studio Odyssey


第二十五話




「早くしろよ!」
 と、その言葉に返すようにいつもの憎まれ口が聞こえてくる。
「分かってるわよ!そんなこと言ったってね、女の子にはいろいろと支度という物が…」
 なんて、口をとがらせて言うのは村上 遙。
 いつもと変わらない、吉田家の朝の風景である。
「ったく…」
 玄関で苦虫をかみつぶす吉田 一也。
「なんでいつも僕より遅いんだよ…」
「あっ!もぅウィッチ!足下にまとわりつかないでってば!急いでるんだから!」
 玄関からリビングへ続く廊下。そのリビングの手前のドアの中から聞こえてくるのは、遙と黒猫のウィッチがじゃれあう声である。
「…ったく」
 と、ため息混じりにごちる一也。
「大体、お姉ちゃんがいない間は僕が炊事して、ちゃんと食器も洗ってるって言うのに、何で僕より遙の方が遅いんだよ」
 ぶつぶつ文句を言いながら、一也は玄関の新聞受けに入っている新聞に手を伸ばした。
 それに洗濯だって僕にやらせて、自分はリビングでテレビ見て──と頭の中で文句を続けながら、その一面に視線を走らせる。(注*1)遙とウィッチのじゃれあう声が、まだ聞こえているのを小耳に挟みながら。
 『斉藤長官、週明けに辞任(注*2)』と大きく書かれた白抜き文字の見出し。このところ続いている政界スキャンダルの記事が、今日も新聞の一面を賑わせている。
 ため息を吐き出しながら、新聞をめくって社会面をのぞき込む一也。いきなり飛び込んできた文字に、顔をしかめさせる。
 『渦中の人、村上 俊平総理の今とるべき態度』などと、社説の部分に四倍角の文字で大きくかかれていたのである。
「言いたいことを…」
 と、その記事が気にはなったのだけれど、目を通すようなことはせずに、新聞を折り畳んで下駄箱の上に置く。
「遙っ!いい加減にしないと遅刻するって!」
 一也が怒鳴ると、
「ちょっ…ごめんごめん!」
 部屋の中から、スカートのチャックに手をかけた遙が飛び出してきた。
「ちょっと、ウィッチー!」
 足下──正確には遙がはこうとしている制服のスカート──にじゃれつくウィッチを、「しっし」とやりながらチャックあげる遙。
「かばんは?」
 一也が聞くと、遙ははたとその場で凍り付き、
「もう!遅刻しちゃうでしょっ」
 黒猫のウィッチを抱き上げてリビングの方に放り投げ、彼女は再び部屋の中に戻っていった。








 第二十五話 一番偉い人へ。(注*3)

       1

「…やれやれだ」
 ため息を吐き出しながら椅子に腰を下ろすのは、渦中の人、村上 俊平総理。
 今日も山のような報道陣の中を、やっとのことで通り抜けて、ここに落ち着いたのである。
「ご苦労様です」
 微笑みながら執務室の椅子に座る村上総理に向かって、彼の第一秘書である美しい女性は言う。
「今日の予定ですが、閣僚の方々との会談が、分刻みで入ってます」
「…皮肉だな」
 と、村上総理。ため息混じりに、愚痴も言いたくなる。
「いつからこの国の政治家は、こんなに仕事熱心になったのだ?」
「みなさま、しっかりと普段からお仕事をしていらっしゃいますよ」
 美人秘書は子供に向かって言うかのようにして、眉を寄せながら微笑んだ。
 していないのは、総理くらいの──と、言いそうになるのをなんとか堪え、小さく咳払いをしてバインダーほどの大きさのある手帳を開く。
 いけないわ。正体を明かしてからというもの、総理がやけに下手に出るから、変な癖がついちゃったじゃない。(注*4)と、顔をきりりと引き締め、
「それから野党の動きですが──」
 声のトーンを落とし、ちらりと総理に視線を走らせて言う。
「もう、首の皮一枚といったところです」
「内閣不信任案か──(注*5)」
 椅子に座り直し、村上総理はため息を吐き出した。一瞬、滅多に見せない政治家の顔をそこにのぞかせ、
「解散か、総辞職か」
 ぽつりとつぶやいて、机の上に山と積まれた抗議文を視界の端に入れた。
「難儀なものだな」
 つぶやいてから、軽く笑う村上総理を見て、秘書の彼女は首を傾げた。総理、何を考えていらっしゃるのかしら?
「そうは思わんかね?」
 と、さすがにそう聞かれても、彼女は眉を寄せることしかできない。
 総理は、ため息混じりに椅子に座り直して言った。
「世の中に出回っているスキャンダルの数々。確かに私の周りはかなり煙たいところだが、どれも噂止まりで、確固たる証拠は挙がっていないだろう?」
「はぁ…まぁ」
 そうは言っても、村上総理がかなり危ない橋を渡ってきているのは彼女もよく知っていた。彼女は彼が総理になってから秘書官に付いたのだが、それでも──である。
「刑事責任や民事責任は噂などでは問われないが、こっちは違う」
 ひょいと肩をすくめ、
「この期を逃すものかとばかりに、一斉に叩いてくるんだからな。たまらんよ」
 「あーあ」とばかりに、机に肘を付いてため息。
「──私のやってきたことは、間違っていたのだろうかな」
 ぽつりとつぶやいた村上総理の言葉は、誰の耳にも届かなかった。


「おはようございます」
 なんて、突然に声をかけられれば、誰だって驚くだろう。
 しかもそれが道を歩いていた時で、突然に自分の脇に止まった車の中から顔を出した男のものであったとしたら、なおの事だ。
 遙はどきっとして目を丸くした。隣を、少し急ぐようにして歩いていた一也もまたしかりである。
「学校ですか?送りましょうか?」
 バンの窓から顔を出して笑う男。新士 哲平。テレビPのアナウンサーだ。(注*6)
「結構です」
 と、遙は視線を逸らして言う。が、
「まぁ、そういわないで。全く知らない同士というわけじゃないんですから」
 新士の乗ったバンは、遙たちの歩調にあわせて徐行しはじめた。はっきり言って、周りに迷惑をかけまくってである。
「聞こえてますか?」
 その新士の言葉に眉を寄せ、怒ったように──実際怒っていた──彼を睨みつける遙。しかし新士はたいしてこたえた様子もなく、にこにこと笑っている。
「は…遙…?」
 一也は眉を寄せた。バンの後ろに渋滞した車が、やかましく鳴らすクラクションの音に。
「乗りませんか?こうしてずっと話しているわけにも、いかないでしょう?」
 勝ち誇ったように、遙に向かって笑いかける新士。バンの後部ドアが、横に滑って開く。
「どうぞ」
 遙と一也を促す新士。
 遙は目を伏せて眉を寄せていたけれど、次第に大きくなるクラクションの音にとうとう堪えきれず、
「You, bastard!!」
 と、罵声をひとつ彼に浴びせかけてから、そのバンに乗り込んだ。(注*7)
 遅れて、一也がその後に続く。


「こういうのもやっぱり、独占インタビューって言うんですかね?」
 笑う新士。それを睨みつける遙。
「これで学校に遅れたら、訴えてやるから」
 バンの後部座席。唇をつんと尖らせて、遙は窓の外に視線を走らせた。その隣では、一也が鞄を抱えて肩身の狭い思いをしている。
 やれやれ…
 新士は窓の外を見つめたままの遙を見てため息をひとつ吐き出すと、こりゃあ、何も出てきそうにないな…と、目を伏せて奥の手に手を伸ばした。
「今のところ──」
 と、自分の座る、遙たちとは向かい合う位置になる座席の下からファイルを取り出し、
「みなさんの住所まで知っているのは、僕らのスタッフだけなんですね。もっとも、このファイルが他のテレビ局にまで流出したら、どうなるか分かったモノじゃないですが」
 なんて言って、意味深に笑ってみせる。
「So dirty dog.」
 ぽつりと遙。隣にいた一也にしかその声は聞こえなかったので、一也には何のことか分からなかったのだけれど、それにしてもひどい言いようである。(注*8)
「で。何が聞きたいんですか?」
 遙が言う。けれど、視線は窓の外に向けたまま。
「山ほどありますけど…遅刻すると訴えるって言うし…」
 ちらりと、新士は自分の隣に座るカメラマンのセンちゃんに視線を走らせた。センちゃんは手にしていたデジタルビデオカメラの準備OKを、新士に向かってジェスチャーで示す。
「カメラは嫌」
 と、そのレンズに向かって遙は手を伸ばした。ブラックアウトする画面に、目を瞬かせて体を引くセンちゃん。
「質問にだって、答えたくないモノには答えないから」
「ああ。そうですか」
 と、手の中のファイルをめくる新士。
 遙はただ彼を睨みつけて、唇を噛んだ。
「さて、では聞きます」
 新士は大きく息を吸い込んでから、言った。


「日増しにひどくなるわね」
 東京国際空港。
 その敷地の外れに、特務機関Necの本部はある。
「やっぱり、車を買わなきゃダメかしら…」
 首筋を撫でながらぼそりと言葉を吐き出すのは助教授、西田 明美。出勤(?)してきた彼女が、ハンガーに入ってくるなり、ため息混じりにそんなことを呟いたのにも訳があった。
「あ。明美さんも捕まりましたか?連中、昨日より増えてますよねぇ」
 明美助教授のつぶやきを耳にしたのだろう。若い整備員も、その顔に苦笑いを浮かべながら言った。
「根ほり葉ほり、あることないことですよ。嫌になりますよね」
「しょうがないわよ」
 そんなことを言って、明美助教授はため息混じりに口許をゆるませるけれど、やっぱりソアラをシゲ君に直させるより、新しい車買った方が賢明ね──なんて、頭の中で考えていたのである。
 ああ…でもダメね。今そんな事すれば、この状態じゃ何言われるか分かったものじゃないわ。
 明美助教授は目を伏せて再びため息を吐き出すと、
「しょうがないわよ。彼らは、それが仕事だもの」
 あきらめたように、ぼそりと呟いた。
 彼ら──言わずと知れた、報道陣の事である。
 このところ続いている政治家スキャンダルの煽りを食らい、Necに対する世論の非難は日増しに厳しくなっていた。「税金の無駄遣いだ」「都市を護っているんだが、壊しているんだか分からない」「『特務機関に流れ込んだ、大量のブラックマネー』」「特務機関の運用は、どうも村上首相の一存による、娯楽らしい」という──
 しかし、誠にその通りである。(注*9)
 よって、結局非難されても何も言えない事も、事実なのである。
「結局、民間人の非難も押し切って、R‐1もこっちに輸送しちゃったものね」
 ハンガーに置かれたR‐1を見ながら、明美助教授は仕方なさそうに微笑む。
「おかげで、イーグルは置き場がなくて困ってますけどね」
 若い整備員は笑って、帽子を深く被り直した。
「おやっさんは、文句言ってましたよ」
 R‐0の整備班長、植木ことおやっさんは、元航空整備士である。よってR‐0専用輸送機とはいえ、飛行機であるイーグルがおざなりにされるのは許せないのであろう。
「整備の方は、ちゃんと出来てる?」
 2階にある、作戦本部室へと続く階段に手をかけながら、明美助教授が聞く。
「ぼちぼちですね」
 鼻を掻きながら、若い整備員は返した。
「R‐1がこっちに着いたのが昨日の深夜ですからね。まだ我々も何とも…一緒に制作者たちも来ましたが──」
「え?」
 階段を上がる足を止め、明美助教授は眉を寄せた。一緒に制作者たちも来た?
「どういうこと?」
 恐る恐る振り返り、聞く。
「いえ、ですから──あ。そうそう、シゲさんいつの間に退院したんですか?元気そうでなにより──」
「ええっ!?」
「あれ?」
 そんな話は聞いてないわと顔をしかめる明美助教授に、若い整備員も眉を寄せる。R‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲ──は、先日の病院からの逃亡(?)後、再入院を余儀なくされていたのである。しかし、
「ちょっとそれどういう──」
 聞き返そうとした明美助教授の言葉を遮るように、
「あ…おはようございます」
 不意に、階段の上からちょっとたどたどしい感じの彼女の言葉が降ってきたのであった。
「え?」
 眉を寄せ、振り返る明美助教授。その眼前で、にこりと笑ってぺこりと頭を下げる彼女。
「ベル!?」
 金色の髪の少女、ベル。
「どうしてこんな所に?──って、じゃあやっぱりシゲ君が!?」
 と、明美助教授は一気にまくし立てるように言うけれど、その速さの日本語にベルが対応しきれるはずもなく、彼女は曖昧に微笑んで首を傾げて見せた。
「何で退院したならしたって一言──」
 と、呟くようにして文句を言うけれど、彼女は何となくシゲが退院したことを、『教授たちが』自分に黙っていた訳が理解できた。
 ベルの手の中にあった、何本もの酒瓶を見て。
「奴ら…」
 ぴくぴくと動いてしまう眉を片手で押さえつつ、作戦本部室へと肩を怒らせて階段を上っていく明美助教授。
 その後ろ姿を見送りながら、ベルはぱちりと瞬き。
 半開きになっていたドアを、明美助教授は蹴るような勢いでがっと開けた。そして、部屋の中の予想通りの──いや、それ以上の──惨状に、思い切り苦虫を噛み潰す。
 名ばかりの来客用ソファに沈没している男ども。計四人。平田、道徳寺、春日井、そしてシゲ。
 散乱している缶と瓶。彼らのことをよく知っている明美助教授だから分かるのだが、きっとこれでも、ベルが一生懸命片づけた後なのだろう。
 明美助教授は、大きくため息を吐き出した。
 数秒後──
 ベルは階段の一番下で、上の方から聞こえてきた悲鳴のようなものに振り向いて、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。


「あー…何でこんなに体が痛いんだろう」
 と、ふざけたことを言いながら自分の体をさするシゲ。
「当たり前でしょ」
 目を伏せて、明美助教授はシゲの言葉にため息を吐き出しながら言う。
「ケガが治りきってないのに、お酒なんか飲むからです」
「しかし、今回の主役だったからな」
 さらりとそんなことを言ってのけるのは平田教授。自分の机について仕事──とは言っても、情報収集と称して週刊誌に目を通している訳なのだけれど──をする手を止めて、来客用ソファで寝転がるシゲに視線を走らせた。(注*10)
「センセイたちと一緒に、仮眠室で休んできたらどうだ?」
 正確には明美助教授の命令の下、道徳寺と春日井は──ここにいられても邪魔だから──仮眠室送りになったのである。
「いやぁ…そうもしていられませんよ」
 ひょいと自分の顔をのぞき込んだベルに軽く笑いかけ、シゲは続ける。
「やらなきゃならないことが、山積みになってるんですから」
 よいしょと、シゲはソファから身を起こす。
「たしかに。──R‐0は三十分物だしな(注*11)」
 呟いて、教授は再び週刊誌に視線を落とした。明美助教授が「低俗」と言って非難する『週刊民衆』のページをくくりながら、
「しかしアレだぞ」
 と、そこに書かれている記事──『村上内閣、黒い噂その10』──をぼんやりと眺めながらに言う。
「我々も、現状では置き去りだぞ」
 その記事に、一から順に視線を走らせて行くけれど、事実として教授が知っていることはわずかに三つしかない。まぁもちろん、低俗雑誌のゴシップと言ってしまえばそれまでの事なのだけれど──
「根も葉もない噂なら、それはそれでいいのかも知れんが…」
 椅子を軽くきしませ、教授はのそりと立ち上がった。首筋をさすりながら、窓の外に視線を走らせる。
 Nec本部の敷地の外。ここからでは相当な距離があるのだけれど、そこには報道陣の山ができていた。まるで、アスファルトの上に落ちたキャンディに群がるアリのように。
「相変わらずというかなんというか…ずいぶんと悪意に満ちた文章で…」
 教授の机の上にあった『週刊民衆』を手に取り、シゲも同じ記事を見て、仕方なしに苦笑いを浮かべて呟く。
「明美さんも読みますか?」
 と、自分の方をちらりと見た明美助教授の方へ、そのページを開いたまま『週刊民衆』を差し出すシゲ。
「ん…」
 明美助教授はちょっと戸惑うようにして眉を寄せたけれど、結局好奇心には打ち勝てず、「でも週刊誌でしょ」なんて言いながらもそれに手を伸ばした。
「あー…」
 喉を鳴らす教授。窓の外の報道陣の山を眺めながら、
「──しかし、なぜ我々が目の敵にされなければならんのだ?」
 ぽつりと呟いたけれど、その言葉は明美助教授のすっとんきょうな声にかき消された。
「何コレ!?(注*12)」


「今日発売の『民衆』ですけどね」
 学校まであと数百メートル。最後の曲がり角の手前で、そのバンはゆっくりと停止した。
 テレビPの取材用小型バン。中には遙と一也、そしてテレビPの取材スタッフたちが乗っている。
「もう見ましたか?」
 『週刊民衆』を手に、遙に向かって質問するのは新士。
「週刊誌が何か?」
 むすっとした顔のまま、遙は不機嫌そうに言う。
「やぁ、やっとまともな答えが返ってきた」
 と、新士は笑った。そうなのである。新士は学校に着くまでの間、遙にいろいろと質問をしてきていたのだが、どれも遙は「知らない」か、「ノーコメント」としか答えてくれなかったのである。
「これのですね…百…何ページだったかな?」
「遅刻しちゃうんですけど」
「ありました。146ページでした。これです。『村上内閣、黒い噂その10』」
「そんなもの知りません」
 つんと、目を伏せて唇を尖らせる遙。
 けれど新士は食い下がる。
「他人のことはどうか知りませんけれど、自分のことなら分かるでしょう?」
 新士は開いたそのページを、遙の手に押しつけた。
「噂、その9です」
 ちらりと、一也は遙の膝の上に置かれた週刊誌に視線を走らせた。あまり良くないとは思っているのだけれど、やはり好奇心にうち勝てるほど、彼も大人ではないのである。
「え…?」
 思わずその記事内容を目にして呟いてしまう一也。「あ…っ」と思って身を固くしたのだけれど、時すでに遅し。遙は彼のことを軽く睨みつけて、口許を曲げて見せた。
「どうなんです?その記事、事実かどうか?」
 新士が聞く。
「言いましたよね」
 と、遙は新士に微笑みかけて、再び一也の方に視線を走らせた。
「一也、ドア開けて。遅刻しちゃうわ」
「あ…う…うん」
「遙ちゃん…一言くらい、コメント下さいよ」
「言いましたよね。『質問にだって、答えたくないモノには答えないから』って」
 バンのドアを開け、一也が外へと出るのを確認してから、
「それからこの記事ですけど」
 シートの上に投げ出された『週刊民衆』。その146ページ。『村上内閣、黒い噂その10』の9番目を指さして、遙は言った。
「真実かどうか、私の方が聞きたいくらいですよ」
 押し殺してはいたけれど、その遙の言葉の裏には、怒りとも悔しさともとれる強い感情が押し込められていた。
「あ…」
 遙に向かって何かを言おうとした新士の眼前で、バンのドアがたたきつけられるように閉められる。
 巻き起こった風に、『週刊民衆』の146ページは閉じられた。『村上内閣、黒い噂その10』の9番目──
 『総理、政略結婚の噂』
 そのページが。


「おはよう」
 自分の席に鞄を置きながら、詩織は笑顔を作って、隣の席の一也に向かって言った。
「あ…うん…」
 素っ気なく、返す一也。二、三度瞬きをして、あれと首を傾げる。
 一也はぼんやりとしたその頭で、何かを考えていたような気がしていた。けれど、詩織の言葉にその思考の全てをかき消されてしまい、何か大事なことだったような気がするのにと、眉を寄せて頭を掻いた。
「どうしたの?」
「…うん」
 頭を掻きながら、詩織の言葉に返す。
「何か…考えていたような気がするんだけど…何だったのかな」
 軽くため息を吐き出し、隣の席の詩織に向かって情けなく笑いかける一也。
「あ。ごめん。私のせいかな?」
「あ…いや。そんな事ないよ。忘れちゃう位なんだから、どうせ大したことじゃ──」
 一也は、軽く笑いながら言った。でも少し気にかかって、詩織から視線をそらし──たその時に、
「根本っ!」
 教室の後ろのドアから入ってきたクラスメイトの手にあった、『週刊民衆』を目に止めて叫んだ。
 ばっと椅子から立ち上がり、突然呼び止められて目を丸くしている根本に歩み寄りながら言う。
「それ。ちょっと読ませてくれない?ちょっと気になる記事が──」
「あ?ああ…別にいいけど」
 一也の勢いに押されながら、根本は右手に持っていた『週刊民衆』を一也に向かって差し出した。
「でも返してくれよ。今週号のグラビア、俺の好きなアイドルの──おい!吉田!聞いてるのかよ!」
 はっきり言えば聞いちゃいない。
 一也は根本の手から『週刊民衆』を奪うようにして受け取ると、「サンキュ」と片手で会釈して、自分の席に戻った。
「…んだよ」
 根本がため息を吐き出す。
「どうしたの?」
 席についてページをくくる一也に向かって、詩織が聞く。
「うん」
 それに答えるのももどかしいといったように、一也は小さく喉を鳴らすと、目的のページ、146ページでその手を止めた。
「9番目…」
 ページを斜めに滑る一也の指。詩織はそれを目で追いながら、小さくそのページのタイトルを口にした。
「『村上内閣、黒い噂その10』?」
 一也の指が止まる。そして斜めに滑っていた指は、そこから、行をなぞって縦に動き出した。詩織も、それを目で追っていく。
「『総理、政略結婚の噂』?」
 一也に向かって聞くように、詩織は言葉を吐き出した。けれど、一也は彼女の言葉が聞こえているのかのいないないのか、記事の上を滑る指のペースを弛めない。
 詩織はちょっと身を乗り出させて、一也の指と、その記事を目で追った。
 『──先にもふれていることだが、村上総理が総理がになれた一番の理由は、義理の父にあたる、第一党元党首の村上 正次郎の影響であるところが大きい。彼自身が政治家として有能ではない。ということではないが、総理の器であるとは、年齢的に見ても言い難い。ではなぜ、彼が党の有力者を押しのけて総理になれたのか。答えはつまりそういうことなのである。これを裏付ける事実として──』
 詩織は視線をあげ、一也の顔を上目遣いに見た。
 真剣な眼差しで、活字を追う一也。
 強く歯を噛みしめる彼の口許から、歯の擦れ合うような、かすかな音が響いた。
 『──これを裏付ける事実として、総理と光世夫人との間に生まれた一人娘、『遙』の存在があるのである。』


 Nec本部の敷地の外。
 そこには報道陣の山ができていた。
「インタビューさせてくださいよ!」
「会見とか、そういうことはしないんですか!?」
「税金払ってる民間人の立場から言わせてもらいますと、Necに使われている我々の血税は、どうも正しい使われ方をしているとは言い難いんですけどね!その辺の所はどうなっているんでしょう!?」
「答えてくださいよ!」
「んなこと言われても──」
 敷地を分けるために立てられたフェンス。その唯一の入口脇で、
「僕に聞かれたってわかりませんよ。押さないでください。ここから先は、立入禁止なんですから!」
 眉を寄せて返す青年。ちなみに、急遽たちんぼにさせられた彼は、Necの整備員の青年である。
 くそっ、やっぱりあの時チョキを出しておけば──
 彼は眉を寄せながら心の中でひとりごちた。
 Necを取り巻く報道陣の山。皆、目的はひとつである。日頃は視聴者も見向きもしない政治の話題も、ワイドショー的なネタがあがれは十分に数字が取れる。そして実際、ここにはそのワイドショー的なネタがごろごろと転がっていた。
「やれやれ、大変な盛況で」
 新士はバンから降りると、ふうと大きくため息を吐き出した。
「どうする?とりあえず撮っとくか?」
 新士に続いて降りてきたセンちゃんがデジタルカメラを手に聞いた。デジタルカメラといっても、一応三板式だ。生意気にもツァイスレンズなんて使っているので、描写性能も高い。(注*13)
「といっても、これだけじゃ心許ないか。片桐や、篠塚がこっちには取材に来てんだっけ?」
「ああ、6時ニュースの奴らと一緒にやってるはずだよ。俺はちょっと用があるから外すけどな。とりあえず、適当に撮っててくれよ」
 そう言って、新士は板の中からファイルを取りだした。遙に見せていた、あの例のファイルである。
 センちゃんはそれを見て、目を丸くしながら聞いた。
「おい、まさかお前、本当にそのファイルの中身、リークさせる気じゃないだろうな?」
「悪くないねぇ」
 と、新士は口許を弛ませる。けれど、センちゃんはそれを見てほっとした。新士の顔は、そんなことをするときのものとは違っていたからだ。新士はファイルをひょいと持ち上げながら、
「これから、ちょいと会いに行く昔からの友達がいるんだ」
 そう言って笑い、歩き出した。


 Nec本部が遠くに見える。報道陣達の黒山が、遠くに見える。
 しかし、この場所を知るものは少なかった。ここは本部のすべてが見通せる場所ではあったのだけれども。
 新士はファイルで頭を掻きながら、一目で彼のものとわかる車に歩み寄っていった。
「久しぶりだな」
 新士は言う。
 Mitsubishi GTOのボンネットの上に寝転がっていた男に向かって。
「ああ、先輩。お久しぶりで」
 ボンネットの上に身を投げ出すように寝転がっていた彼は、ゆっくりと起きあがり、軽く口許を弛ませながら返した。くわえていた煙草の灰を草むらの方へはたき落とし、
「お呼びだてして申し訳ありません」
 なんて、一瞬で社交辞令とわかるように言う。
「あいかわらずだな、お前」
「僕は、前からそういう人間ですから」
 言いながら、新士は彼の差し出した煙草を一本取った。すかさず彼はポケットからバンジョーを取りだし、それに火をつける。
「Necで仕事?」
 と言いながら火をつけて、新士は車に寄りかかり、こんこんと軽くボンネットを叩きながら聞き返す。
「まぁ、そんな感じですか。といっても、新士さん、僕の情報もいくらかは知ってるんじゃないですか?」
「昨日電話もらった後に、ちょっと調べた程度には。なに、俺に再就職の斡旋でもしてくれって?」
「いいですねぇ、それ。僕、どーもこのままいくと失業しそうなんで──」
「それはもちろんNecが解体されちゃうかもって言う意味で?」
「それもアリって事で」
「孤立したNecの今後──か?」
「ま、そんな感じですか」
 沈黙の間に、風がながれた。夏の匂いが、少しずつ弱くなってきていた。微かに、秋の香りがそこに乗っていた。
「僕、ここでずいぶん楽しくやってきたんですよ」
 煙草で、眼前に見える巨大なハンガーを指しながら彼は言う。
「もしかしたら、新士さんと組んでいろいろやってた時よりも」
「俺も、ここにゃずいぶん楽しませてもらってるものなぁ」
 新士は笑った。右手の人差し指と中指で挟んだ煙草を空に泳がせながら。
「もしかしたら、お前と組んでいろいろやっていたときよりも」
「一連の報道──リークしているのは?」
「さて。どうも政府の上の方の人間が勝手にやってるらしいね。派閥争いって奴だろ?」
「僕ら、底辺の人間にゃ、関係のないことですかね」
「俺はてっきり、お前が一枚噛んでいるのかと思ってたんだけどな」
「僕だって、新士さんが一枚噛んでいると思ってたんですけどね」
「遙ちゃん?」
「どうなんですか?」
「──時間の問題と、言えなくもないな。俺達が掴みかけたものを、誰かが掴む日も、そう遠くない未来かも知れない」
「それをネタに、村上総理は追いつめられる?」
「だろうな、やっぱり。──俺達がやろうとしたように」
「なんか──なまじ知ってるだけに、辛いっすね。彼女、悪い子じゃないのに」
「そうは言っても、俺達は昔、彼女を責めた人間じゃない。仕事とはいえ」
 新士は言いながら短くなった煙草を真上に向かってはじき飛ばした。赤い火の粉が宙に散る。
 そう言えば、あれからもうどれだけ経つっけ?あれは、彼女が中学に入ろうかっていう頃だったか──
「やめちゃえば?お前も」
 新士は呟く。
「なんなら、斡旋するぜ。再就職」
「そうですねぇ。それも悪くないですね」
 新士に続いて、彼も煙草を宙に向かってはじき飛ばした。
「僕も、答えを見つけられそうだし」
 青い空に、ジャンボジェット機が爆音と共に登っていくところだった。


 退屈な授業。
 遙は机に肘を付いて、目をつぶっていた。今日の深夜にやる番組をちゃんとオンタイムで見られるようにと、居眠りでもしようと思っていたのである。
 けれど、そうして目をつぶって、もう20分以上も無駄に時間を過ごしている。
 眠れない。
 眠くない訳じゃない。
 思考が、止まってくれないのだ。
 もぞもぞと動いて、顎の治まりを正す。けれど、やはり無駄だったようだ。
 止まらない思考が、頭の中を駆けめぐる。
 いつかは、こうなると心のどこかでわかっていた。だから、一連のスキャンダルにも興味のないフリをして、何の情報も入れないつもりでいたのだし、一也にも、いつもと変わらないように接しているつもりだった。彼は、見抜いていたかも知れないけれど──
「政治なんて、自分とは違う世界で動いていることだもん」
 なんて、普通の女子高生じみたことを言って、友達と笑いあう。けれど、本当にそうであるはずがない。
 その政治を動かしているのは、自分の父で、渦中の人で、もしかしたら、自分の存在を利用しているだけの人なのかも知れないのだから。
 考えたくないこと。思い出したくないことが、頭の中を駆けめぐる。
 中学の頃の自分──無神経な周りの大人の発言──傷ついて、信じたくない。けど──ただパパから逃げたいだけの自分──留学を決めた出来事──真実を知るのが怖くて。
 いやだ…私、なにを今更になって…
 きゅっと眉を寄せて、遙は無理矢理にでも眠りにつこうと試みた。だけれど、結局それは無駄に終わりそうな気配を見せていた。
 耳元で誰かがささやく声。誰もいるわけじゃないのに。
 けれど、聞こえてくる声。
 正義と言う名の非難と嘲笑。それを盾にした、マスメディア。
 知りたくない。聞きたくない。けど──気になって──でも、聞こえてくるのはやっぱり嫌なことばかり。
 両手で顔を覆い、強く押さえて無理矢理にでも考えを止めようとする。けれど、やはりそれは止まってはくれない。電車の中で一度聞いただけの男の台詞まで、克明に思い出されて──
「総理って、一人娘がいるらしいじゃん」
 ただ耳を塞ぐ。聞きたくない。思い出したくない。
「知ってる知ってる!アレだろ」
 知った風な口──私だって知りたくなんてなかったのに。
 けど、それが真実なのかも──
「『政略結婚』のための『既成事実』っていう奴」


「ねぇ、お母さん…」
 一度だけ、聞いたことがある。
 中学の時──政治とか、男と女の間のことか、いろんな事もわかるようになって、それで──怖かったけど、一度だけ聞いたことがある。
「その…私って、お父さんにもお母さんにも、望まれて生まれてきたんだよね?」
 言葉として答えはくれなかったけれど、ただ微笑んで、ママは私に笑いかけてくれた。
「お母さんは、お父さんのことが好きで、結婚したんだよね?」
 聞き返す私を、ちょっと可笑しそうに見つめて笑う。
「そうよ。多分。けど、昔の事なんて忘れちゃったわ」
「お父さんも、そうだよね?」
 私の質問に、困ったように小さくため息を吐き出して、
「遙、それはお父さんに聞かなきゃ、わからないじゃない」
 そう言って、笑ったママ。
 そう──それはそうだけど──
 聞けるわけない。聞くのが怖い。
 目を伏せた私。ママの声が、かすかに鼓膜を揺らす──
「いい?遙。遙にはまだわからないかも知れないけど、『好き』とか『愛している』って言うのはね──」


 夢うつつの所を、遙はポケットの中で震えたベルに、現実に引き戻された。
 スカートの中で震えるポケットベルを、少し震える手で止めて引き出す。
 『エネミー襲来』
 メッセージに視線を走らせてそれを確認すると、遙は机の脇にかかっている鞄に手を伸ばし、大きく息を吸い込む勢いに立ち上がった。
 とにかく、今は何も考えないように──
 目頭にあった目ヤニのような物をぬぐい取り、いつものように、教室を出ることを先生に告げる。
 前の席の睦美が、「がんばって」と、細く微笑みながら遙に声をかけた。


 補助モニターが鳴らす電子音。白み始めるモニター。
 一也はゆっくりと目を開けると、座り慣れたR‐0のシートと同じR‐1のシートに深く体を埋めて、マニュピレーションレバーを握り直した。
 ごくんと、コックピットが揺れる。
「聞こえるかね一也君?」
「はい、大丈夫です」
 教授の声を聞きながら、モニターの向こう──ゆっくりと足下の方へ流れていく、ハンガーの鉄骨むき出しの天井──を見つめながら、一也は返す。
「エネミーは現在浦賀水道を北上中だ」
 ぴぽっと、電子音と共に補助モニターに映る地図。エネミー進路とその予想経路だ。
「ちなみに!」
 と、シゲの声がインカムから元気に割り込んでくる。
「R‐1になってシステム負担が軽くなったので、補助モニターの映像は32ビット、True colorになっているぞ!」
「で。僕はどうすれば?」
「ああっ!せっかく解像度も上げたのに!」
「毎度のことだが、迎撃ポイントまで行ってもらって、ちゃっちゃと片づけてきてもらいたい」
 簡単そうに──と、一也は苦笑いをその顔に浮かべて見せた。確かにエネミーを倒す事自体は、このR‐1にとっては些細なことであろう。だが、問題はそのプロセスである。
 モニターに映る青空。秋の高い空にR‐1のアクチュエーター音を吸い込ませながら、一也はゆっくりとその上体を起こした。
「聞こえるー?」
 遙の声。モニターに彼女の姿を探すと、R‐1の足下で、彼女はインカムに手をかけて微笑んでいた。
「うん。なに?」
「はっきり言いましょう」
 と、口許を曲げて遙は言う。
「世間のNecに対する最近の態度は、とてもとても冷たいです。このあとに続く言葉、分かるわね?」
「…わかってるよ」
 大地に立つR‐1。一也はそのコックピットの中で、唇を尖らせて、言った。
「物を壊すなって言うんだろ」
「わかっていればよろしい。んで、その破壊の象徴でもある『ツイン・テラ・ランチャー』は、撃てば確実に非難を響かせそうだから、取り外したから」
 『ツイン・テラ・ランチャー』。正式名称──やめよう(注*14)──R‐1の持つ、地上最強の武器である。その威力たるや、光軸を中心に150メートルもエネルギー帯を発生させ、眼前にあるものすべてを原子の塵へと変換する。のだから、始末に負えない。
「あれさえあれば一発だったんだが」
 と、教授。その言葉に、
「教授?」
 明美助教授が睨むような視線を送る。
 こほむと教授は咳払い。
「だけどさぁ…」
 と、一也は困ったように眉間にしわを寄せ、Nec本部の敷地外で黒山となっている報道陣に視線を走らせた。そんなこと言ったって…
「それはともかくとして──非難を生まないようにするんだったら、もっといい移動手段とかはないわけ?」
「ないの。R‐1はイーグルに対応していないんだもの。移動手段は、専用ヘリを使うかもしくは──」
 遙も報道陣の山を見て、文句が確実に出るとわかっていながらも、仕方なしに言う。
「走るしかないのよ」


 扇島迎撃ポイントに着く頃には、報道陣の数も二倍以上に増え、頭上に飛び交うヘリコプターのローター音と非難混じりの──というか、非難の──民間人の声は、四倍以上にも膨れ上がっていた。
「みんな、期待してるわよ」
 なんて、遙は苦笑する。何を──かは、もちろん具体的に触れたりはしない。
「どうして、僕がこんな風に言われなきゃいけないんだよ」
 モニターに黒山の人だかりと無数のヘリコプターを見つめて、一人ごちる一也。
「みんなのためにと思って、やってるのに」
 遙かな海上に向け、H・G・B・ライフルを構えるR‐1。
「世間の風は、冷たい物だ」
 と、教授の声がインカムから響いてきた。しんみりと、身をもって経験してきたかのようなその声。(注*15)
「教授?」
「なんだ?」
 補助モニターに映る情報をぼうっと眺めながら、一也はインカム越しに彼に聞いてみた。もちろん、まともな答えが返ってくる期待など、はなっからしちゃいなかったのだが、
「これだけの非難を受けて──僕たちのやっていることは、間違ってるんですか?」
「ひとつだけ言えることがある」
 それにしても、彼の返した答えは、あまりにも彼らしすぎた。
「そんな事をいちいち考えていたら、今のご時世、巨大ロボットに乗って戦ったりなんて出来やしない」
「──…」
 ただため息を吐き出す一也。
「FCS、ロックします!」
 ちょっと自棄になったように、彼はインカムに向かって叫んでみせた。


 R‐1の指がトリガーを引き絞ると、その銃口から一条の閃光が放たれ、海を割った。
 R‐0の物よりも一回りほど大きく、その威力をも増しているH・G・B・ライフル。海水を蒸発させながら、エネミーの頭を打ち抜く──かに見えた。
 一也が舌を打つ。
 遙がため息を吐く。
 教授たち──マッドサイエンティストどもが不敵に微笑むと、人々の中から非難の声が、たちまちのうちに巻き起こった。
「超硬化薄膜か!?」
 マニュピレーションレバーを握り直して叫ぶ一也。
 モニターの向こう、H・G・B・ライフルに打たれたはずのエネミーが、海を割り、R‐1へと咆哮をあげながら肉薄して来ていた。
 耳まで裂けた口を開き、右腕を振り上げる。
 一也が舌打ち混じりにエネミーを睨みつけると、R‐1の両足に搭載されたミサイルポッドから、片方7発、計14発のミサイルが、一也の意志とはあまり関係なく発射された。
「あっ…!」
 と、思って足を下げるけれど、時すでに遅し。計14発のミサイルは、次々とR‐1に向かって突進してくるエネミーに向かって襲いかかっていった。海面に、巨大な水柱を立ち登らせて。
「教授っ!今ミサイルが勝手に…」
「勝手ではない!」
 答えたのは教授ではなく、R‐1を作ったマッドサイエンティスト、春日井。
「R‐1の両足に搭載されているミサイルポッドは、まず一発目に打たなければならない武器なのだ!なぜなら、それが搭載されたままになっていると、攻撃を受けた際に誘爆する恐れがあるッ!!」
「なっ…だったらつけなきゃいいじゃないですか!」
 意見する一也のコックピットで、電子音が鳴る。両足のミサイルポッドが爆発ボルトで解放され、地に落ちたのを告げる電子音だ。
「民間人批判、プラス10」
 遙が冷めた声で言う。
「僕のせいじゃないっ!」
「だが、それが付いていないとデザイン的にR‐1は上半身ばかりが大きくなってしまい、あまり格好良くなくなってしまうのだ!大体、R‐1の上半身には放熱板の翼もあるし、ビームバズーカの──」
「うるさいっ!」
 明美助教授の一喝がインカムから響く。
「一也、来るわよ!」
 重なった遙の声が、一也に危機を告げた。
 振り上げられたエネミーの右手が眼前に迫る。反射的に足を引いてそれをかわそうとする一也。左手に装備されたシールドをかざし、四門の頭部バルカンをエネミーに向けて乱射する。
 もちろんそんな事をすれば、
「ちょっと!一也っ!!」
「え…っ?」
 民間人批判、さらに倍。(注*16)
「だっ…」
 一瞬の躊躇に、エネミーの右手がR‐1を捉えた。喉元をがしりと掴み、そのまま巨体を木偶人形のように扇島工場群へと押しつける。
「ああああ…」
 まともな神経の遙が──反論が来そうなので、Necの中では、としておくが──惨状から目を背けて「はぁ」と深くため息を吐き出した。
「かーずやぁ…」
「わかってるよっ!」
「わかってないわよ…もぉ…」
「うるさいなっ!!」
 文句と共に、倒壊した工場群が巻き起こした土煙の中から、二つの閃光がエネミーに向かって襲いかかった。R‐1の両肩パッドに搭載された、ツインピコランチャーの閃光である。そしてそれに、マシンキャノンの爆音が続く。
 エネミーが威嚇するような咆哮をあげながら飛び退くと、土煙の中から立ち上がったR‐1は、エネミーを見据えたまま、手にしていたビームライフルをコンクリートの大地に突き刺した。
「何で僕たちばっかりがこんな目にあわなきゃいけないんだよ」
 歯を噛みしめて、モニターの向こうのエネミーを睨みつける一也。
「僕だって、一生懸命やってるんだ。お姉ちゃんだって。誰だって──遙だって。なのに、お前ら見てるだけのくせに──そのくせに──」
 ちらりと視線を右モニターに走らせ、一也は舌を打った。そこに映った、腕を振り上げて何かを言っている黒山に。
「だったら──お前らだけで何とかしろてみせろよ」
 右足を引くR‐1。右腕のプログハングの先端が割れ、そこから光の剣が生み出される。
「くそったれッ!!」
 FCS Lock.──R‐1が腕を振るうと、下腕部を滑ったプログハングが自らの意志に回転し、エネミーに向かって襲いかかった。
 光の壁──エネミーの『超硬化薄膜』が、プログハングの一撃に閃光を生み出して弾け飛ぶ。
 響くエネミーの咆哮。
 一也もそれに向かって吼えかかると、左腕のシールドの拘束を解き、身ひとつでエネミーに向かって肉薄した。
 エネミーが腕を振り上げる。肩パッドの中のビームサーベルに手を伸ばすR‐1。
 叫びながら、一也は右腕をふるった。走り抜けた閃光が、エネミーの振り上げた右腕を切りとばす。海に落ちる腕と、飛び散る気味の悪い黄色い体液。広がる油のようなそれを視界に入れることをせず、一也は、右手のビームサーベルをエネミーの体に突き立てて、今度は左手で右肩パッドのサーベルを手に取った。
 身動きもままならないエネミーの身体に、再び左手に握られた剣を突き立てる。溢れ出す体液が、R‐1の手を汚し、アスファルトの地面に散った。
 くずおれそうになるエネミーから離れ、再びR‐1は右手を肩パッドの中へと伸ばす。
 腕を振るうことによって生み出された閃光の剣で、最後の一撃を、R‐1は袈裟懸けに振り下ろした。


 光と共に、エネミーの体液が散る。
 ゆっくりと倒れていった巨体は、アスファルトの上で自重につぶれ、辺りに肉片を飛び散らせて、沈黙した。


 R‐1のアクチュエーター音と、数機のヘリコプターのローター音だけが辺りに響く。
 その一瞬前には、人々の息を飲む音があった。
 そして今は、ただ沈黙だけがそこにあった。
 飛び散った肉片と、薄気味悪い体液。
 現実を、目の当たりにした人々の沈黙だけが、そこに満ちていた。









       2

「一也知りません?」
 Nec本部。ハンガーの中。
 エネミーを殲滅し、そのせいで汚れたR‐1のボディを洗い終えた整備員たちに向かって、遙は聞いた。
「さぁ?見かけなかったけどなぁ」
 整備員の一人が呟く。ハンガー内の戻される、R‐1を乗せたキャリアの音に紛れて。
「おい!誰か、一也君見かけなかったか!?」
「あ。いいですよそんな…別に何か急ぎの用があるって訳でもないんだし」
 声を張り上げて他の整備員たちにも聞くその整備員に、遙は身を引きながら返した。本当のことを言うと、あんまり一也とは会いたくないのだ。
 結局、一也は知ってしまったわけだし…
「知らないならいいんです。失礼しました」
 と、笑う遙。
 ただ──ただ本部に帰ってきた一也と、一言の言葉も交わしていないのが気になっただけなのだ。
 R‐1から降りた一也は、ちょっと難しそうな顔をしていて──自分に影があった事も確かだけれど、何となく声をかけづらかったのだ。
 本当は、こんなんじゃいけないのに…
「ああ。一也君なら──」
 作戦本部室へと続く階段を上がろうとした遙を、別の整備員の声が止める。
「一也君ならもう帰ったよ」
「え?そうなんですか?」
 振り返り、聞き返す遙。
「ああ。なんか、とことこと帰っていったよ。『おつかれさま』って声をかけたんだけどねぇ…聞こえなかったのかなぁ」
 顎を撫でながら、ちょうど高校生くらいの息子を持っていそうな整備員のおじさんは、難しそうな顔をして首を傾げた。
「そうですか…」
 呟いて、
「ありがとうございます」
 遙は軽く微笑みを返すと、作戦本部室へと続く鉄の階段を、ローファーの踵で蹴って駆け上がった。
 響く、軽快な音。
 だけど、本当はそのことを知ってしまって、少し家に帰りたくなくなっていた彼女の、強がりのような物がその音の中に混ざっていたのには、結局誰も気づかなかった。
 もちろん、彼女自身も。


 秋の日は、瞬く間に暮れていく。
 一也はぼうっと、窓の外の暮れなずむ街並みを眺めながら、何かを考えていたような気に捕われながら──きっと、何も考えていなかったのだろうけれど──小さくため息を吐き出した。
 ノイズ混じりに流れるアナウンス。ホームに入った電車の扉が圧力を解放すると、その扉はゆっくりと左右に開き、そこから車内にいた人間たちを吐き出していった。乗車していた、ほとんど全ての人間を──である。
 長く響く発車ベルのあと、再び扉が閉まり、電車は走り出す。居眠りをしていて乗り過ごしたらしき者の影以外、車内にはほとんど人影は見られなかった。
 けれど、終点はこの次の駅。
 新宿である。
 窓の外にぼうっと視線を走らせる一也。そこに映るのは、夕日に照らされた、高層ビルのない副都心。
 復旧作業が急ピッチで進んでいるという話は聞いている。現に、もうこうして新宿まで各路線は乗り入れを再開しているし、窓に映る巨大なクレーンも、最後の一仕事であろう、巨大な鉄骨をその腕で持ち上げて作業を続けている。
 アナウンスが流れた。本当に駅名を言っているのかどうかも疑わしいほどにノイズの乗った、間延びした声。
 別に、何か深い理由があったわけでもないのだけれど、一也は自然とこの都市に足を向けていた。
 詳しくは知らないけれど──と言うより、知りたくなかった──新宿に直接降下したエネミーによる被害は、死者行方不明者千数百名とまで言われていた。(注*17)
 もちろん、それはエネミーが降下した際の被害であって、自分に直接の関係があるわけではないのだけれど──
 電車がホームに滑り込む。
 仮設と言っても過言ではない、薄い板きれでできたホーム。
 そっと、彼を促すように開く扉。
 一也はごくりと唾を飲んで、そのホームに降り立った。
 そして、辺りを見回し、ただ何も言えずにその場に佇んでいた。


 非常階段は、当たり前のことだけれど外にあって、普段は全く使われる事のないものである。
 だから、一人でぼうっとするのにここよりいい所はなかった。もちろん、空港のすぐ隣なのだから、それなりの轟音は覚悟しなければならないのだけれど。
 遙はぼうっと、非常階段に腰を下ろして滑走路を眺めていた。もう、何機の飛行機があそこから飛び立っていっただろう。
 暮れゆく空。
 いい加減帰らないと、一也も心配するだろうな…とは思っているのだけれど、重い腰はそこに根を張ったように上がらない。
 不意に、遙は非常階段を上がってくる靴音に身を強ばらせた。誰?と思って階段の下へ視線を走らせると、
「何してるの?こんなところで」
 まだ火のついていない煙草をくわえて、自称ルポライター小沢 直樹が、軽く微笑みながら階段を上がってきた。
「別に…何も。小沢さんこそどうしたんですか?」
「本部内は──」
 笑って言いながら、煙草に火をつけようとして、
「失礼」
 と、遙の顔をのぞき込んで聞く。
「煙草を吸ってもよろしいですか?お嬢さん」
「ダメって言ったら?」
「そりゃ…仕方ない」
 くわえ煙草で口を曲げる小沢。遙は軽くため息を吐き出して、言った。
「いいですよ。どうぞ」
「失礼」
 と、小沢は明らかな喜びの笑顔をそこに見せて、煙草に火をつけ、深く煙を吸い込んだ。
「小沢さん…今日はどうしたんですか?」
「ん?」
 空に溶けていく煙草の煙と、その空へと登っていく巨大な飛行機。
 夕明かりに照らされた鉄の巨体を眺めながら、小沢は軽く微笑んだ。
「一也君に会おうと思って家に電話したんだけどね…いなかったから本部かと思ったんだけど…」
「あ…一也、家にいないんですか?」
「ああ…」
 小沢は煙草を口にくわえ、自分も非常階段に──遙の座っている段よりも下に──腰を下ろして言った。ちょっと、勘ぐったような微笑みをそこに浮かべながら。
「なんかあったんだ?」
「…なにか?」
 遙は小沢から目をそらし、曖昧に微笑んでみせる。
「どうでしょう?」


 一也はゆっくりと、石の階段に腰を下ろした。
 崩れた地下街に、弱く光が射し込んでいる。その光の中で踊る、小さな埃たち。
 一也はただため息を吐き出した。
 新宿の街は、急ピッチで再開発が進んでいる。けれど、やはりそれはこの街の綺麗な一面でしかなかった。思っていたとおり、この街にも暗い、世俗的な言葉で言うなら汚い部分が、まだまだたくさん残っていた。
 段ボールで造られた家。そしてそこに住む人々。
 誰も目を向けようとしない一面。だけれどこの国の、一部。
 一也は、その家々の中に、主のない家も何軒か見つけていた。そしてそこの前に立てかけられた誰かの書いたボードと、ワンカップのお酒。静かに煙を立ち上らせる、細い線香も、見たくはなかったけれど、その目に止めてしまっていた。
 ため息と共に、問いただす。
 僕は──R‐0に乗って戦って──どうしてだろう──僕は何がしたかったんだろう──
 ここにいる彼らの全てがそうだとは思わないけれど、このうちの数パーセントは、エネミーの被害による難民に間違いなかった。つまり、自分が護りきれなかった人達に、間違いなかった。
 耳に届く声。R‐1の中で聞いた、人々の声。あの人達の言っていることは間違ってない。じゃあ──僕のしていることは?
 僕は──どうして──誰にも傷ついてなんてほしくなかったのに──だけど結局はこの人たちも──お姉ちゃんと同じように──護りきれなくて──
 自分は戦っている。頑張って、力一杯。みんなのために。みんなは──お姉ちゃんや教授、明美さんにシゲさん、そして遙は僕を支えてくれる。
 だけど、僕たちのしていることは──
 顔を上げると、再開発の進む街並みの向こうに、赤く照らされた巨大なビル──新宿新都庁ビル──が無傷でそこにそびえ立っていた。
 二○○メートル以上も頭上から、一也たちの住む地上を傍観するように。
「この国──誰かが傷ついてまで、本当に護るべき価値なんてあるのかな」
 一也は、小さく呟いて唇を噛みしめた。


「小沢さん、今日発売の『週刊民衆』見ましたか?」
 どうしてだろう…
 沈黙に堪えきれなかったわけでもないのに、遙は彼に聞いていた。本当はそんな話、したくなんてないのに。
「週刊誌は、自分のお金じゃ買わないから」
 小沢は言う。けれど、彼女には振り向かず、紫色の空に青い煙を吐き出すだけ。
 遙は小さくうなずき、続けた。いちいち記事の内容を、彼に教える必要はないとわかったからだ。
「小沢さんは、どう思いますか?」
「何が?」
 彼は遙の言葉から逃げる。
「知ってるくせに」
 けれど、遙は笑いながら、小沢の背中をつま先で軽く蹴った。その言葉はカマかけでもあったのだけれど、彼は、簡単に引っかった──というか、引っかかってくれた。
「僕が、『そうだ』って言ったら、遙ちゃんはそれを信じるの?」
「それが本当なら」
 躊躇せず、遙は答えた。はっきり言って、自分でも驚いたのだけれど。
 小沢は何かを考えるかのような沈黙を見せた。
 煙草の煙が、空に溶けていく。
「そうだな」
 呟く小沢。滑走路を滑る、飛行機のジェットエンジンの爆音がそれに重なる。
「総理は確かにいろいろとやってきたことに間違いはない。確証はないけれど──もしかしたら、それも事実なのかも知れない」
 途中から、その言葉は遙の耳には届かなかった。爆音にかき消された、小沢の小さな声。別に聞きたくない答えであったから、それはそれで良かったのかも知れないのだけれど。
「だけど」
 轟音に紛れながら、小沢は続ける。
「今の僕はあの人のやってきたことを悪いことだとは思わない。あの人の知りたがっているモノを、僕も知りたいからね」
「パパの…知りたがっているモノ?」
 聞き返した遙の声は彼に届かなかったのか、小沢はただ煙草を夕闇の迫る空に燻らせた。


「難しい質問だなァ」
 突然背後からした声に、一也は目を丸くして振り向いた。
 しかし驚きを隠せない彼をよそに、その言葉を吐き出した老人は、軽く微笑みながら一也の脇に腰を下ろす。
「護るべき価値があるか──ないか」
 と、一也の台詞を繰り返し、老人は数秒前まで一也がしていたのと同じように、巨大な高層ビルへと視線を走らせた。
「どうなんだろうなァ…」
 呟く老人を見つめながら、眉を寄せる一也。
 老人は、この段ボール街に住人に間違いなかった。安物の服に、コンビニのビニール袋をぶら下げて──これから『帰宅』するところなのだろうか。
「あの…」
 一也が声をかけると、老人は「ああそうだ」とでも言わんばかりに驚いて、彼に視線を戻した。
「護るべき価値があるかないかだったっけか?」
「いえ…別に…その話じゃ…」
「そうだなァ…結局は──」
 一也の声が小さかったせいもあるのだけれど、老人は、かすかな微笑みをそこに浮かべながら、呟いた。
「今も昔も、この国は変わっとらんという訳だよ」
「ない──っていうことですか?」
 一也は聞き返していた。顔を上げ、高層ビルへと視線を戻す老人に向かって。
「どうかなァ…」
 深い、年輪のような皺が刻まれた顔をゆるめ、老人は続ける。
「結局の所、私にもわからないのだがね」
 そう前置きして、老人は言った。
「昔から、この国は同じ事を繰り返しているだけなんだろうなァ…傍観と、正義という名の非難と中傷。それを繰り返し、人民は、いつか自分自身の手でこの国を変えることができるということすら、忘れていったんだろうなァ」
「護るべき価値は──ない?」
「過去にも、この国を変えようとした人はたくさんいたけどなァ…少年、君は全共闘なんて知っている──訳がないな」
 答えないでいる一也を見て、老人は肯定の意と解したのだろう。軽く微笑んで、
「結局、この国は変わらなかったんだろうなァ」
 ため息混じりに、言葉を途切れさせた。
「この国は、変わらない──いや、変われないんだろうなァ」
 老人は、ビルを見つめたまま、かすかに微笑んだ。
「気づいてはいるけれど、変わらない。変われない。昔からの慣習で、傍観を続けている。──君も私も──変える方法を気づいてはいるけれど、こうして遠くで呟いているばかり」
 一也は、老人の視線の先を追った。黒く塗りつぶされていく空にそびえ立つ、光の塔。
 老人は笑った。そして、一也の背中に向かって、言った。
「闘いたくなくなったかね?──R‐0に乗って」


「小沢さん」
「ん?」
 ぼうっと滑走路の飛行機を眺めていただけだと思っていた遙が、突然にぼそりと呟いたので、小沢はおおいに驚いた。くわえていた煙草の灰が、ぽとりと靴の上に落ちそうになったことも、おおいに驚いた原因のひとつではあったのだけれど。
「なにか?」
 振り向く小沢。その先にいた遙がじっと自分のことを見ていたので、ちょっと気後れして身を引く。
「な…なに?」
「小沢さんて、結局何者なんですか?」
 じっと彼の目を見て言う遙。
「僕?僕はほら──」
 と、事も無げに、
「ルポライター」
 なんて言って笑う。
 遙ははぁとため息を吐き出すと、小沢のことを軽く睨みつけた。
「いい加減、通じない嘘はやめませんか?ただのお人好し…って訳でもなさそうだし」
「んじゃ、香奈さんの恋人かな?」
「その前の事を言っているんです。小沢さん、BSSのことを探っていたんでしょ?一体、何のために?理由があるんでしょ?」
「理由なんかないよ」
 小沢は楽しそうに笑った。だけれど、それが強がりからくるものだなということくらい、遙には簡単に理解できた。
「それが仕事だから。単純に。依頼されたから」
「諜報員?」
「それはちょっと違う」
 小沢は躊躇するように口を曲げて顎を撫でると、
「けど、まぁそれに近いモンかな?」
 自分でもよくわからないと言うように、首を傾げて答えて見せた。
「要するに、内偵代行業みたいな物かな?」
 短くなった煙草を非常階段でもみ消し、続ける。
「大企業に政治家のフトコロ。いろんなトコに潜り込んで、いろんなネタを失敬する」
「そして売る?」
「そこまでは僕は知らない。それはボスの仕事。僕らがするのは与えられた仕事をこなし、必要な資料を提出する。ただ、それだけ」
「ずいぶんなお仕事なんですね」
 軽く呟く遙。一瞬だけ彼女のことを視界に入れて、小沢は笑う。
「でも僕は、自分を善人だと思った事なんて一度もないよ。だから、それほど悪人というわけでもないんじゃないかな?」
 なんて言って、Yシャツのポケットから煙草の箱を取り出す。
「小沢さん?ひとつ、知りたいことがあるんですけど」
 呟くようにして聞く遙から視線を逸らし、小沢は新しい煙草をくわえた。ポケットからバンジョーを取り出し、
「僕のネタが欲しいなら、ボスに通すか、それ相応の物を出さないとね。いつも自分で言ってるでしょ。世の中はギブアンドテイクって」
 と、笑いながらそれに火をつけた。遙はその小沢の横顔に向かって、一瞬だけ考えて、
「じゃ、私を払う」
 なんて事を彼女が真顔で言ったモンだから、彼は思わずせき込んだ。
「そっ…そんな物もらえないって!大体ねぇ──」
「え?だって、現役女子高生なのに?何なら、この制服サービスもつけて──」
「あのねぇ!」
「あ。でも香奈さんにばれたら、フラれちゃいますもんね」
 なんて言って、にやりと笑う遙を咳払いで制し、小沢は返した。
「いいよ。何でも答えるよ。君と僕の仲だ」
「別に、そんな仲になった覚えはないですけど…」
「たとえだよ。で。何?」
 と、真顔に煙草を飲む。
 遙はその彼の目を見て──言えるはずもなく、視線を落とし、呟くような声でぼそりと呟くようにして聞いた。
「小沢さんは結局、私が──つまり、本当のことは知らないんですか?」
「つまり?」
 意地悪く、聞き返す小沢。下唇を噛んで何も言葉を返さない遙に向かってため息を吐き出し、言う。
「さっきも言ったように、遙ちゃんは僕の言葉なんかを信じるの?」
「知っているんでしょ?」
 うつむいてはいたけれど、問いつめるような遙の口調。
「だって私、小沢さんと昔どこかで会ったことあるような気がするもの」
「よくある顔だもの。気のせいだろう」
「自分でそう思ってなーい」
 と、遙はつま先で小沢の背中を蹴った。むせる小沢。遙はちょっとだけ、笑った。きっと、彼なりの気遣いなんだ。
 そして、小沢さんはきっと私の質問には答えたくないんだ。きっと会ったことがあるから。きっと、それは私が中学生くらいの時。私が留学を決めた頃──日本を、パパの元を、私が離れたいと思い始めた頃だから。
「ちょうど、中学生くらいの時──」
 遙は息を吸い込んで続ける。
「私とパパとママの間を探ってた人がいた。何でかはよく知らない。でもきっと、今回と同じようなことなんだろうな。もちろん、その前から私だって自分の存在のこと、薄々感づいてはいたんだけど──けど、その人達がもし真実を掴んだら──もしもそれを、私が知ることになったら──私はそれを知るのが嫌で──」
「その人達は真実を掴んだ?」
「私は知らない。けど、私はもう日本にいなかったから」
「その人達は真実を掴まなかった」
 遙のことを見ずに、小沢ははっきりという。
「──そう」
 遙は口許を弛ませた。結局小沢さんは、私の質問に答えてる。
「本当のことは、本人にしかわからないよ」
 小沢は一度、煙草を深く吸い込んだ。
「聞いてみたことはあるの?」
 聞き返す小沢に、遙は笑うようにして返す。
「あるわけないじゃないですか。そんなこと。──たとえ聞いたって、本当の事なんて言ってくれる訳がないじゃないですか」
「どうして?」
「どうしてって──そんな香奈さんみたいな事言わないで下さい」
 言いながら、遙は悔しそうに眉を寄せた。ぎゅっと拳を握りしめ、言葉が出なくなるのをなんとかこらえる。
「私だって…子供じゃないんだから…そういうこと…分からない訳じゃないんだから…」
 ぎゅっと握りしめられる遙の右手を視界の隅に入れ、小沢は顔を背けた。ため息と共に、青い煙を夜の帳の包む空へと吐き出し、口をつぐむ。
 二人の間の、震える空気。
 けれど、小沢は聞こえてくる全ての音を意識に止めることをせず、ただぼうっと、時の過ぎゆくに身を任せた。しばらくの間──その空気の動きが止まるまで。
「香奈さんなら、言うだろうな」
 そして、空気がその動きを止めたとき、彼は小さく呟いた。
「どうして、お父さんのことを信じてあげないのって」
 少しの沈黙のあと、同じように小さな声で、遙は答えた。
「…信じられないもの」
 その言葉に、小沢は思わず自嘲するように口を曲げた。胸を刺したその言葉は、以前に彼も言われたことのある言葉で、その言葉を言われた者の痛みを、彼は十分に知っていた。
 笑いながら頭を掻き、
「同じ事を、香奈さんに言われたことがある」
 ぽつりと呟く小沢。
「すごく、痛い言葉だ」
「でも…本当のことです。私は──」
「誰かのことを信じられるって、どういうことだと思う?」
 遙の言葉を、小沢の質問が遮った。言葉を飲み、答えを探す遙。けれど、彼女に答えが見つけられるはずもないのである。
 遙は、それを知らなかったのだから。
 小沢の声が、遙の鼓膜を揺らす──
「誰かのことを、信じることができるって言うのが、つまり──」


「僕のことを知っているんですか?」
 一也は老人の言葉に目を丸くした。
「前に──」
 老人は驚きを隠せない一也に、笑いかけながら続ける。
「前にTVで見たよ。こう見えても、記憶力だけはよくってなァ」
「じゃ…知ってて…」
「まぁ…そういうことになるのかなァ」
 軽く微笑みながら言う老人の言葉に、一也は目を背けた。その一也をちらりと見やり、
「だけれど、別に君に闘えと言っているわけじゃない事だけはわかって欲しいなァ」
 老人は、その微笑みを自嘲に変えて、言葉を小さく、けれど力強く吐き出した。
「こう見えたって、『戦争』ってモンは君よりよくよく知っているんだからなァ」
 老人の歳は七○過ぎと言ったところだろう。半世紀以上の歴史を生きているこの老人が、半世紀前の戦争のことを、知らないはずがない。それくらい、今の一也にだってわかる。
 けれど、一也は下を向いたまま、ぽつりと呟いていた。自分のしていることが、それだとは、信じたくはなかったからだ。そして、それは姉が望んでいたことでもあったからだ。
「僕は、結局戦争をしていた訳なんですか?R‐0を使って、BSSを、兵器として使って、戦争をしていたという訳なんですかね?」
「──どうなんだろうなァ」
 一瞬、老人は答えに躊躇したようだった。考える時間をほとんど持つこともなく一也の言葉に応えていた老人が、その質問にだけは、一瞬の躊躇を見せた。
 老人は、言葉を探すように地に視線を走らせる。けれど、一也はその老人の視線に気づかずに、下を向いたままで続ける。
「僕は、みんなのためにって戦っていたんです。なのにみんな──お姉ちゃんだって、R‐0は、BSSは兵器じゃないって言って──だけど、結局みんな、僕たちのしてきた事を、肯定してはくれなかったんです。結局は、僕らは戦争をしていた。罪のない人を巻き込んで、誰もを、傷つけて」
「難しいよなァ…」
 老人は、とりあえず何かの返事をとでも思ったのだろう。小さく呟きながら、手にしていたコンビニの袋の中に手を伸ばした。
「飲めるかい?」
 と、一也に向かって缶ビールを差し出す。(注*18)
「あ…いえ…いや…」
「ほれ」
 老人は笑いながら缶を開け、一也の手に押しつけた。そして自分の分も同じ袋からひょいと取り出し、小気味のいい音を立ててそれを開ける。
「じゃ」
 とか言って、軽くビールを掲げて、口に運ぶ老人。
 それを見て、一也も躊躇はしていたのだけれど、興味本位に、口許にまでは運んでみた。
「君が戦争じゃないって言うのなら、それは戦争じゃないのかも知れない。R‐0も、BSSも、兵器じゃないって言うのなら、それは兵器じゃないのかも知れないなァ」
 老人が言う。口許に缶ビールを押しつけたまま、上目遣いに、一也に向かって。
「そう…ですか?」
 返す一也。缶ビールを口許から離し、ひんやりとしたそれを両手でぎゅっと握りしめる。
「そういうものだと思いますか?」
「R‐0っていうのがあのロボットだとは知っているんだが、BSSとかいう物は、どういう物なんだい?」
 ビールを煽って、老人が聞く。一也は頭の中で一度言葉を整理してから、簡潔に述べた。
「R‐0を動かすシステムで、脳の神経と機械を直結させる物です。これを使うと、ロボットを思い通りに動かすことができるんです」
「へぇ…大したモンだなァ…それで、それが兵器じゃないって?」
「お姉ちゃんは──それを作った人は、そう言いました。僕には、まだよくわからないんですけど…」
「じゃ、そうなんだろう」
 老人は、缶ビールを足下の地面に置いて、続けた。
「まぁ…老いぼれの小さくなった脳味噌程度の考えだけどなァ」
 と、前置きをして。
「そのBSSって言う物、確かに使い方によっては兵器になる。戦争に使うんだったら、無人のロボット兵器に利用したりもできるだろうが、兵器じゃないんなら、たくさんの人を助ける物になるんだろうなァ」
「助けるって…」
 一也も老人と同じように、缶ビールを地面に置いて聞き返した。
「助けるって、R‐0みたいにですか?」
「ちょっと違うな。R‐0だって、使い方によっては──こう言っては悪いかも知れないが、兵器だ。BSSは、そういう物じゃないだろう」
 老人は、自分をじっと見つめる一也と視線を合わせようとしなかった。ただ真っ直ぐに前を見て──もちろんそこには何もない──夜の帳の降りた地下街の壁を、じっと見つめたままで、続けた。
「BSSという物が、人間の考えるままに機械を操作できるというのなら、それを腕や足の代わりに使ってみたらどうだ?つまり、義手や義足だ。物をつかむ──歩く──それが出来なくなった人のために、使ってみたらどうだろうな。再び、身体に自由を取り戻すという事のために」
「再び──?」
「BSSを作ったって言う人は、きっとそういうことを言っていたんじゃないかな?兵器じゃない。むしろ、その兵器によって傷ついた人々を助けるために──って。そういう事なんじゃないかな」
 言い終えて、老人は軽く口許をゆるませながら、再び缶ビールを手に取った。ぐいとそれを喉に流し込み、何も言わずに考えるような沈黙を見せる一也に向かって、横目に言う。
「まァ…そんなことはそれを作った人にしか、わからない事かも知れないけれどなァ」
 笑いながら、老人は再びビールをぐいと煽った。


「ひとつ、聞いてもいいですか?」
 沈黙を破って、一也は言った。
 この老人になら聞けると思った。そして、この老人なら答えてくれると思った。
 老人は、一也に視線を走らせる。一也も、老人に一瞬だけ視線を送り、そして、闇にそびえる高層ビルを見て、言った。
「僕のしてきた事は、正しかったんですか?」


「小沢さんは、誰かを信じられますか?」
 遙が聞く。小沢の背中に向かって。
「…そうだな」
 小沢は、ため息を返した。
 遙の言うことも、考えていることも、自分にはわかる。彼女に出会う前の自分も、彼女と同じ想いを持っていたからだ。
「今は──出来ると思う」
 真っ直ぐに前を向いたまま、答える小沢。
「香奈さん…ですか?」
 背中に届く、遙の声。
「いいな…そうして、誰かのことを信じることが出来て」
「遙ちゃんには、出来ない?」
「私には、そういうコトがわからないもの」
 うつむき、小さく言葉を吐き出す遙。
 小沢は、彼女のその声を吹き飛ばすように、
「そんなことはないよ。誰にだって出来る。もちろん、遙ちゃんにだって」
 「よっ」と息を吐き出す勢いに立ち上がった。非常階段の鉄の床が、小沢の革靴の踵に、軽く音を鳴らす。
「気づいていないのかも知れないけれど──」
 遙に向かって笑いかけ、小沢は階段を降り始めた。
「遙ちゃんにだって、実はもう出来ているかも知れないよ」
「私に?どうしてですか?」
「あれ?じゃ、ずっとそこにいるつもりでいるの?」
 笑いながら、小沢は遙に小さく手を振って「僕は帰るよ」と、階段を降りていった。小さくなっていく定期的な足音が、ジェットエンジンの爆音に紛れ、やがて、聞こえなくなった。
 遙はしばらくそこでじっとして、何かを考えていた。
 けれど、結局は──
「よっ♪」
 と、勢いよく立ち上がってお尻をはたき、非常階段をそのまま駆け下りていった。


「じゃあ一也君。君は正義って、何だと思う?」
 高層ビルを見上げたままの一也に向かって、老人は聞く。
「正義って──わかりません。何が正しくて、何が正しくないのか」
 ぼそりと、一也は返す。振り返らずに。
「難しいよなァ…確かに」
 老人は一也の背中に向かって笑いかけた。それは、自分がこれから一也に向かって言おうとしていた言葉のせいでもあるのだけれど、結局、細く微笑みながらも言っていた。
「一也君、君は、『アンパンマン』て知っているかい?」
「アンパンマン?アンパンマンて…あの?(注*19)」
 さすがに一也も振り向いた。訝しげに眉を寄せ、聞き返すけれど、老人はただ微笑みをその顔に浮かべて、
「そう。あの。その顔は知ってるね」
 と、静かにゆっくりと言葉を続ける。
「一也君、君は、どうしてアンパンマンは困っている人に自分の頭を分け与えるんだと思う?彼はアンパンの頭を困っている人に分け与えることによって、自分の力が弱まってしまうと、自分でわかっているのに」
「どうしてって…そんな事…」
 考えたこともない。
 一也はこの老人が言おうとしていることが何なのか、本当にわからなかった。ただ眉を寄せて、老人の次の言葉を待つ。
「彼は、もし自分がどんな立場にいても、困っている人がいたら、自分の頭のアンパンを分け与えるだろうなァ…たとえ自分を傷つけることになったとしても。自分が傷つくと、わかっていたとしても。それが、彼の言う勇気というものだからな。そして──」
 老人は、一也の目を真っ直ぐに見据えた。そして、言った。
「そして、それが彼の語る正義と言うものだからな」
「それ──が?」
 聞き返した一也には、老人の言うことがよくわからなかった。老人は、彼の表情にそれを知り、少しだけうなずいて、続ける。
「わかりやすく言うとなァ…彼のように、正義を行おうとする者は、必ず自分が傷ついてしまうと言うことなんだ。人を傷つける正義なんてものはない。正義を行おうとするとき、必ず、それを行おうとする人は傷つくことになる。だけれど、だからと言って、それをする事を躊躇してはいけない」
「傷──つく?」
 一也は、小さく呟いた。老人の言葉が胸を締め付ける。痛いほどに、その意味がわかる。
 老人は、続けた。ゆっくりと、一言一言をしっかりと噛みしめるように。
「正義を行うことは難しい。さっきも言ったように、正義を行おうとする人は、どうしても自分が傷ついてしまうからだ。だから、正義を行おうとする人は、自らの身を護るための武器を持つ。もちろん、それは決して人を傷つけることのない武器だけれど──それがなんだか、わかるかい?」
「武器──何ですか?」
「簡単だよ。彼も言っているからなァ」
 老人は、楽しそうに微笑んだ。眉を寄せて考える、一也の顔を見て。
「わからないかなァ?」
「──何ですか?」
「じゃあ教えよう」
 老人は、「よいしょ」と立ち上がった。手にしたコンビニのビニール袋が、その拍子にがさりと揺れる。
「何よりも、もっとも強い力だ」
「何ですか?」
「わからないかなァ…」
 老人は微笑みながら、言った。
「愛と、勇気だ」


「最後に、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけれど、いいかなァ?」
 老人は、地下街に続く通路の先で立ち止まると、階段の上の一也に向かって振り向いて、聞いた。
「この国は、護るべき価値があると思うかい?」
 一也は、すぐには答えられなかった。
 けれど、ゆっくりと階段から立ち上がり、
「わかりません」
 一言。だけれど、しっかりとした声で、老人に向かって言った。
「わかりません」
 老人は、一也の言葉に笑う。
「じゃあ、どうする?」
「わかりません」
 同じ事を、先ほどよりも少し大きな声で、一也は言った。そして、続けた。
「けど、今日は帰ります。お世話になりました」
 深く頭を下げた時、一也は自分の足下に置いてあった缶ビールを目にとめた。躊躇することなく、それを手に取り、老人に向かって掲げて見せてから、一口、ぐいと煽る。
 涙が出そうになるほど、苦いと感じた。
 目を瞬かせ、それを再び元の位置に戻す一也。
 老人は笑っていた。
 一也も、喉に残る苦みに上手くは出来なかったけれど、軽く笑って見せた。
 老人が歩き出す。
 一也も、振り向いて歩き出す。


 背中に、誰かの声が届いた。
「先生!石野先生、ヤッサンが熱があるみたいなんですよ!見てやってもらえませんか」
 一也は目を見開いた。振り向く。老人の台詞が、脳裏を駆けめぐる。「闘いたくなくなったかね?──R‐0に乗って」「こう見えたって、『戦争』ってモンは君よりよくよく知っているんだからなァ」「R‐0も、BSSも、兵器じゃないって言うのなら、それは兵器じゃないのかも知れないなァ」
「まァ…そんなことはそれを作った人にしか、わからない事かも知れないけれどなァ」


「あ…」
 老人の姿は、もう見えなくなっていた。
 だけれど、一也は彼を追うようなことはしなかった。
 ただ、何となくだけれど、彼もそうされることを望まなかったのだろうと、そう解釈したからだ。
 老人が言った言葉が、彼の最後の台詞の裏に、ふと思い浮かんだ。
 「気づいてはいるけれど、変わらない。変われない。昔からの慣習で、傍観を続けている。──君も私も──変える方法を気づいてはいるけれど、こうして遠くで呟いているばかり」
 あれは、あの老人がそうやって逃げる自分のことを卑下して、言った言葉なのかも知れない。
 老人が、最後に言った言葉が耳元を擦り抜ける。
「この国は、護るべき価値があると思うかい?」
 一也は、真っ直ぐに前に向かって歩きながら、彼の言葉を噛みしめた。


 ばったりと、二人は出会った。
 マンション──それも部屋のある階の、廊下の向こう側とこちら側とで。
 一也は、エレベーターを使って上がってきた。
 遙は、階段を使って上がってきた。
 お互いに、ほとんど同時に気づいた二人は、ただ立ち止まって、お互いに顔を見合わせた。
 沈黙を先に破ったのは遙。
「おかえり」
 ちょっと声は震えてしまったのだけれど、一也にはわからなかったようだ。
 一也はちょっと口を尖らせて、返す。
「ここの部屋を借りているのは、誰か知ってる?」
「誰って…香奈さん」
「そう。僕のお姉ちゃん。んで、遙は?」
 と、遙を指さす。
「…居候」
 口をとがらせ、遙は呟いた。一也の言わんとしていることを理解し、ちょっとむっとしたような口調で返す。
「…だだいまかえりました」
「よろしい」
 一也は目を伏せて大仰にうなずくと、
「おかえり」
 と、遙に向かって、笑いかけた。
「ただいま」
 と、遙も彼に笑い返す。


 どちらからともなくドアの前に歩み寄る二人。
 一也は鞄からカギを取り出すと、それを鍵穴に差し込んで回し、ゆっくりとドアを引き開けた。
「どうぞ」
 と、一応紳士風に遙を促す。
「どうも」
 と、遙も気取って一也に頭を下げ、部屋の中へ身を進ませた。
 その遙に向かって、暗闇の部屋の中から、同じように真っ黒のものが飛びついてきた。
「きゃっ!」
 身を引く遙。倒れそうになる彼女を、両手で支える一也。
 飛びついてきた黒いモノ。
 遙の胸にしがみついた黒猫のウィッチが、「おなか空いたよぅ」と、不満そうに鳴き声をあげた。
 二人、思わず顔を見合わせて、思わず吹き出す。
「ごめんごめん!」
 ウィッチを抱えて、部屋の中へと駆け込む遙。
「靴くらいそろえろよ!」
 と、一也は彼女の脱ぎ散らかしたローファーをきちんと揃えながら、
「…ったく」
 文句を言うその口許を、かすかに弛ませた。
 「この国は、護るべき価値があると思うかい?」
 リビングからは、遙とウィッチのじゃれあう声が届いていた。


                                    つづく








   次回予告

(CV 吉田 香奈)
 ついに出される内閣不信任案。
 後ろ盾を無くし、凍結を余儀なくされるNec。
 そしてR‐1。
 しかし、エネミーは襲い来る。
 この国を、この地球を護ろうとする者達。
 正義とは?
 戦うということは?
 誰かがやらなければならないのなら、
 それを出来る者が、それをしなければならない。
 次回『新世機動戦記R‐0』最終話、
 『新しい世紀へ。』
 お見逃しなく!


[End of File]