く違っていた。
 ベッドの脇の椅子にちょこんと座り、眉を寄せているベル。この世界中で、頼れるものが何一つ無かった自分の力になってくれた人達、その一人が、今自分の目の前のベッドに横になっている。
 言葉はわからなくても、その理由くらい彼女には理解できた。
 だから──彼がこうなったのもすべて自分のせいだから、彼女はそこから離れる事が出来ないでいた。
「ベル…?シゲさんは大丈夫だから。今は眠ってるだけなの。麻酔が切れなきゃ、シゲさんは起きないんだから。ね?」
 遙も彼女を安心させようと、何度も何度も語りかけているのである。けれど彼女はそれが理解できないのか、それとも理解していてもなのか、その椅子から立ち上がろうとはしなかった。
 ただ、時が流れていく。
 一見無意味に。けれど、ベルにとっては、一秒にすら深い意味を持って。
 優しく、ドアを叩く音が響いた。
「はい?」
 遙の弾かれるような声に、
「いい?」
 香奈の、戸惑うような声が返ってきた。


「明美さん」
 香奈が座っていた椅子の隣に腰を下ろした一也の声に、
「ん?」
 明美助教授は咽を小さく鳴らして答えた。
「どうしたの?」
 ひとつ向こうの椅子に座る一也を、横目に見て聞く。
「あの…」
 うつむいて手を揉んでいた一也は、軽く口許を弛ませて笑った。
「僕たち、何も間違ったことはしていませんよね。ベルを助けて、守ってあげて──それなのに、何でなんでしょう?」
 どことなく自嘲したような声──ちょっと、悲しげな声。
「僕たちが戦うべきなのは──本当の『敵』は──」


「ベル、全然離れようとしなくって」
 困ったように眉を寄せる遙。
「ずっと、ここにいるわけにもいかないのに…」
 と、ベッドの脇にじっと座っているベルの横顔に視線を走らせる。
「あら?どうして?」
 香奈は軽く微笑むと、困り切った表情の遙の肩に手をかけた。
「いいじゃない。ずっとここにいても」
「そんな…だって、彼女は──」
「遙ちゃん。いい?」
 目を伏せてちょっと顎を引いて、香奈のいつものお説教モードだ。「なにもこんなトコで」と、ちょっと気後れして身を引く遙。
「いい?遙ちゃん」
「…はい」
「もしあそこに寝てるのが、シゲさんじゃなくて一也だったらどうする?遙ちゃん、一也を放って、さっさと帰っちゃえる?」
 「うん」と頷きそうになるのをなんとか堪え、
「でも…」
 と、反撃に出ようとするのだけれど、香奈はもちろん遙のそんな言葉聞いちゃいないし、彼女の返す答えも、はなっから決めつけているので、なおさらたちが悪い。
「好きな人とは、離れたくないでしょ」
「それは!…それは…そうでしょうけど…でも!」
「一緒にいたいと彼女が思うんだったら、そうさせてあげましょ。何も本部じゃなくたって、彼女を守ることは出来るんだし」
 正論であるだけに、遙にも返す言葉がない。
「それはー…教授達に相談してきます」
 遙は小さくため息を吐き出すと、とぼとぼとその病室を出た。
「ここ、お願いしますね」
 と、後ろ手にドアを閉め、がちゃりとドアの閉まる音が響いたのを確認すると、今度は大きなため息とともに言葉を吐き出した。
「やっぱり、誰の目にもそういう風に映るよね」


「それで、結局病院にはお姉ちゃんと小沢さんが?」
「うん。残ってる」
 小さく頷く遙。ふぅとため息混じりに、
「しかし、何もこんな時に…」
 と、降り続ける雨に霞む滑走路の先を見つめて漏らした。
「ホント、こっちの都合なんてお構いなしなんだから」
 イーグルのコックピット。一応マニュアル通りに計器の確認なんて事をしながら文句をぶつくさ。
「しょうがないよ」
 と、こちらはその文句を聞かされている、R‐0のコックピットの一也。「文句はインカム切って言えよ」とは、何度も言い続けてきたことなので今更言わない。それに遙の言葉を借りて言うのなら、誰かに聞いてもらわなきゃ文句が文句としての意味がない。
 だけれど──
 一也は小さくため息を吐き出して、目を閉じた。
 僕たちの戦いは、間違っていないんだろうか──本当の敵は──
「視界不良だけど、その他はいちおーAll green」
 計器の確認を終えた遙が、いつもと同じように笑いながら、問題点を指摘しつつ言う。
 一也は口許を弛ませた。やめよう。考えてたって、今はどうしようもない。
「接頭語が気になるけど、僕の口からはそんなこと言えない」
 一也は遙の言葉に返した。
「言ってる」
 笑う遙。その顔を想像し、一也軽く笑う。
「じゃ。行きますか」
 遙の言葉に加速し、その高鳴りを増すジェットエンジン。雨のカーテンが、弱く揺れた。


 七階のエレベーターホール。
 小沢は廊下の向こうをぼうっと見つめながら、左手に持った煙草をくるくると回してもてあそんでいた。病院なので、当たり前のことだが、禁煙なのである。
「明日…早くて未明か」
 ちろりと右手に巻かれた腕時計に視線を落とす。
「この先に待ってるのは栄光か──」
 火のついていない煙草をくわえ、
「それとも、やっぱ破滅かな」
 と、その口を曲げる。


 大地を揺るがす振動。動き始めるアクチュエーター音。
 大井川が畑薙湖と交わる辺り。静かな山間の小さな町は、大変な騒ぎになっていた。破壊の使者──がどちらかであるかはコメントを控えるとして──である、二体の巨人がそこに対峙したためである。
 生物のそれ、二つの眼がきょろきょろと動く。眼前に立ちはだかった、自分と同じような大きさ形の物体をしっかりと確認するかのように。
 ゆっくりと、R‐0の右腕が上がっていく。肩の測距儀が確実にエネミーの胸を捉え、銃口がぴたりとその動きを止めた。
 歯を噛みしめる一也。思い切りトリガーを引き絞る。エネミーが、雨空を突き破るほどの咆哮をあげた。
 飛び散る光の粒子。咆哮をあげたエネミーの眼前数十メートルの所で光の膜が不気味に輝く。その界面を、水蒸気が撫でていく。
 大地を蹴るエネミー。右腕を高々と振り上げ、敵と認識したR‐0の頭を目掛けて振り下ろす。
 金属片が飛び散った。そしてそれは山の斜面に次々と突き刺さった。エネミーの手により破壊された、シールドの破片である。
 身を屈め、エネミーの攻撃をかわしてその後ろに回り込むR‐0。左手首からビームサーベルを打ち出し、それをエネミーの背中へと突き立てるべく、足下の大地を踏みしめる。
 が、もともと山の斜面であるその大地が、200トン近くもある巨体を受け止められるはずもない。一也は目を見開いた。
 崩れた足下の地面は、土砂となって大井川に流れ込んでいった。傾くR‐0。それに加えて、振り返りざま、エネミーが横薙ぎに腕を振るった。
 振動。飛び散る泥色の水。
 すぐさま立ち上がろうとしたR‐0の頭を、エネミーの右手ががしりと掴んだ。
 ごうんと、鈍い音を立ててコックピットが揺れる。
「くそっ」
 舌打ちをする一也。右手に握っていたビームライフルを、エネミーに向かって至近距離から幾度となく撃ち出す。
 けれど、その光の粒子は膜の前では閃光を発して拡散するばかり。
「刺されえッ!!」
 高鳴るアクチュエーター音とともに、一也は左手のビームサーベルをエネミーに向かって突き出した。強烈な閃光が空に散る。エネミーは閃光に目をつぶると、咆哮をあげて、めくらめっぽうにR‐0の巨体を投げ飛ばした。
 波打つ川面。崩れる両脇の山。
 R‐0の巨体は、畑薙湖の湖面に倒れ込んだ。
「くっ」
 身体を駆け抜けた鈍痛に、一也が顔をしかめさせる。
「一也!?」
 インカムからから響いた遙の声に、
「大丈夫」
 そう答えた瞬間、首筋の方を電気が流れたような刺激が走った。
「つっ…」
 顔をしかめさせ、そこに手をやる。ってぇー…いまのはなんだ…!?
「一也っ!!来る!!」
「くそっ…」
 R‐0に飛びかかるエネミーがモニターに映った。かわそうとするのだけれど、再び走った痛みに、身をよじる程度にしか動かないR‐0。上体を支えていた右腕が、エネミーの攻撃に肩から吹き飛んだ。
 同時に、一也の首筋にも強烈な痛みが走った。
「うぐっ!」
 コックピットの中の一也と同じように、湖底に倒れ込むR‐0。壊れた右肩から、火花が散る。
「一也!?どうしたの!?」
 鼓膜を揺する遙の声。けれど、その声は一也にとっては極弱くしか感じられなかった。
「くそ…」
 ヘッドフォンと鼓膜の間に、綿が詰まっているような感じがする。
「なんなんだ…」
 補助モニターに視線を走らせると、視界が一瞬ぱちりと弾け飛んだ。しかし、それだけ。補助モニターには、痛みの理由を告げるモノは何一つ映っていなかった。
 なんだこの痛み…どこかで…どこかで感じた事がある──


「どういう事だ?」
 Nec本部作戦指令室。明美助教授の眼前のノートパソコンを覗き込みながら教授が言う。けれど、聞かれたって明美助教授にだってわからない。モニターには、異常は何一つ見受けられないのだから。
「わかりませんよ」
 キーボードを叩きながら、教授の質問に投げやりに答える明美助教授。原因を探ろうと、システムの深い階層の所までバグチェックを行うが、
「ああっ!」
 と、いう作戦指令室に響いた整備員達の声に、その顔をはっ上げた。
「え…」
 眼前のモニタースクリーンの中で、エネミーが左手でR‐0の首をがしりと掴んで持ち上げていた。


 コックピットが揺れる。
 R‐0の巨体も、それと同じようにがくんと揺れた。右肩から飛び散る火花。力無く揺れる左腕。
「一也!何してるの!?」
 一也の耳に響く遙の声。
「一也!?」
「…聞こえてる」
 ぼそりと、一也の声が遙のインカムに返ってきた。それに続いて、R‐0の左腕がゆっくりと上がっていく。
「一也!?大丈夫なの!?」
「僕はなんとか…でも」
 がくんと、R‐0の左腕が落ちた。力を失ったように、引力にその全てを任せ。
 巨体を走り抜けた衝撃に、人形のように揺れるR‐0。ビームサーベルが湖面に水柱を立ち上らせる。
「BSSのモニター値が、60を切ってるんだ」
 マニュピレーションレバーをぐっと握り直し、一也はモニターの向こうを睨み付けた。エネミーの顔が、眼前に迫る。
「これじゃ…R‐0は動かないんだよ」
 首筋を、痛みが絶え間なく襲い続けていた。歯を噛みしめ、マニュピレーションレバーを強く握ることで痛みを堪えるけれど、視界が、徐々にぼんやりと霞み始めていた。
 この痛み、いつかも感じたことがある──いつだ?いつだった?
 かすむ視界の中で、一也は補助モニターに手を伸ばした。
「システムの再起動を──」
 モニターに、エネミーの振り上げた右手が映る。
 ばしっと、首筋を今までとは比較にならないほどの痛みが走った。視界が弾け飛ぶその瞬間に、モニターの向こうでエネミーの右手に雷が生まれるのを一也は見た。
 記憶が弾けた。電撃──あの新宿での戦いの時。R‐0の全電力を引き出しきって戦った時。あの時と同じ痛み。
 こいつ──!?


「BSSを!!」
 教授の言葉と、明美助教授のキーボードを打つ音が重なる。
「一也っ!!」
 目を見開く遙。
 その目に、はっきりとその惨劇は飛び込んできた。
 エネミーの右腕が、一撃のもとにR‐0の胸を打ち抜く。
 その身体を走る雷と、打ちつける雨に巻き起こる水蒸気。
 生き物のように、電撃に硬直していたR‐0の身体から力が抜けていく。アクチュエーターの駆動音が、徐々に小さく、弱くなっていった。
 湖面に次々と落ちていく金属片。
 ただそこから血がにじまないだけで、それは、人のそれと変わらなかった、
 遙は、咽から言葉が出てこなかった。ただ、弱く口が動くだけで、そこから言葉が生まれてこない。
 きっかけは、エネミーが強く左手を握りしめたことだった。
 R‐0の頭部が、湖面に巨大な水柱を立ち上らせる。
 遙は目を見開いた。
 絶叫が、そこに響いた。


「涙」
 ぽつりと、香奈は呟いて微笑んだ。
 自分にかけられた声にはっとして、その顔を上げる金髪の少女──ベル。
「拭いたら?」
 言葉はわからなかったけれど、優しく微笑んでハンカチを差し出す香奈に、ベルは自分の目元をその小さな手で拭った。
 恥ずかしそうに微笑んで、上目遣いに香奈を見つめるベル。
「いいのよ」
 香奈は自分のハンカチを彼女に握らせると、
「涙は、たくさん流していいのよ」
 彼女の手を優しく包んで、微笑みながら話しかけた。
「あ…」
 呟くベル。
 沈黙のふたりの間を、雨音が埋める。
「…なみ…だ?」
 探るように、ベルは香奈に向かって聞き返した。そうか…と香奈は頷くと、彼女に向かって、
「そう、それは『涙』」
 そっと、彼女の頬を伝うそれを拭って言った。
「すごく楽しいとき、可笑しいとき、笑ったとき。それから──すごく悲しいとき。目の奥から、いろんなものと一緒に溢れ出てきてしまうものなの」
 ベルに向かって、弱く微笑みながら香奈は言う。
「それが、『涙』」


                                    つづく








   次回予告

                 (CV 吉田 香奈をメインに、それぞれ台詞別)
 引き起こされる出来事の数々。
 気づいたときには、それは全て起こりきった後なのか。
 何も出来ず、ただ起きてしまった出来事に唇を噛みしめるだけ──
 そして、それしかできない自分たちに、人はただうつむいて眉を寄せる。
 胸に秘めた想いを、吐き出す者たち。
 それぞれの胸にある、偽りのない想いとは──
「私、お姉ちゃん失格だね」「自分だけ、悲劇のヒロインになったつもりになるのは止めて下さい」「つい…カッと…」
「遙、一也君のこと、好きなんだもんね」「ごめん…私、吉原君とは…そういうふうにはなれない」「好きです。誰よりも」「だって、誰かのことをちゃんと『好き』って言えるんだもん」
「もう誰にも傷ついてなんてほしくなかったのに…」「僕は、香奈さんが望むならどこにでもお供しますよ」「もし私に何かあっても、一緒に生活した半年は、絶対に忘れないから」「…ごめんなさい」「BSSのこと、知りたいですか?」「俺は自分が望めば、貴方を連れてこのままどこかへ逃げることもできる」
「キス──して下さい」
 次回、『新世機動戦記R‐0』
 『それぞれの胸に、秘めた想い。』
 お見逃しなく!


[End of File]