studio Odyssey


劇場版 第二十六話1




「ただいま、防衛庁別室Nec本部より入電中。太平洋上にてエネミー降下を確認。総員、第一種戦闘配備。繰り返す、総員第一種戦闘配備!」
 スピーカーからの女性の声が、秋の夜の静寂を打ち破った。
 ハンガー内に警報音が響きわたる。整備員達が、慌ただしく動き出す。
「のっけからきたか!」
 と、Nec本部作戦本部室で、平田教授はちっと小さく舌打ち。(注*1)そして立ち上がりざま、
「シゲ、R‐1、出撃だっ!!」
 スチール机について2秒前までマンガを読んでいたR‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲ──に鋭い声で命令を下す。
「了解っ!しかしあれですね教授」
「うむ!」
 教授とシゲは頷きあい、言った。
「一年ぶりにこうして動くのはまた快感ですね!」
 同じ部屋の中にいた西田 明美助教授が、小さくため息を吐き出していた。
「頭痛いわ…(注*2)」


「エネミー?」
 給湯室でヤカンの上げる湯気をぼうっと眺めていた村上 遙は、警報音に弾かれたように顔を上げた。
「やっぱ、慣れないことをしようとしたから?」
 なんて言って笑いながらガスを消す。慣れないこと──お茶を煎れるということである。(注*3)
 普通なら、その仕事はここNecの世話係──という言い方もなんだが──の、吉田 香奈の仕事である。が、彼女は先日の出撃で意識を失って入院して以来、まだ目を覚まさないままなのであった。
 よって、んなことは滅多にしない遙が、こうして今回は茶坊主。とは言っても──やはり慣れないことはするもんじゃないなぁと、遙は頭を掻いたのであった。
「お茶…はやっぱりこういう場合、後でいいんだろうなぁ」
 と、ぽつり。お茶は教授に頼まれたのだ。だけれど、頼んだ本人はこの警報音にすべて忘れてしまっていたりするのだから、別にどうでもいい事であったのだけれど。
「一也ーっ!」
 遙は給湯室を出、ハンガーの方に向かって歩きながら叫んだ。


「よりにもよって、何でこんな時に…」
 眉を寄せながら言うのは吉田 一也。R‐0、そして今このNec本部におかれている地上最強の巨大ロボット、R‐1の正式パイロットである。
 一也はちらりと腕の時計に視線を走らせた。
 11時24分。
 30分には帰ろうとしていたのに、あと6分と言うところで──しかも、この時間だ。
「いい標的じゃないか」
 呟きながら、一也はハンガーに出た。ホワイトボード前。いつもの即席会議室に、みんなが集まっている。


「状況を説明しよう」
 と、教授。
「嬉しそうですね」
 遙が言う。
「ああ、そりゃそうだろう。こうして再び、水を得た魚のごとくしゃべりまくれるんだからな。ああ、ありがとう『復刻版』という感じだ」
「は?」
 一也は目を丸くした──が、明美助教授の咳払いに、すかさずシゲが割って入った。
「今回のエネミーは東京湾に着水。このまま都心部に向かって進行を続けるとすると、予想進路はこの通り」
 と、ホワイトボードに地図を張り付けるシゲ。それを金髪の少女、ベルが手伝う。
 白黒の地図には、ちょうど台風の進路を示すのと同じ様な赤い線と円が書かれていた。
「まっすぐ新宿方向に行くとすると、東京港を通る訳ね」
 線を指さし、たどりながら呟く遙。
「ここを迎撃ポイントとすると…タイムリミットは二、三十分?」
「その通りだ」
 遙の言葉に、教授は満面の笑みを浮かべたままで答えた。
「しかも、すばらしいことに現在時刻は11時半ちょうど。これがつまり、どういうことかわかるかね?」
「──わかりたくはないです」
 一也は眉を寄せて返した。わかりたくはないが、わかってしまっているのである。
 その一也の表情を横目に見て、嘆息を混じらせて明美助教授。
「よりにもよって、なにもエネミーも11時台のニュースにあわせて現れなくたっていいじゃないのよねぇ」
 そう言って、肩をひょいとすくめて見せる。
 つまり、そういう事である。
 特務機関Necは、近頃新聞の社会面を賑わせている一連の政治家スキャンダルの中に巻き込まれてしまっていたのであった。だがしかし、それも仕方がないというもの。この組織は、その渦中の人である村上 俊平総理が陣頭指揮を執って運営をしている機関であるのだから。
 それに、ここにはその娘、遙。そして日本を護るという名目で破壊活動を作り広げている(失言)R‐1もおかれているのだ。
 逆に言うのなら、世間の注目を集めない方がおかしいのである。
「いいことじゃないか」
 しかし、世間の注目を集めているという事実、のみ、を認識している教授などは、
「リアルタイムにR‐1の雄志がテレビで放映されるんだぞ。これを利用しない手はないだろう!」
 と、拳を握りしめてぐっ。
「今こそ、我々がイメージアップにかけるとき!」
「はあ…」
 そう言う顔が笑っているので、一也には教授の言葉の真意はわからなかった。ただ、明美助教授がぴくぴくと動いてしまっている眉を押さえている姿だけが、視界の隅に入っていたのであった。
「注目の的じゃん」
 なんて言いながら、一也の肩をぽんと叩く遙。彼女も実に楽しそうに笑っている。そこに、何かを期待しているかのように。
「一也、変なことできないねぇ」
「僕はいつも一生懸命やってるってば」
 不機嫌そうに言って、一也は眉を寄せた。
「よーしっ、では行くぞ!R‐1出撃っ!!」
 教授の声がハンガー中に響く。
 続いて、R‐1の出撃を告げる電子音が鳴り響いた。


「来た来た来た来た来た来た!センちゃん、撮れっ!!」
「撮ってるって!」
「みなさん、ご覧いただけるでしょうか!」
 各局のクルー達が慌ただしく動き出し始めた。Nec本部前。ハンガーの入り口が見えるポイントでである。そして、その電波が瞬時にして日本中を駆けめぐった。
 暗闇へ投げ出される投光器の光。浮かび出る陰。輝く巨体。
「現在時刻は23時41分。東京湾へ降下したエネミーを迎撃に、特務機関Necの巨大ロボット、R‐1が出撃します」
 スピーカーから響く、アナウンサーの声。
 電波の向こう、ブラウン管の前で、松本 詩織はただ眉を寄せていた。
 ブラウン管に写る映像。その映像がスタジオの中のものへと切り替わる。変わってそこに姿を現したのは、大型ディスプレイの前で難しそうに目を細めているメインのキャスターであった。
 髪に白髪の混じったキャスターは、少々聞き取りにくい感のあるこもった声で言う。
「特務機関Nec。未知の生命体、エネミーと戦う巨大な鋼鉄の巨人を持つ、日本、いや世界最強の防衛機関。はたしてそれは、我々にとって必要な物なのでしょうか。この特務機関は、憲法第九条の定める戦争の放棄というものに対する、冒涜と受けとめることはできないでしょうか。そして、その機関に送り込まれた巨額の防衛費。我々の意志に、それは反していなかったのでしょうか。一人の政治家の暴走に、それはすぎなかったのではないでしょうか」
 キャスターが言葉をしめるのと同時に頷くと、ジングルが鳴り響いた。映し出されたタイトルバックに、佐藤 睦美は口を曲げる。
 そこには、街の声を写す映像があった。(注*4)
「防衛費とかって言って、税金を使っているんでしょう?そのわりに、防衛してくれてるとは思えませんけどね」と、手にした新聞で首筋を掻くサラリーマン。「なんだかよくわかんないけど、あれって必要なの?私には、よくわかんないのよねー」と、おばさんは豪快に笑う。
「税金払っている身じゃないですから、特にどうということはないんですけど…払ってる人たちにすれば、税金払って物壊されてじゃ、割に合わないとかって思ってるんじゃないですかね?」と、大学生くらいの青年は言う。「よくわかんないけど、私たちと同い年の男の子と女の子がロボットに乗ってるんじゃなかったっけ?」「そうそう!ロボットに乗ってる子、ちょっとジャニーズ入っててよくないって思わなかった?」「そうそう。女の子も、結構可愛いんだよねー。週刊誌で見たよー」と、女子高生達はブラウン管の中で笑いあう。
「税金で動いている以上、すべてを明確にしてほしい。我々の血税の使われ方、あの機関の存在の意味、そして、すべての疑惑についても」
 マイクの向こうで、スーツをびしっと着込んだサラリーマンは、精悍な顔つきで言い放った。
 そして画面の右隅に、CM前の番組スポットがゆっくりと流れ始める。
「うちの子、あのロボット好きなんですよ」笑う若い女性の足下で、まだ小さな男の子は言った。
「あーるおぅだよ」


 それでも、戦わなきゃ──
 眼前、R‐1のモニターの向こうに広がる東京湾を見つめながら、一也は小さく息を吸い込んだ。
 この国は、護るべき価値があるか──ないか。
 背後には、たくさんの報道陣が控えている。そのレンズは日本中にこの映像を伝えている。
 だから、戦わなきゃ──
 そして、その向こうには幻のように幻想的な夜景を作り出す巨大な高層ビル群があった。だれも、それをファインダーに写してはいなかったけれど。
 補助モニターが電子音を鳴らす。
 ──FCS Lock.
 一也は強く歯を噛み締め、モニターの向こうを見た。
「エネミー、有効射程距離に入りました」
 今は、戦わなきゃ──!
「迎撃しますっ!!」
 引き絞られたトリガーに、H・G・Bライフルの閃光が闇を切り裂いた。








 第二十六話 新しい世紀へ。

       1

 朝になると、憂鬱な気分になる。
 このところいつもそう。このまま夜が明けなきゃいいのにって、眠りにつく。けど、開けない夜なんかないわけで、いつかは朝が来るわけで──
 なんか、昔と同じ気分…
 中途半端に閉められた雨戸の隙間から細く差し込む朝の光。遙は鼻をくすぐられるようなその陽光に、もそりと布団から起きあがった。
 なんとなく…嫌な気分。このままずーっと、ここでぼけーっとしていたい感じ。
 けど──今日も今日という一日が始まってる。始まっちゃってる。
 いつも通りに──
 遙は小さく深呼吸した。
「ぅにゃー」
「ああ、ウィッチ。おはよう」
 遙の起きた気配に気づいてか、黒猫のウィッチが部屋の中に入ってきていた。ウィッチは遙の周りをくるりと一周し、身体をすり寄せてくる。朝から早くも「あそんでよぅ」と催促しているのだ。
「うぃーっ」
 と、ウィッチを持ちあげる遙。
「あ、リビングの方からコーヒーのいい匂いがするぞ、ウィッチ」
 遙は軽く笑うと、布団の上に座ったままで360゜回転。
「おはよぅ」
 と、足でふすまを開けて言う。
「ああ、おはよう」
 キッチンからする声。一也の声。遙はウィッチを抱きかかえたまま、彼に向かって言った。
「それ、レギュラー?なら、私の分もちょうだい。お砂糖いらない」
「自分でやれよー」
 眉を寄せて言う一也の声。姿が見えないところをみると、シンクの下にある戸棚からウィッチのご飯を取りだしているのだろう。
「ウィッチ、一也がご飯くれるって。Goー」
 ぽいと、リビングに向かってウィッチを投げる遙。
「一也。着替えるから、覗いたら殺す」
「覗くか…」
 呟きながら、一也は『金缶まぐろ』を手に顔を上げた。で、会話の勢いでそっちの方を見たままだったのであるが──
「ば──っ!覗かれて嫌なら、ふすま閉めて着替えろよっ!!」
 遙は一応自分の部屋の中ではあったけれど、ふすまを開けたまま、布団の上に座り込んだままで、パジャマのボタンに手をかけていたのであった。
「すとりっぷ〜」
 なんて言って、笑いながら。
「やめろよな!」
「理性が保てなくなっちゃう?」
「怒るぞ」
「起こる?ナニが?」
「あのねぇ…」
「一也、そこの洗濯かごの中のブラ取って。白いやつ」
「…自分で取れってば」
 一也は髪をかき上げながら頭を掻き、冷蔵庫のドアを開けた。がさがさと、朝食にできそうな簡単な物を探す音。
「ほーい」
 その音を耳にしながら、遙はパジャマのボタンを全部外したままで四つん這いに歩き、洗濯かごに手を伸ばした。
「一也、白とピンクどっちが好き?」
「僕には関係ないだろ」
「あったとき嬉しいのは?」
「ない」
「…なんだ、つまんない」


 二人暮らしにも、だいぶん慣れてきた。
 香奈が入院してから、もう一ヶ月近くになる。まぁ、一ヶ月も二人っきりで暮らしていれば、嫌でもその生活に慣れるとも言えなくもない。
「ん?」
 と、遙はフォークを右手に、一也に手を伸ばした。一也はその手に向かって、塩の入った容器を手渡す。それを受け取った遙は、自分のサラダボールのサラダに塩をふりかけた。
「かける?」
「もらう」
 一也はそう言って、自分のサラダをちょいと遙の方に押してみせる。と、遙はそれに塩をふりかけ始める。
 いつもの朝の風景である。
「今日もやっぱ、学校に行ったらいるのかなぁ」
 呟くようにして、遙は塩を振りかける手を止めて、テーブルの向かいに座る一也に向かって言った。
「なにが?」
 と、一也はトーストにバターを塗りながら返す。
「私はマーマレード」
 塩を置き、遙は真顔で一也に言う。
「自分でやれよー」
「でね」
 足を軽くふりながらサラダにぱくつき、遙は続けた。
「今日も学校に行ったら、報道陣の連中がいるのかなって。あーもぅ、それを考えただけでも憂鬱だわ」
 と言う彼女の足下では、ふらふらと前後に動くスリッパに、ウィッチが軽く猫手パンチをくれていた。「うりゃっ」とである。
 一也は遙にトーストとマーマレードの瓶、バターナイフの一式を手渡しながら返す。
「だからって、サボるわけにもいかないでしょ。出席だけでも取っておかないと危ないんだから」
「出席取って帰るとか」
 言いながら、トーストにバターを塗る遙。ふと手を取め、中指に軽くつけたバターをテーブルの下に伸ばす。
「朝のホームルームだけ出て帰宅って──またそういうネタにされそうなことをしようとするんだから…」
 そう言って、一也は眉を寄せた。眉を寄せたままで、続ける。
「大体、僕と遙がこうして一緒に住んでることだって、どこだかの週刊誌は記事にしたって言うじゃない」
「あ。なに、一也はそれネタにされるのいやなの?私は全然いいんだけどなぁ。あ、詩織ちゃんとか、みんなにヘンに誤解されちゃうのが嫌なんだなぁ」
 にゃあと笑う遙。二人の会話するテーブルの下では、ウィッチが猫手パンチをやめ、遙の中指についたバターをぺろぺろと舐めていた。
「猫に変なこと教えるなよ」
「なーにがですかぁー?(注*5)」
 にやにや笑いながら、遙は一也の真顔に返した。
「でも、ホントしつこいよねえ。あること無いこと根ほり葉ほり」
 でも──
 半分くらいはもしかしたらホントのことかもしれないんだけと。
 その台詞は、笑いながらの遙の口からは出てこなかったのだけれど。


 遙の危惧していたとおり、校門前には報道陣達が待ちかまえていた。
「Jesus…」
 遙は天を仰ぐ。隣りの一也も苦笑い。
「今日も、秋の空が高いわ」
「何を言ってるんだか…」
 ため息を吐き出す二人を誰かが見つけ、短く声を発した。その声に黒山がざわざわと動き出す。登校する生徒達が、なんだなんだとばかりにその動きを追っていた。
「ここはやっぱり中央突破でしょう」
「もちでしょう!」
 と、言って頷きあうのは遙と一也ではない。
 二人の脇に立った、吉原 真一と佐藤 睦美である。
「毎回それね」
「…でも、仕方ないですよ」
 と、ため息を吐くのも遙と一也ではない。
 そのさらに脇に立った神部 恭子と松本 詩織である。
「行くぞ吉原ぁっ!」
「オス!」
 一也のクラスメイト、元柔道部の吉原をけしかけるようにして、びしりと報道陣を指さす睦美。遙といろんな意味で気の合う、美術部の友人である。
「怪我させるとまずいよ」
「そうだよ。吉原君もなんか書かれちゃうかもよ」
 冷静に言う元美術部部長、神部 恭子。そして一也のクラスメイト──であり、一応彼女──の松本 詩織。だけれど言われた睦美と吉原はわかっているんだかいないんだか、
「それはそれ」
 なんて、さらりと言ってのける。
「熱い友情ね」
 と、遙。
「状況を楽しんでるんだよ」
 と、一也。
「はいはいはいはいはい!どいてどいてどいてどいて!!」
 迫り来る報道陣を、吉原は嬉々としてかき分け始めた。
 瞬くフラッシュ。眉を寄せた目を細める遙。マイクやテープレコーダーを差し出すレポーター達の口から、次々と飛んでくる質問という名の言葉たち。
「Necに対する世論について、どう思いますか一也くん?」「エネミーと戦うことについて、二人の意見を聞かせてほしいんだけど?」「何か一言!」「遙ちゃん、お父さんの問題がいろいろと取りだたされているけど、何かコメントないかな?」「お友達も、何かあったら聞かせてほしいんだけど!?」
 耳を通り抜けるだけの質問とは全然関係ないところで、
「今日もいい天気なのに…」
 遙はぽつりと呟いて空を見上げていた。


 T大学病院。
「や。これはどうも」
 研究施設ばかりが入っている4階の廊下の向こうから歩いてきた男に向かって、男は軽く手を挙げて笑って見せた。
 歩いてくる男、この国の首相、村上 俊平総理である。
「私を直接呼びつける人間なんて、右手の指で足りるほどしかいないぞ」
 と、村上総理は右手を挙げて軽く会釈を返した。会釈を返す相手、自称ルポライター、小沢 直樹である。
「ネタを握られてちゃ、かないませんか?」
 小沢は寄りかかっていた壁から「よっ」とか言って身を離して続ける。
「とは言っても、僕の握ってるネタなんて、ずいぶんと昔のものですけどね。あ、でも連中をたきつけるには十分ですか」
「脅すな。お前はNecと一緒に動くんだろう?リークする気もないくせに」
 村上総理はそう言って笑った。この小沢という男、昔は敵だったが、今は違う。そして味方につければ、この男ほど有能な奴もそうはいないと知っていた。それは、自らの身をもってである。
「で?」
 村上総理は視線を彼から外しながら聞いた。
「奥ですよ」
 と、小沢は通路の奥の部屋を指さして笑う。
「R‐0のハードウェア設計者と一緒です。何故か彼になついてるんで。一緒の方が彼女も緊張しないんじゃないかと」
 言いながら歩き出し、時計に目をやる小沢。
「どれくらい時間はとれます?言葉が通じないですからね。結構、難儀ですよ」
「中野くんといったか?彼は。彼はどれくらい彼女の話が分かる?」
「さぁ、物によっては三割とも。どちらかというと、彼女の方が我々の話を理解してくれますね。頭脳明晰なんですよ」
 小沢は眼前のドアに手をかけて笑い、言った。
「僕ら、この星に住む奴らと違って」
 小沢の手によって、ゆっくりと開かれるドア。
 部屋の中の風景が飛び込んでくる。
 殺風景な研究室の中に置かれた何脚かの椅子。そしてそこに座る人影達。白衣をまとったこの病院の医師が数名と、R‐0のハードウェア設計者、中野 茂──通称シゲ。そして──
「はじめまして」
 村上総理はその少女の声に目を丸くした。
 研究室の大きな窓から差し込む秋の陽に、きらきらと輝かんばかりの金色の髪をした少女は、ドアの前に立つ村上総理に向かい、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「はじめまして。ベルと言います」


 小沢はゆっくりとそのドアを開けた。
 いつもと変わらない部屋。二つのベッド。ひとつはもう空だけれど、もう一つの方は、まだ使われたままになっている。
 ゆっくりと使われていない方のベッドに腰を降ろし、小沢は軽く笑った。もう一方のベッドに眠る人を見つめながら。
「総理が来てくれたよ。なんとか、あの人が総理のうちにベルと会わせられた。これは、いくつ目の約束だったっけ?」
 返るはずもない答えを、小沢は待った。
 ため息に、再び笑う。
「もうじき、全部終わる。明日には、総理も総理じゃなくなるかも知れない。そうしたら、きっと、Necもなくなると思う。そうしたら、R‐0もR‐1も、一也くんも遙ちゃんも、戦わなくてよくなるかも知れない。そう──」
 次の言葉に一瞬の躊躇を覚え、小沢は言葉を止めた。けれど、それが事実であっても、なくても、彼はそれ以外にうまい表現を持たなかった。だから、言っていた。
「もうじき、この戦争も全部終わる」
 彼女の望まなかったもの──それが、もうじき終わる。
「それまでに、俺は約束を全部果たすよ。きっと。だから、俺が約束を全部果たしたら──」
 小沢は、ゆっくり立ち上がった。
「そしたら、俺のこと信じて、目を覚ましてくれる?」


 あれ?
 一也はその振動に、夢の世界から現実に引き戻された。
 ポケットの中で振るえているもの。それにゆっくりと手を伸ばし、止める。言うまでもなく、ポケットベルである。(注*6)
 目をこすりながらメッセージに視線を走らせると、予期していたものとは少し違うメッセージがそこに表示されていた。
 『サボレ オクジョウコイ』
 誰だ?授業中なのに…
 エネミーかと思ってどきりとしたのだが、違うとわかって、一也は再びベルをポケットの中に押し戻した。隣の席の詩織が、一也の行動に気づいて眉を寄せていた。
 違うよとジェスチャーで答え、さて──と、目をこすりながら一也はシャーペンを手に取る。けれど、黒板には先ほどまでノートにとっていた部分が全くなくなっていたのであった。
 あ…あれ?
 しかも、そことも全く関係のないところが書かれていて──寝ている間にずいぶんと授業は進んでいたらしい。
「どした?」
 と、後ろの席の吉原が一也の肩をシャーペンでちくりと刺しながら言う。
「エネミーじゃないのか?」
「違うよ」
 答える一也のポケットの中で、再びベルが振るえ出す。
 その振動に、一也の頭の中に今朝の彼女の台詞がぽっと浮かび上がった。「今日も秋の空が高いわ」なんて。
 あ…あいつ…サボって屋上にいるんだな…確かに帰っちゃいないけど…
 苦笑いを浮かべながら、窓の外に視線を走らせる一也。相変わらずに蒼く、高い空。
 ベルをポケットから取りだし、一也はメッセージを確認した。
 『ミンナデサボレバコワクナイ!』
「これはきっと、佐藤先輩」
 と、メッセージを吉原に見せる。
「で、こっちは遙」
 一件前のメッセージを見、吉原は笑った。
「行くか?」
「待って」
 一也はそのメッセージを表示したままで、隣の席でずっとこっちを見ていた詩織にベルを手渡した。
 目を丸くする詩織に、一也と吉原は笑う。吉原はすでに音を立てないようにして、足で自分の隣にあるドアを開けていた。


 駆け上がった先にあった鉄の扉を、一也は思いきり押し開けた。
 真っ白い陽の光が踊り場に差し込んでくる。吹き込む心地よい風。微かにする、潮の香り。
「あーっ!来た来た!」
 予想通りの声。一也と詩織、そして吉原は、屋上に躍り出た。
「サボリだー!」
 言いながら笑う睦美。
「しかも、彼女つれて屋上にエスケープだって」
 と、遙。けらけら笑う手の中には携帯電話が握られている。
「青春じゃん、青春。青い春」
「今は秋だけど」
「そう言うこと言わない」
 屋上の真っ白いコンクリートの上に座って笑いあう遙と睦美。その隣には苦笑いの恭子の姿もあった。
「あ、神部先輩もですか?」
 詩織は目を丸くしながら聞く。
「えへへ、誘われちゃっちゃね」
 笑いながら頬を掻く恭子。その恭子を突っつきながら、
「いーじゃんかー、どうせもう推薦入学決まったんだからー」
 と、睦美は口を尖らせて言う。が、
「決まったら、逆にそういうのってヤバいんじゃ?」
 遙の言うことはもっともだ。
「そうなの?」
 睦美は首を傾げて詩織を見た。
「そういうものだと思いますけど…」
 返す詩織に、睦美は頷く。けれど、
「ま、いいじゃんそれはそれ」
「そうそう」
 睦美、遙、悪びれた様子全くナシ。
「授業をサボって屋上で昼寝。こんな事、今しかできないんだから!」
「そっそ。勉強はいつでもできる!」
 言ってのけた遙に、
「──でもしないくせに」
「ぱーんち!」
 一也は足をぐーで殴られた。


「雲が流れてる…」
 睦美はぽつりと呟いた。
「ひつじ雲っていうんだっけ?あれ」
 返す遙。
「そうそう、なんかそんな名前」
「ヒツジが一匹、ヒツジが二匹…」
「ぐぅ…」
「でもなんかそんな感じ」
 六人は屋上のコンクリートの上に、思い思いの位置で寝転がっていた。秩序、均整の取れていない寝転がり方。──高校生である。
「授業サボって、こんな事すんのひさしぶりだなぁ」
 と、呟いたのは吉原。
「前にしたことあるの?」
 睦美が聞き返す。
「中学の頃とか。柔道部でしたからねぇ。よくサボって、体育館裏とかいってましたよ」
「生意気な後輩にヤキ入れに」
「そう」
「って、怖いなぁ」
 笑いながら言った吉原の台詞は、きっと途中から嘘だったのだろう。それをわかって、睦美や遙も笑った。
 途切れそうになる会話に、遙は滑り込む。
「私も、初めてじゃないなぁ。こうして授業サボるの」
 目を閉じたままで言う遙に、
「へぇ」
 短く返す睦美。
 結局、話は途切れた。(注*7)
 暖かな秋の陽射しが、目を閉じて寝転がる六人に燦々と降り注いでいた。制服が包む身体を、優しく暖める陽の光。
 顔を、くすぐるように暖めていく。四肢を、蘇らせるように暖めていく。
 心地のよい感覚。胸にあった何かがぽっかりとなくなって、そこに滑り込んだ何かが、暖められた空気みたいに身体を軽くさせる──そんな感覚。
 そんな感覚に包まれて、
「──太陽って、あったかいね」
 誰かが、ふと言った。誰だかは、ちょっとわからなかった。降り注ぐ陽の光は、誰をもを、夢と現の狭間にまで運んでいたからである。
「──うん」
 誰かが喉を鳴らすようにして答える。
 途切れたままになっていた会話を、誰もつなごうとはしなかった。けれど、それはそれでよかった。
 そこにある空気が、六人を繋いでいるような気がしていたから。


 一也はゆっくりと上半身を起こした。
 ──寝てたのか──いや、寝てたんだ。
 頭上を、ボーイングが微かな爆音と共に通り抜けて行くところだった。だから、目が覚めたのだった。飛行機雲。白い軌跡が青のキャンパスに描かれていく。
 いつのまに眠ってたんだろ…
 一也は弛んだ身体を伸ばしながら、息を吸い込み、周りを見た。
 自分が目覚めて動いたことによって、四人も、ゆっくりを起きあがろうとしているところだった。
 四人──?
 一也は、視線を屋上の縁へと走らせた。
 遙がそこに立って、笑っていた。


「おはよう」
 遙は笑う。
「人の寝顔は、いつ見ても面白いね」
「いい趣味じゃないね」
 返す一也。睦美が目をこすりながら起きあがり、一也と同じように屋上の縁にいる遙に視線を走らせていた。
「そういえばさっき、こうして授業サボるの、初めてじゃないって言ってたっけ?」
 言いながら、一也は目をこする詩織に視線を落としていた。詩織はそれに気づいて、どきっとしたのだろう、ちょっとあわてたように体を起こすと、その慌てぶりをごまかすように、スカートを軽くはたいた。
「まぁね。こう見えても私、留学先じゃ、あんまりいい子じゃなかったから。しょっちゅう授業サボって、こうしてみんなで寝たりしてた」
 遙は笑う。視線の先の恭子が、眼鏡を外して目頭を押さえていた。
「ニューヨーク、行ったことないな」
 一也は笑う。吉原の大欠伸に。
「自由の国アメリカ。悪くないよ。世界観、変わる」
「変わった?」
「変えに行ったんだもの」
 遙はただ、笑っていた。


「じゃ、みんなには特別に教えてあげよう」
 言いながら、遙は屋上を囲う縁の一段高くなっている所に、ひょいと乗った。普通なら胸の高さまである縁が、それで遙の腰の辺りにまで下がった。
「危ないことすんなよ」
「わかってるよ」
 茶がかかった遙の長い髪が、秋風に揺れていた。
 遙は一瞬だけ、下を見た。校門がちらりと見えた。報道陣達が、まだ少しだけ残っていた。
「何を教えてくれるの?」
 睦美は言う。遙は笑いながら、返す。
「日本全国の人たちが、知りたがっていること。そして私が知りたくなくて、逃げ出したこと」
「いいよ」
 一也はため息混じりに笑って返した。遙のことを、まっすぐに見て。
「そんなこと言わなくて」
「いや、言う。決めた」
 口許を弛ませながら、遙は続けた。
「私が留学を決めたのは、中学を卒業するかしないかって頃。ちょうど、現総理村上 俊平が、党の中での力を強くしてきた頃だった」
「現総理って…遙のお父さんだよね?」
 恭子の言葉に、笑いながら頷く遙。他人行儀に、フルネームで言ったのはわざとだ。そうでもしないと、ちゃんと話せないかも知れなかったから。
「で、党の中での力を強くしてきたあの人を、快く思わない人たちがたくさんいた。ちょうど、今と同じように。で、彼を失脚させようと、嗅ぎ回っている人たちがいた」
 名前は言わなかった。確証はあったけど、必要がなかったから。
「その人達は、ちょうど今と同じように、私のことに気がついた。つまり──」
 詰まる言葉。遙はその言葉を言おうとして──結局は言えなかった。自分で認めているはずなのに、言えない。
 小さく息を吐き出し、遙は続ける。結局、逃げてる。今度も、あの時と同じように。
「──私は、ニューヨークに留学することにした。あの人も、止めなかったから」
 止めてほしかったのかな?
 遙は、笑っていた。あの時の自分が何を考えていたかなんて、もう覚えていない。
「さっき言ったように、私は世界観すら変えようと、旅立った」
「変わった?」
 聞き返す睦美の言葉に、首を傾げる遙。
「どうかな?」
 きっと変わってない。あの時と、きっと今も同じ思いに捕らわれてる。むしろ、今の方が、あの時よりも複雑かも知れない。
「ニューヨークでは、いろんな事があった」
 言いながら、遙は縁に寄りかかり、頭をそのまま後ろに傾けた。ぱさりと宙に舞う髪。短く詩織が声を発する。
「危ないことすんなよ」
「だいじょうぶ」
 一也の声に、遙は空を見上げたままで答え、続けた。
「一番の思い出は、私の事を『好き』って言ってくれた男の子のこと」
 空を見つめたままの遙の表情は、誰にもわからなかった。ただ、詩織は、彼女の表情がきっとなんてことのない、素っ気ないものだとわかっていて、眉を寄せていた。誰も気がつきはしなかったけれど。
「その話は面白そう」
 睦美は言う。嬉々として。遙は見なくてもその表情がわかっていて──むしろその反応を待っていて──軽く、返した。
「面白くなんかないよ」
 笑うような声だった。
「その人は私のことを『好き』ってはっきりと言ってくれて──向こうの人だったしね。それで私も──」
「好きだったの?」
「──どうかな?つきあってたけどね」
「今明かされる衝撃の真実」
 笑いながら、睦美は一也と吉原に交互に視線を走らせた。男二人は、「関係ない」とばかりに肩をすくめてみせる。
「で?」
「それだけ。気がつくとエネミーがニューヨークを襲ってた。私は、仕方ないから、ニューヨークから戻ってきた」
「彼氏は?」
「別れた」
 あっさりと言った遙の答えに、
「なんでー?もったいないっ」
 睦美は目を見開く。恭子は、思わず吹き出しそうになった。
「睦美らしい答え」
 笑う遙に、一也と吉原も笑う。
「みんなは私のこと誤解してる!」
「してないよ」
「何で別れちゃったの?」
 睦美の問いに、遙は笑った。楽しそうに。
「あー…難しいぞぉ」


 遙は、秋の空をぼーっと見つめていた。
 そして、ぽつりと言った。
「『好き』とか、『愛してる』って、どういう事かな」
 ボーイングが空を駆けていく。微かに響く、ジェットエンジンの爆音。
 潮の香りを乗せた風に、遙の髪が踊っていた。


「ねぇ、どうする?」
 五人の方を見て、遙は言う。
「もし、私がここから飛び降りるって言ったら?」
 言いながら、遙は縁にお尻を乗せた。そして足をふらふらと浮かせ、笑う。
「ねぇ、一也。一也は私がここから飛び降りるって言ったら、どう言って止める?」
 ふらふらと揺れ動く遙の足は、地に着いていなかった。睦美も、恭子も、詩織も、吉原も、本当に危ないと思っていた。何かを言おうと口を動かすけれど、言葉が出てこなかった。遙が笑っていたから。まっすぐに一也のことを見て。いつもと変わらずに。
 だから、一也は言った。
「別に。どうもしないよ」


「飛び降りちゃうぞ」
「遙は飛び降りないもの」
「どうして?」
「飛び降りるの?」
「飛び降りちゃうよ?」
「飛び降りないよ」
「どうして?」
「このまま、押し問答を続けてもいいよ。けど、遙は飛び降りないよ」
「どうしてわかるの?」
 一也は大きく息を吸い込むと、背を逸らした。両手を後ろにつき、軽く笑う。「別に。どうもしない」という格好。
 ただ、遙のことを見ているだけ。
「ばか。一也なんか、キライだ」
 きゅっと眉を寄せ、遙は言った。
 そして、ゆっくりと足を振るのをやめ、頭を、後ろへと傾けた。
 茶がかった長い髪が蒼い空のキャンパスに踊る様を、一也はただ、見つめていた。


 睦美も、恭子も、詩織も、吉原も、ただ一也を除いた全員が、遙の行動に心臓をどきりとさせられた。
「ほら」
 一也は言う。
 ため息が、四人の口から漏れた。


 遙はまっすぐに上を向いたままで、口許を弛ませて笑っていた。
「秋の空が高いわ」
 遥かに続く青い空。遙はそれを見つめたままで、笑っていた。









       2

「だだいま帰りましたー」
 と、Nec本部。ハンガーの中に笑いながら姿を現したのはシゲである。彼の隣には、金髪の少女、ベルの姿もあった。
「あら、お帰り。どうだった?」
 言いながら片手をあげる明美助教授に、ベルが小さな声で「だだいま」と呟き返す。
 ハンガーの中、スチール机の休憩場に座っていた明美助教授は、ノートパソコンからディスクを取り出しながら聞いた。
「うまくいった?」
「ま、なんですね」
 と、シゲは頭を軽く掻きながら返す。
「総理と、それなりに話をしてきましたよ。といっても、どこまで意志の疎通ができているのかはわかりませんけど」
 言いながら、ベルに向かってジェスチャーするシゲ。ベルはこくこくと頷き、ぱたぱたと二階の作戦本部室への階段の方へと駆けていった。
「会話、ちゃんとできてるの?」
 明美助教授は驚いたように目を丸くした。少し下がった眼鏡を軽くあげ、
「たいしたモンじゃない」
 感嘆のため息をもらしながらベルの背中を追いかけた。
「日常会話程度ですよ。ジェスチャーを交えながらなら、80%くらいわかります」
「たいしたモンでしょ?」
 なんて、言ったのはシゲではない。ハンガーの入口脇からこっちに向かって言葉を投げかけた男──小沢である。
「この言葉で会話ができるのは、この世界中にたった二人だけ。二人だけの世界で、二人だけの秘密の会話ってわけですよ」
 口許を曲げて笑いながら言う小沢に、
「そんなところにいないで、こっち来ればいいじゃないですか」
 とは、ちょっと苦笑い気味のシゲ。
「そういうわけにもいかない」
 小沢は手に持ったものをひょいとかかげて笑ってみせた。
「運転ご苦労様。お礼は言うけど、本部内は禁煙よ」
 きっぱりと言う明美助教授に、小沢はひょいと肩をすくめて見せた。小沢がハンガー内に入れない理由。それを軽く吸い込んで、小沢は笑いながら、白い煙を吐き出した。
「わかってますって」
「シゲさぁん!」
 二階の作戦本部室前の廊下から、ベルが呼んでいた。
 手にしたR‐1の整備報告書を掲げて、何事かを言う。明美助教授と小沢には、彼女が何を言ったのかすらわからなかったけれど、シゲは右手を挙げて「それそれ」という調子で、彼女の言葉に彼女たちの使う言葉で答えていた。
 ベルは満面の笑みをその顔に浮かべ、報告書を手にハンガーへと降りる階段の方へと駆けだしていった。
「…ふむ」
 作戦本部室から出ていくベルの後ろ姿をちらりと見やってから、教授は手にしていた書類をぽいと机の上に投げ出して呟く。
「そろそろ、お役御免──かな」
 ぎしりと椅子をきしませ、ゆっくりと立ち上がる教授。傾き始めた陽が、作戦本部室を赤く染め始めていた。
 机の上に投げ出した書類。村上総理のサインのあるファックス。つい先ほど送られてきたものである。
「もう終わりか──」
 呟きながら、教授は窓の向こうに視線を走らせた。黒山の報道陣。小沢の持ってきた情報によれば、明日が限界と言うことらしかった。
「もう、終わりか──」
 それが出されれば、もう時間がなくなってしまう。もちろん、もう自分たちがすべきことはほとんど終わっている。残りのわずかの時間で、残っているすべてのことができないわけではない。できないわけではないけれど──たとえその残りの時間ですべてのことができたとしても──
 教授は夕日に照らされ、赤く輝く海を見つめながら呟いた。
「もう、これ以上、巨大ロボットを作ることはできんか」
 呟いて、子供のように口許を曲げて言う。
「ちぇっ──つまらんなぁ」(注*8)


「お願いがあるの」
「え?」
 突然そんなことを言われて、一也は目を丸くした。
 屋上から教室へ戻ってきて、すぐだった。吉原はトイレへ行っていてちょうどその時には彼らの近くにはいなくて、だから、一也と詩織は普通の会話と同じ調子で、その話をしていたのであった。
「あのね」
 詩織は一也のことをまっすぐに見て言う。
「センパイの力になってあげてほしいの」
「はぁ?」
 詩織の突然の言葉に、一也は目を丸くするばかりだった。
「センパイって…遙でしょ?力になってあげるって…何の?」
 吉田くんは鈍感だから──と言いそうなるのを何とか堪え、詩織は続ける。
「センパイ、かなり傷ついてると思うの。だから、力になってあげて。だって、二人はパートナーなんでしょ?」
「…そうだけど…いや、でも──」
「私はいいから。ね。公認ってことで。センパイもそう言えば、きっとわかってくれるから。ね!」
 ちょっと強めな感じで言う。と、
「う…うん…わかった」
 一也は曖昧にでも、頷く。詩織もわかってきたものである。
 詩織は小さく頷いて、言った。
「じゃ、今日、何とか上手くして、二人で帰れるようにするから」
「はぁ?詩織ちゃん、なんでまたそんなこと──」
「いいの」
 詩織は口をきゅっと結んで一也の机にどんと手を置いた。「いいの」と言う割に、「いい」という感じではないその行動に、一也は眉を寄せて苦笑い。
 詩織も、自分の行動がずいぶんとはちゃめちゃな行動だなとはわかっていた。けれど、止められなかったのである。遙のことを、放っておくことはできなかったのである。
 なまじ、知っているだけに。
 詩織は一也のことをまっすぐに見て、言ったのだった。
「センパイが頼れる男の人、吉田くん以外にはいないんだから、しっかりしてよね」
 とは言われても──
 である。
 いつもの川沿いの遊歩道。
 このところはここを通らないでいたせいか、二人を追う者の陰も、この通りには見あたらなかった。
 前髪を撫でていく秋の風に、微かに潮の香りがした。
 一也は、その柔らかな風に向かって小さくため息を吐き出す。
 ゆっくりと流れる河口付近の川の流れに、赤い夕焼けが映っていた。
 少しだけ白い息。
 冬が、近づいているんだ──
 一也はそんなことをただぼうっと考えながら、彼女の背中を追っていた。
 遙の背中。揺れる髪が、夕日に染まって緋色になっている。
 何とでも言葉はかけられたのだけれど、彼女がそれを望んでいないのが、一也にはわかっていた。だから、何も言わないで、何も話さないで、二人は歩いていた。
 遙が先。3メートルくらいの一定の距離をおいて。
 どれくらいそうして歩いていただろう。もちろん、二人が一緒に過ごしてきてた時間に比べれば、それはごく短いものであった。
 それはごく短いものではあったけれど──けれど──
 遙は笑った。そして、とうとう堪えきれずに立ち止まって、言った。
「一也と一緒にいて、これだけ話さないでいたのは初めてかもしんない」
 立ち止まって言う遙に、一也も立ち止まる。それは二人が一緒に過ごしてきた時間に比べれば、ごく短いものではあった。
 ごく短いものではあったけれど──
 遙は振り向く。
 そして言う。
「ねぇ、どうする?」
 彼女の微笑みが、夕焼けのせいだけというわけでもなくて赤くなっていたのに、一也は全く気がつかなかった。
「もし私がここで『告白』したら」
 言いながら、遙はかかと立ちをしたりして、軽く笑った。後ろ手に持った鞄を揺らし、続ける。
「ねぇ、一也。一也は私が『一也のこと好だよ』って言ったら、どう答える?」


 一也は別に何も答えなかった。
 ただ、答えなかった。困ったというわけでもなくて、いつも通りの表情で、頭を掻いたりして、答えなかった。
 だから、遙は笑った。いつもと同じように。
「悲しいなぁ。私、魅力ないのかなぁ。一ヶ月近くも二人暮らししてるのに、一也は手ェだそうともしないんだもんなぁ」
 くるりと振り向き、とことこと歩き出す遙。一也はそれを追いながら、言う。
「僕にだって、選ぶ権利ってモンくらいある」
「なんか、むかつく言い方。あーあ、悲し。一也くんのためにと思って、毎晩、一也くん好みの可愛い下着つけて寝てんのに」
「なんだそれ」
「私は何でも知っている〜♪たとえば、押入の中のバッグの中〜♪」
「遙、プライバシーの侵害って言葉知ってる?」
「怒っちゃイヤ。不可抗力なんだから」
 笑っていた。遙も、一也も。いつもと同じ。
 夕焼けの帰り道。川沿いの遊歩道。一也はふと、思い至った。
 こうやって遙と歩くの、もしかして初めて?
 半年近くも一緒にいたのに、こんな当たり前っぽい風景を、一度も作ったことがなかった。何でだろう…避けていた訳じゃ、ないはずなのに。
 立ち止まっていた。遙は、川向こうに見える夕日を見つめて。
 3メートルの距離が、いつの間にかなくなっていた。
「ねぇ」
 遙の小さな声が、一也の鼓膜を揺らす。
「答えてくれる?」


「夕焼けが綺麗だねぇ…」
 ぽつりと、睦美は呟いた。
 学校の校庭に続く、わずか数段の階段。ここからだと、校門が微かに見える。つまり、報道陣達がこちらを見ているのが、微かに見えるわけである。
「あ…」
 それにちらりと視線を走らせた吉原は、
「あ、連中、帰るみたいですね」
 わらわらと帰り支度をし始める報道陣を見ながらに呟いた。
「バレましたかね?」
「ま、いいでしょ」
 睦美はため息混じりに口を曲げて見せる。
「私たちの仕事はもう終わり。エスケープ事件も一也くんと遙の分まできっちり怒られたし、二人も上手く西門から帰らせたし、連中もこうして引きつけておいたし。後は、私らの仕事じゃないわ」
 ふん、と睦美は鼻を鳴らした。任務完了と、夕日に向かって仁王立ち。それを見て、吉原は笑っていた。
「遙、ちゃんと家に帰れたかな」
 ぽつりと、夕日を見つめながら言う恭子。
「だいぶ、参ってたみたいだったし」
「だいじょうぶだ、キョーコちゃん」
 睦美は夕日に向かってきっぱりと言う。
「一也くんがついてる。何のための一也くんだ」
「遊び道具としての──」
「吉原くん、君は私のことをなんか勘違いしているね?」
「違うんですか?」
「遊び道具じゃ、ない」
「そう言う否定の仕方はないでしょう」
 恭子は眉を寄せながら笑っていた。
 夕日が、白い校舎を赤く染め上げていた。その校舎の下、校庭に続く階段の最上段に仁王立ちの睦美。その隣りに腰を降ろした吉原。一段降りたところに恭子。そしてそこからさらにもう二段降りたところに、詩織が座っていた。
 夕日は、校舎と同じに、四人も赤く染め上げていた。
 睦美は夕日を見つめながら鼻を掻いた。なんか、かゆくなったのである。そして、その鼻をごしごしと掻きながら、言った。
「でも──よかったの?」
 と。
 本当なら、聞かない方がよかったのかも知れないことを。
「──いいんですよ」
 ぽつりと詩織。夕日を見ながら、小さく息を吸い込み、言う。
「私は、全部知っちゃってるから…吉田君のことも、センパイのことも」
「ふぅん…」
 じっと夕日を見つめたままの詩織を、睦美も見なかった。じっと、夕日を見続けていた。それは恭子も、吉原も。
 詩織は言う。ちょっと、消え入りそうなか細い声で。
「これで、もう終わりなんですよ。きっと」
「ふぅん…」
 睦美は、喉を鳴らして答えていた。


「ねぇ、答えてくれる?」
「何を?」
「ねぇ、『好き』とか、『愛してる』ってどういう感じ?一也には、それがわかる?」
 遊歩道を一言も話さないで歩いていた時間、それは、二人が一緒に過ごしてきた時間に比べれば、ごく短いものであった。
 それは、ごく短いものではあった。だけれど──
「私が今感じてる想いは──やっぱり違うかな?」
 笑って、素っ気なく呟くようにして、遙は言葉を紡ぎ出す。
 一也は言う。ちょっと大きく息を吸い込んで。
「何をしおらしくしちゃってるの?」
「うん…キャラじゃないよね。でも、私だってこれでもピュアな女の子なんだよ」
「ピュア?」
「殴るぞ」
「僕が悪かった」
「そ。女の子の気持ちを踏みにじってね」
「なんでよ」
「やっぱ、一也なんかキライだ」
「今日二度目」
「一也なんか大キライ。だって、一也、誰にでも優しいんだもの。優しくて、優しすぎて、もし、私が今──」
 遙は微笑みながら、一也のことをまっすぐに見て、言った。
「キスして──って言ったら、してくれちゃいそう」
 戸惑う一也に、遙は小さく息を吸い込むと──


 笑いながら、駆けだした。
「あはは!困ってやんの!」
 川沿いの遊歩道を、遙は笑いながら、踊るような足取りで駆け出した。
「な…なんだよ!おま──!!」
「やっぱ、一也からかうのって面白いわ。なんか、憂鬱な気分もどっかいっちゃうね」
「人を玩具みたいに!」
 一也は怒鳴るようにして言うと、走る遙の後を追った。駆け出す直前に一瞬だけ見せた彼の表情は、誰の目にも映らなかった。
「ばーか。捕まるかってー」
 遙は笑いながら走る。けれど、何かに思いついて、一瞬だけ立ち止まって、笑って、
「でも、本当はキスしたことあるんだよ」
 なんて言って、また走り出した。
「なん──!?」
「内緒なんだけどねー」
「お前──何時だよっ!?」
「内緒なんだってば!あ、今、じゃ言わなきゃいいじゃないかって思ったでしょう?」
「思ったよ!」
 その声がすぐ近くでして、
「Wow!」
 遙は、突然のことに目を見開いた。
 追いついた一也が、自分の肩に手をかけたのである。
 躓いて、転びそうになる。
 とっさに前のめりになる遙の身体を受け止めるように手を差し出す一也。けれど、ちょっとばかり間に合わなくて──何とか身体の位置を動かした一也に、二人は、土手の方へと倒れ込んだのであった。
 草葉が宙に舞う。
 遙は、とっさのことに目をつぶる以外のことはできなかったのだけれど、それでも、頭を抱えてくれた手の存在には、気づいていた。
 くるんと土手の上で一回転をする二人。そして二人は、大の字の格好になって、そこに寝転がった。
 遙は笑っていた。大の字になったままで。
「夕日が綺麗じゃん」
 赤くなった高い空を見つめ、遙は言う。
「あー…焦った」
 とは、一也。こちらは目を閉じて、軽く口許を弛ませているだけ。
 寝転がったまま、二人は弾む息を軽く整えた。吐き出された微かに白い息が、夕日の中に踊っていた。
 どきどきと脈打つ心臓の音に耳を傾けながら、遙はそっと、目を閉じて言った。
「一也も、なんか悩んでる感じだった」
「ん?」
「この前からずーっと、そんな感じだった」
「そう?」
「毎日顔あわせてるんだもの。わかるよ」
「そうかな?」
「一也、何でもため込むときあるもの。香奈さんのこともあったし、私のこともあったし、他にもいろいろあったし」
「──ちょっとは、そうだったかもね」
「答えてあげるよ」
「何が?」
「一也が考えてること、悩んでること。私も一緒になって考えてあげるよ。で、答えてあげるよ」
「いいよ」
「なんで?」
「もう必要ないもの」
 一也は目を開けていた。
 赤い、夕焼けの空を見上げて。口許を、軽く弛ませて。
 だから、言っていた。
「もう、答えは見つかったから」
「ふぅん…そうなんだ」
「そう。そうなの。そうだよ。遙だって、なんか言ってたじゃない。あれの答え──」
「それはもういいの」
「なんで?」
「もう必要ないもの」
 遙も目を開けていた。
 同じ、赤い、夕焼けの空を見上げて。同じように軽く、靴もとを弛ませて。
 だから、同じように、言っていた。
「もう答えは見つかったから」
「ふぅん…そうなんだ」
「そう、そうなの」
 赤い夕焼けの空を二人、その会話を最後に黙ったまま見つめていた。
 そして──
 二人、ほとんど同時に、吹き出していた。









       3

 夜風に、秋から冬に移り変わろうとする季節の流れが感じられた。
 村上 俊平総理は、その星の見えない移りゆく季節を映す夜空に向かって、「ふぅ」白い息を吐き出す。
 何かを考えるような沈黙。けど、別に何かを考えていたりする訳じゃない。すぐにかき消えた白い息、その後をただぼうっと眺め続け、また、村上総理は漆黒の空へ向かって息を吐き出した。
 首相官邸。一階。
 表玄関の真裏。南側の庭に面する場所にポーチがある。
 村上総理は、そこでただぼうっと夜空を見上げていたのであった。(注*9)
 また、息を吐き出す。
 ただそれの繰り返し。
「何をしているのかと思えば──」
 そう言いながら、ポーチに接する会議室から姿を現した男に、村上総理は驚いて目を丸くした。そして、目を丸くしたままで言う。
「お義父さん!どうしたんですか!?」
「いや…ちょっと、小耳に挟んだ情報を、報告にな」
 そこには口許を弛ませて笑う、村上 正次郎の姿があった。第一党元党首。言うまでもなく、現総理村上 俊平の義理の父、遙の、祖父である。
 正次郎は、きっちりとした三つ揃いのスーツを身にまとっていた。歳はもう八十になろうかと言う頃だけれど、すっと伸びた背筋、きちんと刈られた髪は、全く歳を感じさせない、凛とした雰囲気を放っていた。
 村上総理は苦笑を浮かべながら、義父に向かって言う。
「いや…お恥ずかしい限りです。きっと、お義父さんが小耳に挟んだ情報というのも、今回の件のことなんでしょう?」
 頭を掻きながら言う村上総理に、正次郎は笑う。笑いながら、ゆっくりと彼に歩み寄り、
「そっちにも有能な連中がいるかね?もう、知っているか」
 そう言って、スーツの内ポケットから取りだしたシガレットケースを開け、煙草を二本取りだした。
「ま」
 と、一本を差し出す。
「これは…どうも」
 受け取った煙草を、村上総理は口にくわえた。かしゅっと響く音。散る火花。オイルの匂い。正次郎の手の中で燃える火を、村上は煙草で受けとめた。
「明日には、正式に発表だ。私もいろいろ動いたんだが、今回ばかりは、駄目だったな」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや…」
 呟く正次郎。彼も自分の煙草に灯をともす。
「…かまわんよ」
 二人は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと、長く、漆黒の夜空に向かって白い煙を吐き出した。
「未練はないのか」
 正次郎は言う。
「ありますよ」
 と、あっさり返す村上。
「けれど、仕方がありません。自分の仕事は、これでもう終わりです」
「いつの間にか、ずいぶんと大した政治家になったものだな」
 正次郎は笑った。彼が、まだ大学院を出たばかりのひよっこの頃から知っている。ひよっこの頃から知っているからこそ、笑わずに、言える。
「だから、政治家になんてなるなと言ったんだ」
「未練はあっても、後悔はしていませんよ」
 村上は夜空に向かって煙を吐き出しながら続ける。
「確かに、自分はこの国の首相には向いていなかったかも知れない。けれど、今、こうして、あの頃と同じ気持ちでここに立っていられて、未練はあっても、後悔せずにやめられる自分を、誇りに思っています」
「だから、政治家になんてなるなと言ったんだ」
 正次郎は笑っていた。笑いながら煙草を目一杯吸い込み、
「もったいない」
 大きく吐き出す勢いに、小さく言う。
「そうですかね?」
「ああ。そうだ。それに何故、お前は真実を言わない?お前達しか知らない、真実を言わない?言えば、それでもう終わりだろう?」
「そうかも知れませんね。けど──」
 村上は目を細めた。赤い光を闇夜に踊らせ、それを見つめながら、ぽつりと呟く。
「真実ってどんなモンでしょう?」
 別に、悪役を演じ続けようとしたわけじゃない。だからといって、本当は自分はいい人間なんだと思ったこともない。ただ、誰かが作ったもっともらしい嘘を、いつの間にか自分でも「本当の事」のように感じてしまっていただけのことだ。その方が、ある意味で楽だったから。
「何が正しくて、何が正しくないか」
 呟く自分に、村上は笑う。
「──ま、そんなこと僕にとっちゃ、どうでもいいことなんですけどね」
 もちろん、その道の選び方は、もしかしたら誰かを傷つけることになってしまうと、彼自身もわかっていたのだけれど。
 正次郎も笑っていた。笑いながら、呟いていた。
「だから言ったんだ。政治家になんてなるなって」
 沈黙の中で、二人は煙草をふかしていた。


「今年のクリスマスイヴは、久しぶりに、普通に家族で集まれるな」
 正次郎は言う。
「そうですね、僕も、そのころは無職でしょうし…遙も日本にいますしね」
「光代に、なにか美味いものでもこさえさせよう。きっと、二日も前から準備するぞ。何年ぶりかと喜んでな」
「──悪くないです」
 村上は言う。
「何年ぶりくらいになるんでしょうね…」
「お前達の、婚約記念日を祝うのは?」
 すべてを知って笑う正次郎に、村上は口許を曲げながら返した。
「──と。遙の誕生日を祝うのは」
 手にしていた煙草を夜空に向かって弾き飛ばしながら、村上は笑った。


 赤い火の粉がコンクリートの地面に落ちる。
 革靴のつま先は、それをもみ消して歩き出した。
 東京副都心、新宿。
 急ピッチで、この街も再開発が進んでいる。瞬くネオンが、少しずつだけれど、数を増してきているのを、誰もが知っていた。
 それは誰もが知っていたのだけれど、言うまでもなくそれは、この街の綺麗な一面でしかなかった。
 都庁の灯り。その周りの、無傷の高層ビル群。おごるように、闇夜空に赤い光を明滅させている。
「──憎たらしいくらいだな」
 ぽつりと呟いて、小沢はネオンから目を背けると、新宿の地下街へと降りる階段を下り始めた。
 響く靴音。その靴音に、人々がゆっくりと顔を上げる。
 地下街に作られたその街には、段ボールの家々が軒を連ねていた。
 小沢はため息を小さく吐き出す。
 この街の住人は、皆、何らかの理由で──たとえばそれはエネミーの襲来で──家を失った者達に違いなかった。そして、この土地に仕事を求めてやってきた者達がそのほとんどであるのに、違いなかった。
 小沢はその間を、足を弛めることなく抜けていく。
 妙な来客に、その街の住人達は視線を送っていた。スーツ姿の青年。この場には、似つかわしくない男。
 視線の中を、小沢はまっすぐに歩いていく。迷うことなく。
 彼は、自分が訪れるべき場所を、すでに知っていたのである。
 一件の段ボールハウスの前で立ち止まる小沢。そこの住人が、ゆっくりと顔を上げる。
 小沢はその老人に向かって、言った。
「石野先生ですね?」
 その老人は軽く口許を弛ませると、突然の男の問いに戸惑った様子をおくびも見せずに返した。
「君、酒は飲めるかね?」
「え…いや…はぁ。まあ」
 戸惑ったのは小沢だ。そんな返事が返ってくるとは、流石の彼も、思ってもみなかったのである。
「酒は百薬の長──となァ」
 老人は笑いながらコップを二つ取り出すと、そこに一升瓶から酒を注いだ。よく見るとそのコップも空になったワンカップの入れ物である。
「飲みねぇ。あいつの知り合いなら、いけるんだろう?」
 老人は笑う。それは、小沢の問いに対する答えでもあった。
 小沢は小さく頷き、その場に座り込んだ。スーツ姿であったのだけれど、コンクリートの上に、直に。
 老人は笑う。そして小沢に酒を勧める。
 二人は手にしたワンカップのコップを、ひょいと持ち上げて会釈しあった。
 そしてそれを、二人は一気に半分程まで喉に流し込んだ。
 喉を流れていく熱い感覚に、眉を寄せる小沢。思わずせき込みそうになる。ずいぶんと日本酒度の高い酒だったのである。
 眉を寄せる小沢に、老人はただ笑っていた。(注*10)
「名前は?」
 老人は言う。
「小沢といいます」
 何とか返し、続ける小沢。
「いろいろと調べていて、あなたにたどり着きました」
「何を調べていて?」
 口許を弛ませながら言い、老人は酒をその口へと運んだ。聞き返すまでもなかった。わかっていた。つまり、彼の問いから、逃げたのである。
 しかし、小沢は老人の目を見据えて問い続ける。
「BSS。Brain Scanning Systemを調べていて」
「──そう」
 老人の目が一瞬曇ったのを、小沢が見逃すはずもなかった。だけれど、それはその一瞬だけだった。
 老人はもとの力の抜けたような表情と口調で笑い、返す。
「BSSか…懐かしい名前だなァ。遠い昔に、私もそんな夢のようなものを追い求めていた時期があったっけかなァ」
 その老人の口調に、小沢はワンカップのコップをぎゅっと握りしめた。感情を抑え、自らの用意してきた台詞を、ゆっくりと続ける。
「僕は、それを作り上げた人たちを、よく知っています」
「そうか。あれを完成させたのか。大したモンだ」
「そして、それを作り上げた人の一人との約束を果たすために、ここに来ました」
「約束?」
「石野先生、あなたの作りたかったBSSは、一体どんなものだったんですか?」
 彼女は自分が考えていたそれを覚えていない。
 ただ、漠然と、それを護らなくちゃいけないという感覚だけを覚えていた。人に渡しちゃいけない。悪用だけはされちゃいけない。どうしてなのかはわからない。けど、BSSは、多くの人が考えているように使われるべきものじゃない──ただ、そんな漠然とした感覚にだけ、捕らわれていたのだった。
 だから、知りたがった。
 それを作ろうとしたわけ。自分が思っていたこと。
「僕に、教えてくれませんか?」
 小沢が握りしめたコップの中から、透明な滴が、微かにこぼれた。


「私が作りたかったBSSは、どんなものだったんだろうなァ…」
 老人は、ゆっくりと小沢から視線を外しながら呟いた。
「もう、忘れてしまったよ。きっと、その子の作りだそうとしたものと、根本的なところでは一緒だったのかも知れない。けれど、私はそれを作らなかった。何でか、君にわかるかね?」
「わかりません。何故ですか?」
「私は、現実を目の当たりにしてきたから。それを、知っていたからだろうなァ」
「彼女はそれを知らなかったから、BSSを作ったと?」
「どうかな。もしかしたら、その子も現実をわかっていたのかも知れない。だからこそ、それを作ったのかも知れない。それを護ろうとしたのかも知れない。傷つくことになって、すべてを失うことになったとしても」
「先生…あなたは──」
 小沢の問いかけの台詞を、老人は最後まで言わせなかった。
 大きくため息を吐き出し、老人は言う。
「私は、現実を知っている。それを目の当たりにしてきている。けれど、BSSを作らなかった。必要だったかも知れないのに。要するに、私は、逃げていたんだよ」
 逃げていた──んじゃないな──逃げているんだ。
 老人は、少しだけ笑って続ける。
「君も、ここに来るまでの間に、この街を見てきただろう?これが、現実なんだよなァ」
「この街の、綺麗じゃない部分?」
「この国の、汚い部分。誰もが目を背け、他人に見せたがらない部分。それが、ここにあるんだよなァ」
 老人はカップの酒を飲み干すと、再びそこになみなみと酒を注いだ。小沢は彼の言葉を待った。彼は、カップの酒を半分以上ぐいと喉に流し込んでから、続けた。
「私は、それを前に口をつぐんだ。この現実を見せたくなかった。人々に知らせたくなかった。傍観することで、逃げることにした」
 だから、BSSを作ろうと思えなかった。戦おうと思えなかった。
 だけれど──
「だけれど、忘れちゃいけない」
「──なにをですか?」
 小沢に問いに、老人は笑った。
 自分も忘れていたかも知れなかった。けれど、あの子に会って、思い出した。逃げるだけだった自分を、自嘲することができるようになっていた。
 その自嘲を口許に浮かばせて、老人は言った。
「この現実は、彼らがいなければ、ここになかったことを。その存在すらも、危うくなっていたことを」
 ふいと老人が視線を走らせた先には、階段があった。それは地上へと続いている。そこにはなにがある?そう、小沢に目で問いかける。そこにあるもの──それは、そこに現実に存在している。暗と明。だけれど、それは表裏して、現実にそこに存在していた。
 老人は言う。
「なんでかな?どうして人はどちらか一方しか見ることができないのかな。もちろん、私もそうなのだけれど」
「何故──でしょう?」
「なんでかなァ…それは、私にもわからないんだなァ。ただ、ひとつだけ言えることは、ある」
 老人は笑いながら小沢に聞いた。
「なんだかわかるかね?」









       4

 静かな夜。
 かちっと鳴った小さな音に、時計の長針と短針と秒針とが、重なった。
 午前0時。
 彼女は白く細い指でディレクターの出したキューにカフをあげる。
 静かな夜に、静かに、彼女の声が流れ始めた。


 Nec本部、作戦本部室。シゲはラジオの前で整備報告書に目を通していた。斜向かいの机では、教授がこっくりこっくりと居眠りをし始めている。ソファには、ついさっきまで日本語という文字を見つめていたベルが、小さな寝息を立てて眠っていた。


「こんばんは。以前に予告していたとおり、今日がこの番組も最終回です」


 電車の中。明美助教授はぼうっと、窓の向こうを見つめていた。
 流れていく街の灯。ただそれを、ぼうっと。
 定期的な揺れと音。心地よいリズムに、明美助教授はそっと目を閉じた。


「最終回を前に、この番組を聞いてくれたみんなに、伝えたいことがあります」


 小沢は愛車に寄りかかったまま、赤い灯りを星空に混じらせながら、カーラジオからのその声に耳を傾けていた。
 立ち上る、細く白い煙。それを見つめていた小沢は、小さなため息を吐き出すようにして、それに息を吹きかけた。
 赤い光の輝きが、少しの間だけ、増した。


「でもね、それは私が伝えることなんだけど、私の事じゃないの。でも、みんなはわかってくれるよね。もう一人の私。そのもう一人の私から、私のパートナーへの、伝えたいこと」
 マイクの前で、柚木 園子は微かに微笑んだ。


「ねぇ、聞いていてくれてる?聞いていてくれていないかも知れないね。でも、それはそれでいいや。私も、聞かれるのは、本当は嫌だし。けどね、言いたいの。だから、何も言わずに聞いていて」


 遙はうつぶせに眠っていた。
 枕に顔をきゅっと押しつけて。いつもなら、まだ眠ってなんていない時間。眠れてなんていない時間なのだけれど、今日は、いつもとはちょっと違っていたんだった。
 枕に隠れてわからなかったけれど、その顔は、ちょっとだけ、笑っていたんだった。


「私たち、なんで戦うんだろうね?傷ついて、傷つけられて、それでも戦う。なんでだろうね。この国は、そこまでして護るべき価値があると思う?でも──そんな風に私が聞いても、きっと答えてくれないんだろうな。だからね、私は、勝手に考えることにしたんだ。この国は、護るべき価値がある──って」


 ベッドの上で、一也は目を閉じていた。
 眠ってはいなかった。部屋の明かりは消えていたのだけれど。
 静かに響く、時計の音。
 ほの暗い部屋の中にひとつ、弱く輝く赤いダイオードの光。
 何も言わず、一也は目を閉じていた。


「ねぇ、勝手にそう思うことにしたけど、それでも、やっぱり護ってくれるでしょ?護ってくれるよね。だって、私たちがいるんだもの。だから、私たちも護ってあげるね。そう決めたの。──だから──」


 彼女は言う。
「好きだから」


「私たちが、護ってあげる。傷ついて、戦いたくなくなって、辛くなってしまったら。だから、私たちを護ってよね。背中を押してくれる人がほしいなら、私が押してあげるよ。世界中が敵に回っても、私たちが味方になってあげるから」


「心強いでしょ?」


 目を閉じたままで、一也は細く口許を弛ませた。
 一也は小さく息を吸い込むと、ゆっくりと心地よい眠りの中へその身を委ねていった。


「あなたがほしい言葉、私がかけてあげる」


[to be continued 2/3]