studio Odyssey


第二十四話




「聞こえる?」
 ぼそりと呟く声。インカムから届く、西田 明美助教授のその声に、吉田 香奈はそっと目を開けた。
「聞こえます」
 小さく答えて、マニュピレーションレバーを動かす香奈。待機モードに入っていたモニターに、再び電気が流れだす。
「来ましたか?」
 R‐1のコックピットの香奈は、呟いて補助モニターを確認した。一応は全機能の説明を受けているものの、完全に把握しきっているわけではない。BSSのおかけでR‐1を動かすことは容易に出来ても、その他の情報処理は、外の明美助教授に一任しているのである。
「いい?進行してくるエネミーも、ロックオンしちゃえば後はR‐1のFCSがおいかけてくれるから。大丈夫」
「しっかりFCSも働いているしね」
 と、パソコンモニターを見つめながら言うのはR‐0のハードウェア設計者、中野 茂。通称シゲ。彼の傍らには金色の髪の少女、ベルも控えている。
「わかってます。『ツインなんとか』を撃てれば、大丈夫なんですよね?」
 香奈は小さく息を吸い込んで言った。
「『ツイン・テラ・ランチャー』」
 と、香奈の言う『ツインなんとか』の名称を呟くのは平田教授。こう見えて、物覚えはいいのである。(注*1)
「正式名称は、『超伝導動力転換炉内蔵立体光学式外部火気管制──』」
「春日井さん、そういう細かいところは女性に嫌われますよ(注*2)」
「うっ…」
 明美助教授の冷たい言動に言葉を飲むマッドサイエンティスト、春日井 秀哲。
「春日井も平田も、なっとらんな」
 などと、明美助教授の尻に引かれている若者(?)二人を中傷するように笑うのは、マッドサイエンティストの鑑、道徳寺 兼康である。
「エネミー、真っ直ぐにこちらへ接近してきます。射程限界まで、後67秒」
 R‐1管制用モニターを見つめていた村上 遙が声をあげた。彼女らのいるところは、今や『Nec特務遂行特別前線司令部』となっていたのである。(注*3)
「そろそろ準備と行きますか」
 笑いかける教授に、
「そうだな」
 春日井も、にやりと微笑んで返す。
「ソドムとゴモラの火──インドラの矢──それに匹敵する、神にも悪魔にもなれる究極の武器を(注*4)」
 どちらかといえば、悪魔の微笑みを浮かべる春日井の言葉に、明美助教授がとてもとても冷たい口調で諭す。
「もちろん、リミッターをかけて威力はぎりぎりまで絞って使いますよ」
 光軸を中心にエネルギー帯が150メートルも生まれ、辺り一面消し飛ばす武器を、いくら何でも地上でフルパワーでは撃てようはずもない。
「…不本意だが、仕方ない」
 と、春日井。本当にそう思っている。
「香奈ちゃん…」
 ため息を吐き出しながらも、明美助教授は作戦行動に戻った。
「地形図を、もう一度確認するわよ」
「はい」
 インカムから返ってきた香奈の凛とした声に、明美助教授はキーボードを叩きながら頷き返す。
「いい?はっきり言って、ツイン・テラ・ランチャーは一発撃ったら、色々な意味で終わりだから」
「それはどういう意味だ?」
 憮然とするのはそれの制作者である春日井と道徳寺。
「まぁ、おなごにこの究極武器のロマンはわかるまい」
「だから、決して水平には撃たないこと」
「聞いとらんな明美君…」
「わかってます」
 と、補助モニターに映る地形図の、エネミー予想進路を人差し指でたどる香奈。
「エネミーが峠を越えてくるところを、撃ち抜くんですね」
「そう」
 答える明美助教授の後ろで、
「まあ、丹沢大山国定公園の一部が消し飛ぶかもしれんが、たいした被害にはなるまい」
 教授が腕組みしながら漏らす。
「住民の避難も完了してるし…」
 だが、そういう問題ではない。
「さて、では──」
 教授はにやりと微笑むと、小高い山を隔てた向こうにたつR‐1の横顔に向かって、少し声を低くして言った。
「R‐1、ツイン・テラ・ランチャー準備っ!」


 アクチュエーターが高鳴りを増す。
 足元を確かめるR‐1。少しずつその重心が下がっていくにつれ、背中の二枚の放熱板が、翼のように暗闇の空をさした。
 ゆっくりと動く右腕。それに連れられ、背中の巨大なランチャーが右脇の下よりせり出してくる。
 ごくりと唾を飲む香奈。
 ランチャーのグリップを、右手で二、三度確かめるようにして握りしめるR‐1。左手は、銃身の脇より伸びたフォアグリップへ。
「目標、有効射程距離に入ります」
 インカムから響く遙の声に、補助モニターの電子音が答えた。
 補助モニターに流れる無数の数値。解析された目標とR‐1との距離、高低差、移動速度に基づき、重心をさげていくR‐1のツイン・テラ・ランチャーが、暗闇の向こうを確かに捉える。
 FCS Lock.
 補助モニターに光った文字に、香奈は大きく息を吸い込んだ。
「目標、ロックしました」
 足の間の補助モニターの表示が、エネルギーゲージへと切り替わる。
「いいですね?」
 と、教授達のほうへ振り向いて確認を取る明美助教授。彼女の眼前のパソコンモニターにも、香奈の見ているのと同じエネルギーゲージが映っている。
「ここまで来て何を言う」
「どうせなら、フルパワーがよかったんだが…」
「景気よく一発なぁ」
 教授、春日井、道徳寺に確認を取る必要はなかったようである。
「…チャージを開始します」
 腕を組んで頷き合うマッドサイエンティスト達に一瞥をくれ、明美助教授はツイン・テラ・ランチャーの最終安全装置を解除した。
 もう後には引けない。残された選択肢は『撃つ』のみである。たとえ、R‐1の眼前一帯を消し飛ばすとしても──だ。
 エネルギーゲージの色が青から赤へと変わり、チャージが開始される。上昇するゲージ脇の数値。その数値がめざましい勢いで上昇するに連れ、R‐1の背中の放熱板から高エネルギーの熱が放出される。
 揺らぐ、放熱板より後ろの空気。ツイン・テラ・ランチャーのエネルギーがチャージされるに連れ、高鳴る高周波の音。
 小刻みに動くアクチュエーターは、捉えたエネミーの姿をしっかりと追い続けていた。
「すご…」
 眼前の光景に、呑まれるように呟く遙。
 さすがの教授達も、ごくりと唾を呑む。何しろ、初めて見る光景なのだ。試し撃ちすら、したことがないのである。(注*5)
 原理やエネルギーの理論値はわかっていても、目の当たりにすれば話はまったく違う。
「いよいよだな…」
「ああ…」
 呟き合いながら、胸ポケットからすちゃっと保護眼鏡を取り出す辺り、流石はマッドサイエンティスト達である。ある意味、冷静だ。
 揺らぐ、R‐1の周りの空間。
 上昇を続けるゲージ。
「スタンバイモードに移行します」
 香奈の声。眼前のモニターが、ツイン・テラ・ランチャー発射時の強烈な発光から自らを護るため、ふっと感度を落とす。
 薄暗いコックピットで、香奈はマニュピレーションレバーを握り直した。唯一の光源とも言える、補助モニターの上昇する赤いゲージの光が、香奈の顔を照らし出す。
 大丈夫…
 深呼吸しようと息を吸い込むのだけれど、それが上手くできない。震える胸を、とんとんと小さなこぶしで叩いて落ち着ける。
 大丈夫。外れたりしないんだから。
 何度も、何度も頷く香奈。
 その耳に、チャージの終了を知らせる長い電子音が届いた。


 すうと息を吸い込んで、
「ツイン・テラ・ランチャー。発射しますっ!!」
 香奈は吐き出す勢いとともに言った。


 第二十四話 彼女の望んだもの。──Brain Scanning System.


 R‐1のアクチュエーターが動く。
 くっと顎を引き、トリガーを引き絞る香奈。
 暗闇の向こうを捉えるツイン・テラ・ランチャーの連なる二つの銃口から、強烈な閃光が生み出された。
 閃光が、闇を裂く。高エネルギーに膨張する空気。衝撃波とともに音すらも飲み込み、静寂の中から天に延びた雷は、その射線上にあるもの全てを、原子の塵へと変換していった。
 光が辺りを包み込んだ後、木々を薙ぐ強風、そして、エネミーの咆哮が轟いた。
 閃光に照らし出されたエネミーの巨体。苦悶のような表情をそこに浮かべ、光の向こうに向かって吼えかかる。
 その身を護っていた光の幕が粒子となって弾け、宙に散った。エネミーの左手、何もない空間を通り抜けた閃光は、そのまま暗闇の空へ吸い込まれていった。
「バカなッ!?」
 春日井と道徳寺の絶叫が交錯する。
「あり得ない!!ツイン・テラ・ランチャーは、自動追尾高速導入測距儀を搭載しているのだぞ!!外れるはずが、あるわけがないッ!!」
「でも結果、そうなったことは事実です!」
 明美助教授がキーボードを叩く。
「エネミーが!!」
 それに続く遙の声。
 エネミーが、山林の炎の中を、咆哮をあげながら駆け出した。
「いや、外れてはない」
 と、シゲ。駆けるエネミーが、時折山の斜面に足を取られて転びそうになる。左腕が、ツイン・テラ・ランチャーの生み出したエネルギー帯に、吹き飛んでいたのである。
 自由に動けぬもどかしさに、エネミーが怒りを露わにして咆哮をあげた。
「香奈さん!?」
 インカムに手をかけ、叫ぶ遙。ベルがきゅっと目をつむる。眼前の谷を包む白いヴェールのような靄。放熱板より発せられる熱に生まれた水蒸気が、ツイン・テラ・ランチャーを撃ち終えたR‐1の巨体を包み込み、燃える木々から生まれた気流に揺れている。
「香奈さん!!エネミーが来ます!!」
「ダメだ!R‐1はツイン・テラ・ランチャーを打ち終えた後、しばらくは動けない!」
 遙に声をかけ、明美助教授の肩に手をおく春日井。
「外れた原因は?」
「多分…」
 モニター画面を下から上へ流れる無数の情報を見つめながら、明美助教授が呟いた。
「香奈ちゃんとBSSのリンクは問題ないですけど…多分、BSSとR‐1のリンクの方に…」
「モーショントレースの問題か」
 ちっと舌を打つ教授。
「そんなことより──!!」
 遙のその声は、途中で途切れた。
 炎に赤く照らされたエネミーの咆哮が、闇と空気を裂いたのである。


「香奈さん!!」
 エネミーが駆け出す。光の通り抜けた後に出来た、山の斜面の道を踏み鳴らし。
「BSSは!?」
 教授。そしてその答えに、明美助教授とシゲの鋭い声が重なる。
「動いてます!!」
「いかん!!R‐1がッ!!」
「やられるっ!?」
 白い繭に包まれたR‐1に向かって、エネミーが右腕を振り上げた。そしてそこに生まれる雷の迸り。
「香奈さん!!」
「動いてっ!!」
 重なり合った二つの声に、輝く光が白い繭を打ち破った。


 アクチュエーターが動く。
 かざした左腕プロテクターから生まれる光の壁に受け止められるエネミーの右手。ビームシールドの界面を、電撃が走り抜ける。
「よーしッ!!」
 ぐっとこぶしを握りしめる教授、春日井、道徳寺、そしてシゲ
 ふぅと息を吐き出すのは、明美助教授と遙、ベルの三人。
 しかし全員考えていることは同じ。
「反撃だッ!!」
 後ろへ飛び退いたR‐1のバックパックから噴射されたジェットが、立ちこめていた靄を吹き飛ばした。


「ありがとう」
 光の戻ったコックピットで、香奈は微笑みとともに呟いた。
「私たちは、負けるわけにはいかないんだもんね」
 答えるように、補助モニターが電子音を鳴らす。それはバックパックにランチャーが戻されたことを告げる電子音だったのだけれど、香奈にとっては、そんな事はどうでもいい事だった。
 ただ、自分の言葉にR‐1が答えを返してくれたような気がして──香奈は、微笑みながら力強くうなずきを返した。
 私たちのやっていることは、間違っていない。
「…いくよ」
 マニュピレーションレバーを握り直し、モニターの向こうのエネミーに唇を噛みしめる香奈。
 R‐1の左手が、何かを確かめるように宙を握りしめた。


 エネミーが咆哮とともに右腕を振り上げる。
 香奈は歯を噛みしめ、足を引いて左腕を振り下ろした。左腕プロテクター──プログハングの先端が左右に割れ、そこから高周波の音ともに光の剣が生み出される。
「あたってっ!!」
 マニュピレーションレバーを握り直して叫ぶ香奈。それに、R‐1が応える。
 響く電子音。──FCS Lock.
 腕を振り上げたエネミーの胸へめがけ、R‐1も左腕を振り上げた。生まれる遠心力にプログハングが下腕部を滑る。そしてそれは腕から離れるのと同時に、自らの意志を持ったかのように回転を始め、口を開けた竜のごとくエネミーに向かって襲いかかった。
 エネミーが口を限界にまで広げ、それに向かって吼えかかる。眼前10メートル前後の所に、歪な形ではあったけれど、光の膜が生み出された。
「無駄だっ!」
 勝ち誇ったように叫ぶ春日井。
「プログハングは対『超硬化薄膜』用兵器!正式名称、『対超硬化薄膜用ビームサーベル内蔵型破壊超音波──』」
「うるさいっ!」
 エネミーの『超硬化薄膜』に突き刺さるプログハング。
 きいんと、一瞬鼓膜を引っ掻くような高音がそこから生まれると、エネミーを護っていた光の壁が、瞬時にして粉々に砕け散った。
「やった!?」
 高音に顔をしかめさせた遙が、インカムのイヤーパッドを押さえて漏らす。
「いよしっ!!」
 シゲは小さく拳を握りしめた。しかし、
「いや。プログハングは殺傷能力が低い、まだ──」
 教授の呟きを裏付けるかように、エネミーが再び咆哮をあげていた。そして、今自らの眼前で自らを護る壁を破壊した物を、逃すものかとばかりにがしりと掴む。
「!!」
 がくんと揺れるコックピット。プログハングを巻き戻す左腕のウィンチが悲鳴を上げる。
「く…っ」
 歯を噛みしめ、マニュピレーションレバーを握り直す香奈。
 叫びながら、右手を引くエネミー。そのエネミーに引っぱられたR‐1の左手が、決心の元に力強く握りしめられた。
「香奈さんっ!?」
 インカムからの遙の叫びは、彼女の耳には届かなかった。
 大地を蹴るR‐1。左腕を引く力と自らの意志に、眼前のエネミーへと肉薄する。
 振り上げられるエネミーの右腕。雷が暗闇の空に瞬く。
 首筋を走り抜けた衝撃に、飛びそうになる意識をつなぎ止めるようにして香奈は叫んだ。伸ばした左腕、その肩プロテクターの中に右手を伸ばし、そこにあるビームサーベルをしっかりと握りしめる。
 最後の一歩を踏み込んだ右足が、アクチュエーターの駆動音の元に大地を確かめた。
 自らの懐へ飛び込んできたR‐1の左肩めがけて、咆哮とともに振り下ろされるエネミーの右手。
 渦巻く雷の迸り。
 弾け飛ぶ視界を否定するかのように、香奈も、マニュピレーションレバーを強く握って叫んだ。眼前のモニター、ただ一点──エネミーを睨み付けて。
 交錯する想いに負けないよう、叫びながら香奈は思い切り腕を振るった。
 閃光が、そこを走り抜けた。









       1

 少し前から、意識がはっきりしてきているのが自分で分かった。
 寝ていたのかな…
 何となく体を動かしたくない。首筋に残る倦怠感に眉を寄せながら、一也はゆっくりと目を開けた。
「あ…」
 ぽつりと、つぶやく。
 ブラインドの隙間から射し込む、淡い夕暮れの光に目を細め、何となくぼうっとした意識をそのままに、天井を見つめ続ける一也。
 どこだろう、ここ…
 ゆっくりと頭を左に動かすと、そこに弱く微笑む遙が座っていた。
「遙…?」
「…おはよう」
 ちょっと情けない顔で笑いながらつぶやいた遙の声は、一也の耳には届かなかった。ただ小さく動いただけ遙の口許に、一也はかすかに眉を寄せる。
「ここは?」
「病院」
 簡潔に答え、遙は一也の顔をのぞき込んだ。
「ずっと寝てたのよ。みんな心配したんだから」
「ずっと…?」
 ずっと──と言う遙の台詞は、一也の頭の中で考えていたずっととは大分に違っていた。一也は、実に一週間近くもの間、眠り続けていたのである。
 一也は気づかなかったけれど、ベッドの脇に座っていた遙は、高校の制服に身を包んでそこに座っていた。今日も、学校が終わってからここに見舞いに来たのだ。
「エネミーは?」
 一也がつぶやく。
「…うん」
 答えにくそうに眉を寄せ、言う遙。
「大丈夫、もう、心配いらない」
 遙の台詞には、明らかにその続きがあるように一也には感じられた。だから続きを聞こうと瞬きをひとつ返したのだけれど、彼女は眉を寄せて言葉を濁したまま、その先を続けることをしなかった。
「遙?」
 自分の視線から目をそらし、うつむく遙に一也は問いかける。
「どう…したの?」
「…うん」
 うなずいて意を決した遙は、そっと顔を上げた。一也──そしてその隣のベッドの方へ──
 目を瞬かせ、一也は遙の視線を追うように、ゆっくりと体ごと振り向いた。
「エネミーは、香奈さんが倒したわ」
 息を飲み、目を見開く一也。──そこに眠る女性に。
「でも結局、一也と同じで──」
 遙が何かを続けて言っていたけれど、一也の耳にその言葉は届かなかった。
 ただなにも理解できずに、一也は隣のベッドに横たわり、眠り姫のように静かに眠る姉、香奈をその瞳に映していた。


 傾き始めた陽が、ブラインドの隙間から淡い光を白いベッドの上へと投げかけている。
 脳神経外科特別処置室。そのベッドの上。
 静かに──まるで死んでいるかのように──横たわっている女性。細く微笑んでいるかのようなその表情。
 姉、香奈をじっと見つめたまま、一也は身じろぎひとつしないでいた。
 つい数十分間前まで自分が寝ていたベッドに腰を下ろし、悔しげに歯を噛みしめたまま、髪をかき上げる。
 なぜそこに姉がいるのか、一也には理解できなかった。というより、しようともしなかった。現実じゃないと、そう確信していたからだ。
 だが、夢は覚めない。永遠に変わらないかのような、眼前の風景。
 弱々しく、部屋の中にノックが響く。
 一也は答えない。
 再びドアを叩く音。
「一也?」
 遙の声。
「入るよ?」
 そっと開かれるドア。遙は隙間から中を覗くようにして、部屋の中にその身を進ませた。
「検査、どうだった?」
 そっと、閉じられるドアの音に遙の声が重なる。
 一也は大きく息を吸い込むと、彼女の革靴が床を叩く音を打ち消すほどに大きく、ため息を吐き出した。
「…別に、なんとも」
 手で顔を洗いながら、ぼそりと呟く。けれど、しんとした病室にその声は十分に響いた。
「そう…」
 一也の背中に視線を送りながら、立ち止まる遙。
 途切れた会話を何とかつなげようと、遙は喉に言葉を詰まらせないように、少しだけ背筋を伸ばして言った。
「でも、なんともなくてよかった。みんな、本当に心配してたんだよ。詩織ちゃんだって、ほとんど毎日のようにお見舞いに来てたし──」
「大丈夫だよ。どこも悪くない」
「私だってね、ずっとマンションに一人で、すっごく心細かったんだよ。ウィッチだって、一也がいないから寂しかったみたいでね」
「だから、大丈夫だって」
 一也は肩を揺らして、軽く笑うようにして言った。
「心配なんか、しなくていいよ」
 面倒くさがるような、その口調。鼻で笑う口許を隠して、うつむくような素振り。
 遙は眉を寄せて唇を噛みしめると、
「どうして、そういう事言うの?」
 一也の背中に向かって、悔しげに言葉をぶつけるようにして言った。
「みんながどれだけ心配したか、わからないの?」
 遙の靴音が、言葉の奥に押し込めた怒りを部屋に響かせる。
「一也が眠っている間、みんなずっと──」
 ベッドの脇の一也に歩み寄り、うつむいた彼の頭を見下ろして言う遙。
「だからなんだよ!」
 突然、一也は勢いよく言葉を吐き出すのと同時に、立ち上がった。
「みんなが僕のことを心配してくれた!?じゃあそれはありがとう」
 と、遙の鼻先に顔を突き出す。
「なによ!その言い方は!!まるで迷惑みたいに!!」
 遙は言い返す一也にくってかかった。ぎゅっと拳を握りしめ、そこに思い切り力を込める。
「私たちは、一也のことを心配しちゃいけないって言うわけ!?」
「じゃあ遙は──」
 一也は歯を噛みしめると、眼前の遙を見据えて言い放った。
「遙は、僕がお姉ちゃんの心配をしちゃいけないって言うのかよ。目の前で、自分と同じようにベッドで眠ってるお姉ちゃんがいるのに、そんなことを考えないで、大丈夫だって笑えって言うのかよ」
「香奈さんはそうしたわ」
 遙はまっすぐ一也を見つめ返して、そうつぶやいた。
 一也は、ただ遙の言葉に全ての言葉を失った。
 お姉ちゃんが──?


「…落ち着いた?」
 と、自嘲混じりのため息とともに、自分も落ち着きを取り戻した遙が言う。
「ちょっと」
 再びベッドに腰を下ろした一也も、ため息混じりに髪をかき上げる。
「よく…状況がわからなかったんだ」
 一也の横顔に向かって、遙は小さく頷いた。座っていた小さな丸椅子から立ち上がり、
「まず、どこから話す?」
 と、軽く微笑みながら一也の隣にそっと腰を下ろした。ベッドのスプリングが、小さく音を立てて軋む。
「僕が、倒れて──?」
「この病院に運ばれた」
「それから?」
「エネミーは再度進行を開始。けれど、R‐0とそのパイロットは戦闘不能。教授達は、エネミーを止めるためにR‐0の後継機の使用を決定」
「後継機?」
「そう。R‐1。そしてそのパイロットが──」
 眼前のベッドに向かってため息を吐き出す遙。
「お姉ちゃん…が?」
「そう」
「どうして?」
「それは、私にはわからない」
 小さく息を吐き出し、遙は仕方なく微笑んだ。
 一也も言葉を探すけれど、それが見つからない。沈黙のままの二人の間で、時間だけが小さな音を立てて流れていく。
「香奈さん──」
「ん?」
「香奈さんが、言ったんだ」
「何を?」
 遙は一也の方に視線を走らせない。一也も、遙の方に振り向かない。二人、ただ自分たちの目の前に眠る姉を見つめながら、言葉をとぎれとぎれに紡ぎ出す。
「私がもっとしっかりしてれば、誰もこんな辛い思いしなくてすんだのに──って」
 ため息混じりの遙の言葉に、咽を鳴らして返す一也。
「お姉ちゃんが、そんなこと?」
「うん。私、その後香奈さんにひどいこと言った」
 悔しそうに歯を噛みしめて、うつむく遙。
「でも、今考えてみると、私…何も知らなかったんだ」
「遙?」
「何も知らないで、言うだけ言って──私も、結局香奈さんを苦しめていただけなのかも知れない──一番辛いのは、香奈さんだったのかも知れないのに」
 声をかけようとして、一也は言葉を飲み込んだ。うつむく遙に、なんと言ったらいいか、自分でもよくわからなかった。
 うつむいた遙の髪が、肩が、軽く揺れていた。
「…ごめん」
 ただ、ぽつりと一也は言葉を吐き出した。
「僕も…何も知らなくて」
 姉、香奈の言ったという台詞を、一也は歯の奥で噛みしめた。


「入るよ」
 ノックの後、ためらうこともなくそう言った彼は、
「眠り姫はまだ目覚めないかい?」
 なんて、彼流のジョークを吐き出しながら病室の中に足を踏み入れた。
「小沢さん」
 ベッドの上に座っていた一也が振り向く。その隣に座っていた遙は、ちょっとドキッとしたように身を固くした。
「あ…」
 と、小沢も身を固めて、
「ごめん。出直そうか?」
 意味深な微笑みを浮かべて、頭をぽりぽりと掻いた。
「違いますっ!」
 思いっきり否定する一也に顔をしかめさせ、自称ルポライター小沢 直樹は、小指で耳をほじくった。
「一也君、ちょっと前に意識が戻ったって聞いて駆けつけたのに、またずいぶんと元気そうだね」
「別に、病気なわけじゃありませんから」
「そりゃそうだ」
 うんうんと頷いて、小沢は香奈の眠るベッドの脇にまで身を進ませる。
「さて。それじゃ早速だが──」
 言いながら、一也達の正面の壁に寄り掛かり、
「一也君、香奈さんから言付けを頼まれてる」
 香奈のベッドの向こうから、一也達に向かって言葉を投げかけた。
「お姉ちゃんから?」
「そう。とりあえず──『ごめんね』──って」
「そんなこと…」
 小沢の言葉に、ふっと目をそらす一也。
「それと──」
 悔しげに歯を噛みしめる一也に向かって、小沢は真摯な声で告げた。
「これは香奈さんに僕が言われたことだけれど、僕じゃなくて、教授が直接君に話してくれるそうだ」
「直接?なにを?」
 顔を上げた一也に向かって、小沢は口を曲げて笑う。その下に隠した感情を、微塵もそこに見せることなく。
「BSSについての、全てのことを──」


「出てきたか」
 「よっ」とか言いながら、ため息混じりにロビーのソファから立ち上がる教授。
 夜の帳が降り始め、秋の夜が近づきつつあった。
「教授?」
 一也は廊下をまっすぐ歩き、ロビーにまで行き着くと、そこにいた教授と明美助教授の二人に視線を走らせてからつぶやいた。
「BSSのことを僕が知って、それでどうなりますか?」
「知っておいた方がいい」
 教授は返す。その顔に、真面目な表情を浮かばせて。
「覚悟──と言うわけでもないが、香奈君もそれを望んだと言うし」
 視線の先にいた小沢は、教授の言葉に曖昧にうなずいた。彼は、全てのことを香奈から聞いて知っていた。
「一也君」
 だから、彼は一也に向かって、自嘲ともとれる微笑みを見せて言えた。
「なにも知らないと言うのは、時にそれだけで人を傷つけることがある。知ること自体に罪はない。そこから答えを導き出すのは、君自身の仕事だけれどね」
 俺の出した答えは──
 小沢は、ただため息混じりに自嘲することしかできなかった。
 俺の出した答えは、あれでよかったんだろうか──


「教授」
 一也は教授に向かって、いつもと変わらずに声をかける。
 小沢の言葉が彼の背中を押してくれたと言うこともあったのかも知れないのだけれど、彼の心の中にはひとつの決心があった。
「行きましょう」
 しっかりとした声で言う一也に、教授は曖昧にうなずき返す。
「いいのかね?別に今すぐでなくとも──」
「何となく…」
 教授の言葉を遮り、一也は笑った。
「何となく、僕が早くその事を知ると、お姉ちゃんが早く目覚めてくれるような、そんな気がするんです」
「…そうか」
 一也の言葉に、鼻の頭を掻きながら、教授も小さく答えて笑う。
「じゃ、行こう」
 と、振り向く教授について、一也も歩き出す。
「私も──」
 あわてて遙も二人の後ろに続こうとしたのだけれど、彼女の歩みを、明美助教授が手で制した。
「明美さん…」
「今回は、ね」
 眉を寄せて、申し訳なさそうに微笑む明美助教授に、遙がくってかかる。
「だって、でも!私にだって、知る権利はあるでしょう?私だってNecの一員なんだし、一也のこと、香奈さんのこと、心配して──」
「その通りでしょうね」
 ぽんと遙の肩を叩き、彼女の言葉を遮りながら一歩前へと踏み出す小沢。口の端を軽く弛ませて、
「彼女にだって、知る権利はある」
 なんて、鼻の頭を撫でながら意味深に笑ってみせる。
「任せるよ」
 教授も吹き出すようにして笑いながら言い、あがってきたエレベーターの中へと、一也と共にその身を進ませていった。
「もしかしたら、私よりも君の方がよく知っているかもしれんしな」
「どうでしょうね?」
 笑いあう二人の眼前で、ゆっくりとエレベーターのドアは閉まっていった。
 ため息とともに、明美助教授は難しそうな顔をして眉を寄せた。


「さて、じゃあどこから話そうか」
 ロビーのソファによいしょと腰を下ろす小沢。眼前に立っているのは、口をきゅっと結んで、小さくうなずく遙。
「一九七九年、それがすべての始まり」
 と、小沢の背向かいに座った明美助教授が口を開く。
「やっぱり、そこから行きますか?」
 なんて言って、小沢は苦笑い。けれど明美助教授は何も言わない。小沢は仕方ないやと言うように肩をすくめながら何度も頷くと、
「じゃ、一九七九年ですね」
 顎を軽く撫でてから、話し始めた。


「論文?」
 助手席から、運転席の教授に向かって一也は聞く。
「そう。一九七九年に出された論文に、初めてBSSという名前が載ることになる。そしてそれを書いたのが──」
 教授はハンドルを握り直して、笑った。
「私の、研究室の先生だ」
「え?だって──」
 教授の言葉に目を丸くする一也。
「道徳寺先生は…」
「あの人は大学、院でお世話になった先生なんだよ。ドクターコースは、その先生の所にいたんだ」
「じゃ、BSSを作ったのって──」
 一也の言葉が終わるのよりも早く、
「そこは、難しい所なんだな」
 真っ直ぐに前を向いたまま車を走らせる教授は、そう言って口許を弛ませた。
「確かに論文を書き上げたのは、その先生だ」
 背筋を伸ばしつつ、背向かいの明美助教授にもしっかりと言葉が届くよう小沢は言う。
「だけど、あれははっきり言って生体工学の将来性に有意した、不完全すぎるものだった。違いますか?」
「否定はしないわ」
 と、表情も変えずに言う明美助教授。
「あのころは、まだ医療機械工という分野も確立していなかったしね」
「でも今の分野で分類するなら、私とその先生はあのころから機械工学ではなく、医療機械工に近いことを研究していた」
 苦笑いを浮かべて、助手席の一也に向かって言う教授。
「人間の関節に、限りなく近いアクチュエーターシステムとかね」
「駆動系を作ること自体は、それほど難しい事じゃない。問題は、その制御。いかにそれを人間の動きに近づけるか──だ」
 小沢は、口を曲げて呟く。
「限りなく人に近い動き。それを制御するために考えられた情報伝達系システム──」
「それが、つまりBSS」
 教授は小さく息を吐き出す。
「Brain Scanning Systemだ」
「この道は──?」
 教授の言葉を耳にしながら、車が国道からそれるのをフロントガラスに見て、ぽつりと一也は言葉を吐き出した。
「大学の方ですか?」
「そうだ」
 頷いて、一也に向かって軽く微笑んでみせる教授。
「君に、見せたいものがある」









       2

 一九七九年。京都。
 六十にさしかかろうかという年齢のわりに、彼ははきはきとした足取りで院内を歩いていた。
 手には分厚い本と、それに負けないくらいに太ったファイル。
 時折、知った顔の若い医師達が彼に頭をさげていく度に、彼も立ち止まって二、三の言葉を彼らにかけた。ま。大体どの若者に対しても、「ちゃんと研究はしているのか?」なんて、多少皮肉めいたことを言うわけなのだけれど。
 彼は、この病院の医師というわけではなかった。確かに医学的知識もある。医師免許だってちゃんと持ってはいるし、四十前までは、確かにこの病院で働いていた。
 しかし、今はそうではない。
 大学の付属病院であるここを辞め、彼は今、大学の研究室でひとつの研究に打ち込んでいた。
 そして、つい先日、彼はその研究のスタートとも言えるべき論文を書き上げたのである。
 Brain Scanning System.
 通称、『BSS』の概要を書き留めた論文である。


「当時の医学で考えれば、突拍子もない論文だったろうね」
 時代は移り、一九九七年。
 同じように病院で、だけれど彼がいた場所とは違う大学の付属病院。
 彼の作り出したBSSの、完成したものを知る者が口を開く。
「当時、日本では生体工学なんて言う物はまだ出来たばかりの年だ。同年の四月には、北海道大学大学院で、生体工学の専攻が出来たけれどね」
 小沢 直樹。BSSを調べ、その全てを知った男。
「Applied Neural Controlなんて言葉が出来たのも、八○年以降だったかしら(注*6)」
 その小沢の座る椅子の背向かい。現代にBSSを作りあげた研究室の助教授、西田 明美が口を開く。
「どっちにしても、その論文はほとんどの人間に相手にされず、学会からすぐに姿を消したわ」
「その時にその論文を相手にしたのが──」
 場所は変わり、BSSを作り上げた研究室、『脳神経機械工学研究室』のあるT大学の駐車場。
 車から降りた、そのBSSの端末を持つ少年、吉田 一也に向かって、研究室の室長である平田教授が口を開く。
「道徳寺 兼康センセイ他、各々の学会からは異端とされていた人間達だったわけだ」


「平田君?」
「はい。今年、東都大学で修士課程を修了しまして、先生の下で勉強ささて戴き、博士を得ようかと思いまして…」
「かまわんよ。建前なんか」
 そう言って、先の元医者先生──石野という──は笑った。
 大学の研究室。古ぼけた机に座った石野先生は、眼前の若者と彼の願書とを交互に見比べながら、口許を弛ませた。
「君、道徳寺の推薦なんだね?」
「はい、道徳寺先生には、大学、院とお世話になりまして──」
「建前はいいよ。道徳寺の弟子なんだろう?そんなことはやめておきなさい」
「じゃ、やめます」
 青年は笑いながら言う。そしてぽりぽりと頭を掻きながら、返した。
「以前に石野先生が出されたレポート、拝見させてもらいました。非常に面白い研究テーマだと思いまして。自分もアレを、研究してみたくて」
「Brain Scaning Systemか」
 石野は青年の熱っぽい物言いに口許を弛ませていた。あのレポートを出した直後に、旧知の仲であった道徳寺 兼康と言う男から誘いを受けていたのだ。「お前の考え出したBSSという制御システムで、俺と一緒に巨大ロボットを作ってみないか?」なんて──。
 その時石野は「考えとくよ」なんて軽く笑って返していた。BSSはどう考えてみても、すぐさま実現できる技術ではなかったのである。
 それに──
「なるほど、君は道徳寺と趣味を共有する者なんだ?」
 石野は笑う。
「先生は、お嫌いなんですか?」
 平田青年は眉を寄せた。
「どうかな?私が作りたい出したいBSSというものは、そういうものではないからね」
「でも、道徳寺先生達はすでに計画に着手していますよ」
「T‐4だったっけ?道徳寺達が、作ろうとしている巨大ロボット。設計図は見たよ。どこに置いたかな?」
 石野は机をあさる。その机の上に、平田青年は両手を置いて言った。
「T‐4は、現在の技術では完成は無理かも知れません。ですけど、きっといつかは完成するはずです。その時、BSS以上に巨大ロボットの制御に向いたオペレーションシステムはないと僕は思うんですが…」
「そうだろうね。だけれど──」
 石野はまっすぐに平田青年の目を見て言った。
「私が作りたいBSSは、君たちの考えているような使用用途に使われるべきものじゃない」
「FESシステムのひとつとしての制御システム?」
「それを、肝に銘じておいてくれ。それでよければ、君を拒絶する理由はない」
 平田青年は満面に笑みを浮かべてその言葉に答えた。
「はいっ!」


「でも結局、学会でも爪弾きにされた我々に、大学側からは研究費なんてものはほとんど出されなかった。仕方なしに、我々は二足の草鞋を履きながら研究を続けていたんだ」
 T大学。地下へと続く長い階段を下りながら、先を行く教授は振り返りもせずに続ける。
「2年…近くだったかな?」
 階段を下りきれば、そこにはR‐0を組み上げた地下ケージがある。
「でも、BSSの研究はそれっきりだった」
「え?」
 目を丸くした一也に向かって振り返り、笑いながら、教授は地下ケージへのドアを引き開けた。
「一応の完成型、T‐4だけを残してね」
「T‐4?」
「正式名称は、Term‐4」
「あの、R‐1の作ってたプラントの奥にあった奴…」
 遙は記憶の中にあるその巨大ロボットのことを思い出していた。言われてみればあのロボットは、R‐0に似て、ゴッデススリーに似て、R・Rに似ていた。(注*7)
「あれ…」
「道徳寺先生と、設楽さん、春日井さん、そして石野先生の四人で、それを組み上げたんだ」
 教授は口許を弛ませる。そして一也のことを、地下ケージの中へと促す。
「でも、それで終わりだった。金、人、時間。何もかも足りなすぎたんだ」
「そして何よりも一番の問題は、研究主任である先生がいなくなった」
 言いながら、軽く微笑む小沢。眼前の、目を丸くした遙に向かって。
「あの…じゃあ…その先生って言う人はどこに行っちゃったんですか?」
「どこかな?」
 なんて、遙の質問に肩をすくめてみせる。
「わかっていることは、彼が自ら望んで中東へ行ったと言うこと。国際赤十字の医師としてね。八○年にはイラン・イラク戦争も始まったし、イスラエルのレバノン侵攻。ずっと続いていた中東戦争なんてものもあったし──その後、八四年にアフリカに行ったと言う報告もあるけれど…実際の所はわからない(注*8)」
「結局、行方不明なのよ」
 明美助教授が、最後にぽつりと付け加えた。ため息混じりに。


「ね、かわいいでしょ」
 ちっちゃな手を、べたっとガラスの壁に押しつけて、その小さな女の子は満面の笑みを浮かべて言う。
「ホントだ。かわいいねぇ」
 ちょっと困ったように、石野は眉を寄せた。何をするでもなく、窓の外を眺めながら歩いていたのが暇そうに見えたのか──いや、実際暇だったのだけれど──その女の子は彼の手を取って、とことこと、まだ生まれたばかりの赤ちゃんの眠る新生児室の窓へと彼を引っぱって行ったのである。
「ほら。あれだよ。わかる?」
「うん。あれだろう」
 はっきり言って、生まれたばかりの赤ちゃんの見分けなど、母親や肉親以外にはつくものではない。石野は目を爛々と輝かせている女の子をがっかりさせないように、曖昧な言葉でとりあえず逃げた。
「弟、生まれたんだね」
 石野が言うと、女の子は満面の笑みで大きく頷いた。別に、2分の1の確率にかけて言ったわけではない。彼女が自分で、「弟が生まれたの」と言ったからである。
 この子は、よく病院で目にする子だった。
 初めは一人でとことこ歩いていたので、「迷子かな」なんて思って声をかけたのだけれど、予想外にしっかりしたこの子は、「お母さんが赤ちゃん産むの」と、にっこり微笑んで言ったのである。
 名前は、聞いたこともあったような気がするけれど、忘れた。女の子も、自分の名前は知らないだろう。それに、知らないくらいの方がきっといい。
 自分も、もう後一週間後には日本を発つことになるのだから。
「わたし、弟いっぱいかわいがってあげるんだ」
 ガラスに手をくっつけたまま、女の子はそういって笑う。本当に嬉しそうに。
「そう…そうしてあげな」
「うん!」
 女の子は大きく頷く。
 先生は、その彼女の頭にぽんと手を置いて、言った。
「いいかい。世界中で、今もたくさんの赤ちゃんが生まれているんだ。でも、その中にはすぐに死んじゃう子もいる」
「どうして?」
「戦争とか飢…──そういう、星の元に生まれて来ちゃった子はね」
「ふーん…」
 先生を見上げて、女の子は口を尖らせた。ぱちぱちと瞬きをしながら、言う。
「かわいそうだね」
「ん?でも、君の弟は違うだろう。だから、君は弟をいっぱいかわいがってあげるんだ。そういう、子供達の分までね」
 ちょっと難しすぎたかな?と、石野は眉を寄せながら苦笑いを浮かべた。自分が旅立つ前に、自分の思っていることを誰かに伝えておきたかったとしても、この子はまだちょっと若すぎ──ちっちゃすぎたか。
「わかった!」
 女の子は、満面の笑みを浮かべて返す。
「わたし、いっぱい弟かわいがる!」
「そう…」
 石野は曖昧に微笑みながら、女の子の頭を優しく撫でた。
「あ。ぱぱだ」
 自分の後ろに父親を見つけたのだろう。彼女は石野の手をすり抜けると、たたたっとぱぱの方へ走っていった。
「あ。どうもすみません」
 と、女の子の父親らしき男が、石野に向かってぺこりと頭をさげた。
「ご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「いえ。そんなことはないですよ。大変しっかりしたお子さんで」
「いや…恐縮です。カナ、本当に迷惑かけなかったか?」
「うん。わたし、弟が生まれるからいい子になるって約束したもん」


「先生!」
 かけられた声に、石野は歩きだそうとした足を止めた。廊下の向こうで、先ほどの女の子がこちらに振り返っていた。反対側から駆けてくる青年の声は、彼女の耳にも十分に届くくらいの声だったのである。
「院内では、静かに」
 石野は眉を寄せながら言う。女の子は父親に手を引かれて、通路を折れて見えなくなっていた。
「なんだね?」
「先生!本気なんですか?中東に行くって──」
「ああ。もう、学長達には話してあるよ。安心していい、研究室は解散されないから」
「そう言う事じゃないでしょう!?」
 平田青年はオーバーリアクションに手を振りながら、石野に向かって言った。
「せっかくT‐4も組みあがったんですよ?このまま二足の草鞋でも何でも研究を続けていけば、九十年中にはBSSも完成して、動くようになるんですよ?」
 平田の言うことはもっともだ。
 石野は軽く頷いた。
 だけれど──
「でも平田君、あれを完成させて、それでどうなる?」
「どうなるって──」
「T‐4。大いに結構。だが、あれが完成すれば、あれはどう使われる?BSSはどう使われる?私が作りたいのは、そんなんじゃないんだよ」
「だからって、先生が中東なんかに──」
「私は確かめたいんだよ」
 石野は振り向いた。通路の先に──新生児室のガラス窓から、自分の弟をじっと見る先ほどの女の子の幻影に。
「自分の考える倫理が、どこまで正しいのか」


「BSSの研究は、一応先生がいなくなったことで停止。その後、研究室は助教授になった平田教授を中心に、機能的電気刺激による運動系制御の研究を始める」
 話を続ける小沢を遮るようにして、遙は眉を寄せて聞いた。
「つまり、どういうことですか?」
「今時の言葉で言うなら、FES。要するところ、電気的刺激に対する筋組織の制御って事ね(注*9)」
「さすがは明美さん。当時からの研究員の一員であるだけのことはあります」
「茶化さないで」
 そう言って、明美助教授は自嘲するように微笑んだ。


 一九八八年。冬──
「君はうちの研究室に入らなければならない」
「はぁ?」
「いや。入るべきだ」
 と、食堂の机をどんと叩いたのは誰であろう、大学の穀潰し呼ばわりされている研究室の主任、平田助教授である。
「あの…何か勘違いされてません?」
 ぎりぎり苦笑い一歩手前の微笑みを見せて返すのは、四年生になる来年、なんとか研究室にはいるため、ついさっきまでレポート書きに必死だった西田 明美と言う名の女性である。
「西田さんでしょう?」
「…違います」
「嘘はよくない。さっき出したレポートの名前も確認した」
 にやりと微笑む平田に、明美は閉口した。なんなのよこの人…研究室がどうとかって。私だってねぇ、入りたい研究室くらい、あるんだから。
「食事中ですから、後にしてもらえませんか?」
 何しろ、昨日の夜から食べたものがコンビニのサンドイッチだけである。しかも、バイト先から勝手に持ってきた廃棄のヤツだ。
「じゃ、終わるまでまとう」
 と、椅子に座り直して口をつぐむ平田。
 ──って。
「あの…」
 明美が軽く睨み付けると、平田は肩をすくめながら「どうぞお食べになって下さい」とジェスチャーで彼女に語りかけた。けれど、
「じっと見られてるのは、あまり気分のいいものじゃないんですけど…」
 言いながら、明美は自分の眉毛がぴくぴくと動いてしまうのがわかった。苛立ってきたときの、自分でも気づいている癖だ。
「話があるのなら、わかりましたから、どうぞ」
 明美は、目の前にいる男を無視することに決め込んだ。言いたいことは言わせておこう。私には、関係ない。
 と、決めてかかったのだが、平田は「じゃ」とポケットの奥から紙切れを取り出すと、そこに書かれているのであろう事を、次々と読み上げた。
「君は先月、電話回線を合計200時間近く使っているね。けれど、電話料金の請求書にあった金額はわずか1時間あまり。同じように、カードの請求金額も使用していた金額に比べて──」
 明美は焦って平田の手にしていた紙切れをひったくろうとした。が、その彼女の手をひらりとかわして平田は笑う。
「図星だ」
「あなた警察?それともFBIかCIA?」
「ハズレだ」
「ケヴィン・ミトニック…は日本人じゃないわよね(注*10)」
「ただの大学の助教授だよ。君みたいな、ハッカーじゃない」
「証拠はないわ」
 明美は、だんだん自分の目の前にいるこの男が面白い人間に思えてきた。自然と弛む口許を隠せずに、
「えーと…確か平田助教授でしたっけ?それで私に何か?」
 好意的ともとれる微笑みを見せて、平田に問いかける。
「NORADにハッキングして、(注*11)第三次世界大戦でも?」
「それも面白そうだが、ちょっと違う」
 明美の言葉に楽しそうに笑いながら、平田は手にしていた紙切れをひらひらと振るって見せた。
「うちの研究室で、腕のいいプログラマを捜していてね」
「ハッカーを脅迫するなんて、結構命知らずなんですね」
 笑いながら、明美は椅子に座り直した。


「明美君と出会ったのは、この大学に来る直前なんだよ」
 R‐0を組み上げた地下ケージには、古びたパソコンが何台も置かれている。マックやIBMのサーバマシン。一也なんて、ここに来るまで見たこともなかったX68Kなんかも置いてある。(注*12)
「一九九○年に、この大学からお呼びがかかった。教授として、研究室を持たないかってね。ちょうど、明美君が卒業する年だった」
 ガラクタと呼んでしまえばそれまでの、R‐0の古い部品の奥。南京錠のかかった扉の前で、教授はしゃがみ込んで鍵を探していた。
「九○年度からこの大学で研究室を持つことになった。予算はそれなりに貰えたし──バブル期だったしな。(注*13)学長も、話の分かる人でね」
 と、ケージの高い天井を指さしつつ笑う。
「それが一回目」
 明美助教授が呟く。
 遙が視線で聞き返したけれど、彼女は曖昧に笑って見せるだけだった。


「お金がたくさん貰えるから、この大学を出るんですか!?」
 平田の机の上には、読みかけの学生のレポートが山となって積み上がっている。よって、明美が彼の机を思い切り叩けば、その山は盛大に崩れるのである。
「しかしなぁ…」
 レポートの山を両腕で押さえつつ、平田が言う。
「実際、この研究室は今の予算じゃ研究なんてできやしないぞ」
「なんの研究をするつもりなのか知れませんが、そういう問題じゃないでしょう!」
 八九年度は、ちょうど節目にするのにはいい年だった。研究室で平田の片腕となりつつあった明美が卒業する年でもあったし、上肢多チャンネルFESによる筋組織の制御も、一応の成功を収めていた。もちろん、一番乗りというわけではなかったけれど。
「平田さんがこの研究室を出ちゃったら、誰がここを引き継ぐんですか!?」
「誰って…」
 平田はぽりぽりと頬を掻く。
「君は、外の大学院に進学するんだろう?だとしたら、ここを引き継ぐ人なんて誰もいないよ」
「それじゃ、ダメでしょ!!」
 ばあんと明美が再び机を叩くと、今度はレポートも堪えきれなかった。平田の腕の隙間を縫って、とうとうその山も崩れ落ちる。
 「あーあ…」と嘆息を漏らしつつ、レポートの山を崩すことを容認し、平田は机からささっと離れた。
「でも、この研究室でやるべき事はやったよ。もう、ここに執着する事は──」
「私たちがいなくなったら、平田さんの先生はどこに帰って来るって言うんですか?」
 明美が彼を視線で追いながら言う。
「私は、その人のことを話でしか聞いたことはないですけど、平田さんの恩師なんでしょう?止まったままになっている研究もあるって言うし、私たちがここを離れちゃったら、その先生はどうするんですか?」
「言うね」
 と、平田は笑う。
「そんなこと言っても、明美君だってこの研究室を出て行くんだろう?外の院も受かったことだし。いいじゃないか、丁度。それに、先生はもう六年以上音沙汰ナシだ。これじゃ、生きているかどうかも──」
 平田の言葉を遮るように、明美は右手を思いきり振るった。


 ふうと大きくため息を吐き出す明美助教授。
「若気の至り」
 なんて言って、肩をすくめてみせる。
「その後、今の大学に平田教授は研究室を移動させる」
 その明美助教授の背向かい。小沢は続ける。
「もちろん、明美さんは外の大学院に進学したため、この研究室にはこの時はいなかったんだけどね」
「まぁね。私は、真面目に学生してたのよ。教授がなんにもしていなかった間」
「なんにもしていなかった?」
「『脳神経機械工学研究室』は、初め、名前だけの研究室だったんだよ。私自身、たいした研究なんてしていなかった」
 教授は口を曲げて一也の言葉に返す。
「BSSなんて言葉、この頃には忘れかけていたんだ」


「おい、平田」
 呼ばれて、平田教授は学生のレポートから顔を上げた。
「ああ、黒岩さん」
 T大学において、教授が研究室を持つことができたのはこの男のお陰でもあった。石野と親しくしていたこの黒岩と言う男は、T大の医学部で教鞭をとっていたのである。
「どうしたんです?今日は」
 T大学の外れ、第14号館にある『脳神経機械工学研究室』に遊びに来る教授や学生などはほとんどいない。研究生も、この研究室に入ってくる連中はほとんど単位が足りてなく、授業三昧の者がほとんどだった。
「いや、別の教授に用があって大学に来たんでな。ちょっと寄ってみたんだ」
 言いながら、黒岩は研究室の中に入ってきた。教授は手にしていたレポートを机の上に投げ、立ち上がる。
「茶でも飲みますか?といっても、ここで言う茶というのは、コーヒーですが」
「いや、いいよ。すぐに出なきゃならないんだ。ところで平田。お前、ちゃんと研究はやっているのか?」
 研究室の机の上には色々な物が散乱していた。一見すると、研究に追われて整理が追いついていないのではないかとも思えるような散らかり方であったが、どうもそうではないらしかった。
 そういうものは、長年研究を続けてきた者になれば、何となく感覚でわかるのである。この部屋は、研究をしている部屋じゃない。
「研究、ちゃんとしてますよ」
 と、平田は笑って言った。
「石野が見たら、泣くぞ。愛弟子がこんなんじゃな」
 黒岩は苦笑いをその顔に浮かべて返した。
「そう言わないでくださいよ」
「で。どうなんだ?石野が作ろうとしていた物の研究の方は?」
「なんの話ですか?」
「皆まで言わせるなよ。BSSだよ」
「──考えてますよ」
 教授はそう言って笑った。スチール棚の奥に隠しておいたとっておきのアカプルコを引っぱり出しながら。


「仕方なく──という訳でもなかったけれど、それから『R』計画という研究プロジェクトを立ち上げたんだ。細々とね。」
「『R』計画って、意味があったんですか!?」
 地下ケージの奥に向かって歩きながら、一也が聞いた。教授は口を曲げて笑いつつ、
「意味もなく、名付けたりはしないよ」
 なんて言って、肩をすくめて見せた。
「本当は、ただの『R』じゃなくて、『Re』なんだよ」
「『Re』?」
「こっちだ。見せたい物がある」
 教授は、小さな管制室のような部屋に入ると、一番奥のドアの前まで迷うことなく歩いていき、ゆっくりとそのドアに手を掛けた。
 一也は少し小走りに、教授の消えたドアへと駆け寄った。


「中野 茂?」
 一応、工学部と医学部の中間地点に『脳神経機械工学研究室』は位置するので、工学部の学科主任に呼び出されれば、平田教授といえども無視するわけにはいかないのである。
「決して頭の悪い学生じゃないんだが…」
 言葉を濁しつつ、学科主任は後退したおでこをぽんと叩いた。
「どうにも、変わり者でね。なんとかと天才は──ってヤツだ」
「で。私にどうしろと?」
 何となく答えはわかっていたけれど、平田教授は一応聞いてみた。
「蛇の道はヘビとか、類は友とか…まぁなんだ。君の所の研究室に、彼を置いてやってくれないかね?」
 このころすでに、教授の『脳神経機械工学研究室』は、爪弾きにされた人間のたまり場となりつつあった。それはそれで、別に悪くない。予算は相変わらず並の量貰えていたし、研究室に学生が来ないからといって、自分の研究が遅れるわけでもない。
「まぁ、かまいませんが…」
 軽く答えた平田教授は、後に自分がこの時、最高の『拾いもの』をしたと感じることになる。
 シゲ──からからといつも楽しそうに笑うこの男は、すぐにその愛称で呼ばれるようになった。とにかく手先の器用な奴で、プラモデルやミニチュア、フィギュアからエレクトロニクスの基板に至るまで、何でもさくさくと作り上げていった。
 そして、学科主任が「なんとかと天才」と皮肉ったように、彼の頭脳は、教授のなそうとしていた計画に、必要不可欠なものとなった。


「これ…なんですか…?」
 一也が足を踏み入れた部屋には、埃のかぶった椅子を中心に、腰の高さ程まであるラックがいくつか規則正しく並んでいた。そして、そのラックの中には計測機器らしきものがいっぱいに詰まっていて、今でも十分に使えそうな気配を見せている。
「見せたい物って…これですか?」
「ま、そんなところか」
 椅子の上をつーと撫でて、教授は顔をしかめさせた。たっぷりたまった埃の付いた指を擦りながら、
「これが、『R』計画のヒナ形なんだ」
 なんて言って笑いながら、椅子の脇にあったラックの電源を入れた。
「これが?」
 ラックの上に乗っていたモニターに電気が流れる。ぶんと小さな音を立てて、モニターにゆっくりと白い文字が浮かび上がった。
「R‐type ZERO。もちろん、システムの要であるBSSは搭載されていないけどね」
 モニターには、白く文字が浮かび上がっていた。──>system not recognized.


「教授ー?」
 外からしたシゲの呼ぶ声に、教授は「ん?」と短く答えた。
 春だった。14号館の脇の桜が、美しくその花を咲かせていた頃だった。
「お客さんですよー」
「ああ…」
 喉を鳴らして答える。そうか、もうそんな時間か──と、教授は椅子から立ち上がると、窓から14号館の入口の方を見下ろした。シゲがこっちを見上げている。そしてその隣りに──
「どうも、ご無沙汰してました。というべき?」
 なんて言って笑う、明美の姿があった。
「いや」
 教授は笑いながら、
「シゲ、紹介する。我が研究室の助教授となる、西田 明美助教授だ」
 眼下の明美助教授とシゲに向かって言った


「それが、一九九五年」
「私がちょうど、博士をとった直後」
「そして、BSSが完成したのが一九九六年の夏」
 背後の明美助教授がぴくりと身を震わせるのを感じながらも、小沢はそれに気づかない素振りを見せて続ける。
「金、人、時間。全てがそろったのがこの時だった」
「君も気づいているだろうけれど」
 教授は弱く微笑みながら、点滅する文字──>system not recognized.──を見ながら、言った。
「その最後の一人が──」


「どこでこれを?」
 手にしたレポートをめくりながら、平田教授は多少問いつめるような口調で聞いていた。我知らず、である。
「わかりませんけれど、ずいぶん前から──知っているような気がしていました」
 軽く、微笑みを見せて教授の眼前に立つ学生は返す。
「もっとも、平田教授がこの研究をしていた先生の教え子だと知ったのは、この大学に入ってからですけど」
 レポートから視線をあげ、眼前で微笑む女学生の方へと視線を走らせる教授。彼女は軽く首を傾げて、「他に何か?」と聞き返すように微笑んでみせた。
 教授は口を曲げて、再びレポートに視線を落とす。
 数年ぶりに目にした単語。それがまさか学生のレポートからだとは、彼自身、思いも寄らなかった。
 『Brain Scanning System.その利用法と将来性に付いての考察』
「貴方、このレポートを提出したって事は、この研究室の興味があるの?」
 皮肉めいた口調で言う明美助教授。教授の手からレポートをひょいと奪い取り、
「ずいぶん、変わり者ね」
 表紙のページにある学籍番号と、氏名に視線を走らせた。
「よく言われます」
 社交辞令というわけでもなく、そう言って笑う彼女。
「医療機械工ね。見たことあるわ、この名前。成績優秀なのに、こんな研究室来てもしょうがないでしょ?」
「そうなんですか?」
「…明美君」
 軽く教授が睨み付けると、明美助教授は肩をすくめながら、レポートに書かれている文の方へと視線を走らせた。よくできたレポートだ。手書きだけれど、性格が現れていて読みやすいし、的を得ている。
 そして何よりも、BSSのおおよその概要までもがそのレポートには簡潔に──ドラッグ・デリバリーという新しい視点から──記されていたのであった。(注*14)
「えーと…」
 椅子に座り直し、教授は眼前の女学生に問う。
「吉田 香奈君だっけ?」


「じゃ、やっぱり──」
 一也はぎゅっとこぶしを握りしめた。
「BSSを作ったのは、香奈さん?」
 眼前の小沢へと問いかける遙。
「きっかけ──だけというわけでもないな」
 自分の口から何気なく出てきた言葉を否定し、小沢は天井の片隅を見つめながら続けた。
「すべての物がそろったんだ。この時に。そして、できるべくして、できた」
「小沢君、あなた、BSSができてからのことも、香奈ちゃんにすべて聞いたの?」
 肩越しに、小沢に問いかける明美助教授。振り返りもせず、言葉もうなずきも返さない小沢に、目を伏せてぽつりと言葉を吐き出す。
「それなのに、あなた、香奈ちゃんを止めなかったのね」
 明美助教授のつぶやきを耳にしても、小沢は結局なにも言わなかった。
「おかしいじゃないですか」
 眼前の教授に向かって、一歩を踏み出しながら言う一也。教授の方は、軽く口を曲げて、聞き返すような視線を一也に送る。
「なにが?」
「だって──」
 その視線に押されながら、一也は続けた。
「だって、BSSを完成させたのがお姉ちゃんだったとしても、どうして誰もBSSを開けられないなんて──お姉ちゃんが作ったんなら、お姉ちゃんが──」
「香奈君が」
 一也の言葉を遮り、教授は小さくため息をひとつ。
「香奈君が、一也君に対して言ったかどうかはわからないが、彼女はいつも自分に対して劣等感のような物を抱いていた」
「『私がもっとしっかりしていたら、こんな事にはならなかったかもしれないのに』──って…」
 遙のつぶやきから、小沢は視線を逸らす。足下の少し汚れたフロアを革靴のかかとで蹴り、
「香奈さんは、自分に対して強い劣等感を抱いていた。より正確には、過去の自分に対して──今の、大切なことを忘れてしまったのかもしれない自分に対して」
 奥歯を噛みしめて、目を細める小沢。
 「…ごめんなさい」
 香奈の、小さな声が耳に甦る。
「香奈さんは、もう誰にも傷ついてなんてほしくないって言っていたのに──」
「彼女には、小さい頃の記憶と、最近になってからの記憶がない」


「…どういうことですか」
 自然と、問いつめるような口調になっている一也の語気に、教授はかすかに口許を弛めて返した。
「BSSは、脳の電気刺激を電極で感知し、それに機械的な処理を施してアクチュエーターなどの間接部を動かすシステムだ。つまり、脳の神経系を電気的に機械と直結させるシステムになっている。システムの上では、脳の中のニューロンもシナプスも、基盤の上のトランジスタや抵抗のひとつひとつと変わらない。それは、一也くんも身をもって知っているだろう?」
 首筋を走った電撃を、一也は思い出していた。そうか──あれがそれ──
「もちろん、計算上では、それは人に害を与えるような物じゃなかったはずだった。ただ、ある一定量の電圧がかかったとき──といっても、それがわかったのはつい先日のことだけれど──過電流が流れることがわかった」
 眉を寄せる一也に向かって、
「もちろん、それは、ひとつの基盤の上にあるモノを壊すことになる可能性が出てくる」
 教授はぽつりと、少し自嘲したように微笑みながら、言葉を吐き出した。
 >system not recognized.
 モニターに映る白い文字は、ただ変わることなくそこで光を放ち続けていた。


 小沢の言葉を耳にしながら、明美助教授はぼうっとひとつの椅子を眺めていた。
 ちょうど一年ほど前に、あそこに自分が座っていた。
「どうして…」
 ぽつりと、下を向いてつぶやく私。顔を上げればそこには平田教授がいた。
「どうしてこんな事に?」
「事故は起こる。その可能性は、常にゼロにはならないものだ」
 素っ気ない教授の物言いに、腹が立った。わかっているけれど、そういう事じゃない。ぴりぴりと震える眉を右手で押さえつけ、
「…教授。あなたは責任とか、感じないんですか?このまま香奈ちゃんが目覚めなかったらとか、思わないんですか?」
 上目遣いに彼のことを睨みつけて言い放った。
「そうだな…」
 だけれど、その視線をするりとかわして、無精ひげの伸びた顎を掻きながら、教授は軽くつぶやいた。
「あまり考えないな」
 根拠もなく教授がつぶやいたことは、あまりにも明らかだった。
 気がつくと、私はその椅子から勢いよく立ち上がっていた。


「結果として──」
 自嘲しながら頬を掻き、教授は言った。眼前のモニターをじっと見つめたまま、一也とは視線を合わせようとしない。
「我々が香奈君を傷つけたことは事実だ。──結局は、今回も」
「そんなことを今更言っても…」
 強く歯を噛みしめた口許を、一也は左手で覆い隠した。
 結局は──僕も知らなすぎた。
 でも──
 僕だって、お姉ちゃんと一緒で、誰にも傷ついてなんてほしくなんてなかったのに。
「香奈さんは、覚悟を決めていたんだと思う」
 小沢は大きく息を吸い込み、両手でその口許を隠して、ゆっくりと息を吐き出していった。胸に渦巻く、黒いわだかまりとともに。
「きっと、彼女はこうなる事も心のどこかで分かっていて、それで全てを話してくれたんだと思う」
 あの駐車場。雨に濡れたアスファルト。
 微笑む香奈の顔。
「もしかしたら、今度こそ本当に全てを失うことになるかもしれないと、そう思っていたのかも知れない」
 最後の香奈の台詞が、耳元を擦り抜ける。
 「キス──して下さい」


                                   つづく








   次回予告

                          (CV 吉田 香奈)
 政界に渦巻くスキャンダル。
 そしてそれに巻き込まれていくNecの面々。
 正義という名の非難と中傷。
 それを盾にしたマスメディア。
 傷つける者。
 そして傷つけられる者。
 正義──
 果たしてそれは、どちらが行うことのできるものなのか。
 答えを知る者は、果たして──
 次回、『新世機動戦記R‐0』
 『一番偉い人へ。』
 お見逃しなく!


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